六冊目 白夜行 その三
「永遠の仔……」
ミキミキがどうしてだが綺麗な発音でもう一度繰り返した。
なるほど。永遠の仔ね。自分も心の中で繰り返す。今度もまた想像していたより重たい小説だったからだろうな。分量的な意味ではなく、内容的に。
永遠の仔。
比べるのも失礼になるが、私と同じく寡作な作者が放った、文庫本にして五分冊という弩級なボリュームの小説。しかし読み終わった後、読者はこの小説のテーマの難しさと膨大な参考資料の数に、如何にこれを書き切るのが難しかったか、否が応でも想像させられるだろう。
今でも読んだ人の心を捕えて離さない悲劇的なストーリー。悲劇的なんて形容すらおこがましいかもしれない。読んだ人にそんな言葉で語るなって怒られそうだ。
心に闇を抱えた一人の少女、久坂優希と同じく闇を抱えた二人の少年が、優希の父親殺害を決意することから物語は始まる。三人は秘密を抱えたまま大人になり、それぞれ別の道を歩んでいくことになるのだが……、十七年後、導かれるように再会を果たす。止まっていた運命の歯車が動き出した――。
あらすじとしてはこんな感じ。この辺は文庫本裏のあらすじにも書いてある。
たしか、先に上げた白夜行と発行が同じ年なんだよね。このミスを一、二位で競ったんだとか。私たちが生まれる前のお話。どちらもかなりの大作でありながらベストセラーで、且つ、めっちゃ重たい小説。繰り返し言うが内容の話ね。世紀末って暗いものが好まれたのかなあ?
「いいよねー永遠の仔。私も好き。どういうところが好きなの?」
「あのねぇ? あのねぇ?
――決して、過去の過ちからは逃れられないところ」
「……へえ」
なんだろう? 彼女の過去が心配になってきた。まさかの天丼芸。いや、これは果たして天丼芸なの? 振ったつもりないよ?
私はてっきり、三人の生き様がーとか、ラストシーンがーとか、事件の真相がーとか、そんな会話展開を予想していたのに。
「過ちってねぇ、一生付いてまわるんだろうなぁ、って、この小説読むと思うのぉ。付き纏うっていうかねぇ?
何時までもぉ、自分の生きて行く道にぃ、暗い影を落としていくんだろうなぁ~ってぇ」
視線はやっぱり姉へと注がれている。にこにこと。
あれ? もしかして私たちループしてる? リープはなくともループはあった。つい先日の思い出したくもない記憶が頭に蘇り、ミキミキほどじゃないけれど、頬に汗が伝った。
そのミキミキは青い顔してぷるぷる震えてる……。
よし。時を戻そう。って……したらまた同じことの繰り返しになりそうだ。よし。話を変えよう。うん。そうした方がいい気する。こちらから質問しといてスルーするのは気が咎めるけど、なるべく不自然にならない形で少しだけ話をずらしてみよう。
「えっと……他に、最近読んだ小説で面白かったのってある?」
「あぁ。それならぁ。えっとねぇ、えっとねぇ? ゆうざいかなぁ」
「有罪?」
リーガルミステリかな? 法廷ものはあんまり詳しくないなあ、私。何かおすすめあったら教えて欲しいくらいだ。
夢々ちゃんはふるふると首を振った。
「ううん。違うぅ。有罪じゃなくて友罪」
「へえ。誰の書いたの?」
「薬丸岳(やくまるがく)先生」
「ああ。天使のナイフの」
発音は「せんせい」が「せんせいぃ」になっていた。
薬丸岳。天使のナイフで江戸川乱歩賞を受賞した作者。私としては、少年犯罪に多大なる関心を寄せる社会派ミステリ作家という認識。
私はデビュー作は読んでいたけれど、不勉強ながら友罪は読んでいない。そっちの方が有名だったかな? どっちも有名か。最近、映画化もされていたよね。たしか。
書店で天使のナイフとどっちを読もうかと悩んだ末、その本の厚さに尻込みしてしまった私は、多少薄かった天使のナイフを手に取ったのだった。
興味を惹かれた。
天使のナイフもすっごく面白かったし、どういう本か訊いてみよう。
「どんな本なの?」
「あのねぇ? あのねぇ?
――あなたは、過去に重大な罪を犯していた友だちを許せますかってお話」
「……へえ」
なんだろう。過去に囚われ過ぎではないかしら? 彼女にはなんだかこう、ハッピーになれる小説を贈ってあげたい。詰まっていた漫才小説を書く意欲が湧いてきた私である。
けれどしかし……難しい問題だ。過去に罪を犯していた友だちを許せるか許せないか? ふうん。今日帰りに本屋でも寄って行こうかな。少し考えたくなった。
瞳はやっぱり姉へと注がれている。その姉の目尻から汗が流れて一瞬涙みたいに見えたけれど、気のせいだろう。
「夢々ちゃんは許せる?」
「わたしは許せないかなぁ? えっと、お名前ぇ……」
「あ。そだそだまだ自己紹介してなかったね。亜以だよ、亜以。水乃戸亜以」
「あいちゃんって呼んでいーいぃ?」
「どうぞどうぞ」
注意が戻る。かわいいなあ。幾らでも呼んで。もっと呼んで。
「あいちゃんはぁ?」
「私は……うーん……」
姉妹を見た。妹の方は未だ難しい顔してスマホを睨んでいて、姉は何故か祈るようにして私を見つめている。何故に私は拝まれているんだろう。
「許せる……かなあ……程度にもよると思うけど……」
パアッと姉の顔が光り輝いた。まるでたった今神様に救われたかのよう。ほんと、さっきからどうしたんだろうこの姉子。せっかく教室に幼馴染来たんだから少しくらい喋ればいいのに。普段からアップダウンの激しい子だが、今日はいつになくそれが激しかった。
そういえば、妹子の方が「お姉ちゃんさ。なんか隠してる?」って訊いてたな。そのことと関係あるのかな?
