絶滅危惧の奇習についてのひとりごと

 最近、昭和初期のことを調べていたせいか、急に亡くなった祖母のことを思い出した。岩手県出身の、母方の祖母である。


 2021年は祖母生誕100周年の記念イヤーだったらしいので、和暦で言えば祖母は大正10年生まれだ。

 昔一緒に暮らしていたのは父方の祖父母であるが、父方のロックで自由気ままな祖母とは正反対の「ばあちゃん」だった。よく思い出そうとしても、ほっかむりをして、床を雑巾で拭いていた姿ばかり浮かぶ。大変な働き者だったが、のび太くんのおばあちゃんのような優しい雰囲気ではなかった。

 厳格で、無口で、ちょっと怖い。


 しかし私や妹たちが祖母を怖いと思うのも仕方なかったのだ。なにしろ幼い頃は、ほとんど祖母と会話ができなかったのだから。

 祖母はぼそぼそと喋るし、声が小さいし、ひどく訛っていた。

「何言ってるのか全然わかんないけど怒ってる!」というのはわかるので、何をして叱られたかはさっぱり覚えていないのに「怒っている」という印象ばかりが強い。


 祖母が暮らす家は、いかにも田舎の日本家屋らしい大きな家だった。祖父はかなり若い頃に亡くなっており、その家は長男である伯父が建てたというので、実はそれほど古くはなかったようだ。


 子どもの頃はよく知らなかったが、本家というのか実家というのか、私の先祖が居を構えていたのはその家が建つ田舎町よりも、さらに辺鄙な海辺の町にあった。

 忍びの里だったのでは? というくらいわかりにくい場所で、10年後には少子高齢化で地図から無くなるんじゃないか、と親戚同士で話すくらいだ。


 伯父が家を建てたのは、その忍びの里から漁船をブーンと走らせた先にある土地だった。本当に、車で行くより船で行くほうが早いのである。しかしこちらの町は忍びの里より人里という感じがしたし、一応だが駅もあった。


 どちらにしろ、当時中野区民であった私には異世界のような田舎である。


 妹たちが幼かった頃、私はよく一人だけで親戚や祖母の家に預けられていた。

 7歳の春休みのこと。いつものように伯父が私を迎えに来たので、そのまま私は田舎の家に数泊した。


 昼間は神棚と仏壇のある広い和室で、漫画を読んだり絵を描いていたのだったか。少し年上のいとことは春休みがずれていたのか、その時はなんだか妙に一人でいる時間が多かった。

 当時はわけもなく色々なものをスケッチしていたので、仏壇に供えられた果物や、花瓶などを暇つぶしに描いていた。すると、祖母がやってきて、何か言う。


 相変わらず何を言っているのかさっぱりわからなかった。非常に気まずい。子どもながらに気を遣い、若干わかったふりなどもしてみせる。長子は必要以上に空気を読むのである。


 祖母はどうやら、神棚について何か言っているようだった。

 通訳をしてくれるいとこがいないので、私はうんうんとわかったふりで頷いていたのだが、祖母はやがて満足したように笑い、また去った。


 あれがなんだったのか、未だによくわからない。



 成長とともに私のリスニング能力が向上し、祖母とまともに会話ができるようになったのは小学校高学年になってからだ。

 というか、母が子宮の手術のために入院し、祖母が専業主婦として我が家にやって来たときからかもしれない。


 当時、私はポケットピカチュウをシャカシャカするのにハマっていたのだが、学校から帰って来るなりあの黄色くて愛しいポケットピカチュウを引っ掴み、祖母から「まだソrばrすトェ!!」と、相変わらず怒られていた。

 しかしこの頃にはもう「またそればっかりして!」と言っているのがわかるようになっていたので、昔ほど怖くはなかった。


 それでもまだ「ひいおじいちゃんてどんな人?」などと聞こうとすると難しい。なぜかうちの家系は人の名前がやたら格好良く、固有名詞がさっぱりわからなかったのだ。

 ただでさえ聞き慣れない「菊之丞」という名前を祖母が言うと「きknぞフ」という謎の名詞になってしまう。わかるかそんなん。


 そんなわけで、大きくなってからも祖母から昔の話を聞くことはなかった。今思えば聞きたいことや知りたいことが沢山あったのだが、本当に残念だ。


 伯父が建てた家は3.11の津波で見事に流され、私が3~4年前に見に行ったときは、その町があった場所はまるまる資材置き場のようになっていた。


 祖母が忍びの里から持って来た古い日記や家計簿も、古い着物や帯も、アルバムや写真や手紙も、いとこがコツコツ集めた「あさりちゃん」50巻分も、もう全部ない。家の跡地からはなぜかいつ買ったかもわからんMAXのCDだけ出てきたらしいが、それもますます虚しい。せめていとこが大好きだった浜崎あゆみだったら、と思う。


 そういえば、お盆のときに仏壇のどこに何を供えるかを私が絵にしたものが仏壇の後ろに仕舞ってあったはずだが、当然それもない。


 祖母は家を失くして生活環境が急に変わったことで、急にボケてしまった。震災から数ヶ月後に会ったとき、祖母はもう、お盆の作法どころか、ごはんの食べ方さえ忘れていた。


 そんな祖母を見て、そして件の仏壇のイラストのことを思い出して、私はあらためて「取り返しがつかないことが起きた」と思った。



 忍びの里には、かなり独特な葬式の作法があったらしい。

 全体的にとても不明瞭なので説明は省くが、これが結構すごいインパクトなのだ。


 ただ、岩手県別所の寺で大叔父の葬儀があったとき、私はそれの「名残」のようなものを見つけた。ルーツがどこかはわからないが、どうやら里だけの作法ではない。


 現在はその地域の風習を研究している者もいるんだかいないんだかわからず、歴史書もほぼ残っていないから、もしかするとあの奇習については、このままわからず終いになってしまうかもしれない。



 その作法がどんなものだったかを、私は埼玉在住の伯母から聞いた。しかし伯母は、集団就職のため14歳で抜け忍になっている。里でひじきを拾っていた14年より、埼