「東野圭吾では他にどんな本が好きなの?」
当たり障りのない無難な会話を選んだつもりだった。
だって東野圭吾だ。万人が読んでるもん。このまま、じゃあ三番目に好きなのは? って尋ねてまた過去のトラウマ本みたいなの挙げられても反応に困ってしまう。
しかし、後々思い返してみれば、追い詰められていた彼女にとって、これが最後のひと押しになってしまったのだろう。直前で、ほんの少しだけ救いの兆しが見えたことも理由の一つかもしれない。
「う、うぅ~んんん」
悩む少女に私は答えを予想。この子のことだし、明るい笑顔で「悪意!」とか答えてきそう。ならば私も明るい笑顔で「私は殺人の門!」とでも返しておくべきか。
だがしかし、
「秘密!」
少女の口にした小説は数ある東野圭吾作品の中でも、人気で言えば上位に入るような、言ってしまえば定番な小説だった。
秘密。1998年発行。
あらすじとしては、妻、直子と小学五年生の娘、藻奈美を乗せたバスが崖から転落。妻の葬儀の夜、意識を取り戻した娘の体に宿っていたのは、なんと死んだはずの妻だった。その日から杉田家の、切なく、奇妙な『秘密』の生活が始まった――。
といったストーリー。
あらすじだけ読むと割と漫画的に映るけど、内容は至って真面目。この作品については夫婦のギクシャクしたやり取りだったり、作品を漂う全体の切なさだったり、どこに面白さを見い出すかってのが人によってかなりバラける。
私は読んだのが中学一年生だったので、小説中のえっちなやり取りに、妙にドギマギしてしまった小説だった。小説中のとあるやり取りが最初、なんのことだかわかんなくて調べてからそのことが強く印象に残っていたりする。
言わないけど。
「いいよねー秘密。私も好き。どういうところが好きなの?」
夢々ちゃんは最後のおかずである、カボチャの煮付けを口へと運んだ。口に入れたが瞬間、顔が綻ぶ。さっきまでとはまた違った笑顔だった。どうやら、好きな物は最後に取っておく方らしい。のそのそと、もぐもぐした後にゆっくりと口を開いた。
「あのねぇ? あのねぇ?
――一生、口に出来ない秘密を抱えて生きていく人って、一体どんな気持ちなんだろうって――」
「ごめんなさい」
言葉は途中で遮られた。言葉は私の下方から聞こえてきた。
土下座をした少女がそこにいた。丸まる背中。まだ真新しいスカートの裾が汚れるのも厭わず少女は脚を綺麗に折り畳んで、床に両手を付いていた。
そして、上げた顔には滂沱の涙が流れていた。綺麗な顔をぐちゃぐちゃに変化させていた。私の視線は流石にある程度会話したことで慣れてきていたのか、最後の方はミキミキから夢々ちゃんへと移っていっていた。この双子は視線を外したすきに、瞬間的に物事を終えてしまうことに長けているようだし、私が視線を外しているほんの少しの間に移動したらしかった。
正面で百面相していた姉が、今は、私の足元で土下座をしていた。
プライドの高いあの姉が。妹の方ではなく姉が。あのミキミキが。
教室の只中で土下座。
「は?」
なに? 突然なに? どしたの?
混乱する私。もちろん私だけではなく。
「お、お姉ちゃん?」
「どぉしたのぉ?」
妹は慌てながら戸惑いの表情で姉を見つめ、夢々ちゃんは心の底から心配するように立ち上がって、彼女の元に駈け寄って背中を擦った。心優しい子である。
「亜以のカボチャを壊したの、実はわたしなの!」
堰を切ったように溢れ出したその言葉を、私はささやかな笑顔で受け止める。
「……へえ」
自分でも声がワントーン下がるのを感じた。
「こっわ」
ミキの思わず、といった呟きが耳に聞こえたが、その意味をきっと私は理解していない。そちらに割く思考的余裕がない。だってそうだろう。幼少期のトラウマだ。その原因が目の前にいる。目の前にある。他人から見れば些細なこと。つまらないこと。しかし、私の人格形成に多大な影響を及ぼしたその原因、その元凶、その犯人――それが目の前にいるのだ。私の全神経は、目の前で土下座し、涙を流している奴へと集中している。
あの日から何度も繰り返した記憶が瞬間的に脳内を駆け巡り、偉そうにふんぞり返っていたミイラと目の前で涙を流すミキミキの姿がぴたりと重なる。
やっと見つけた――。
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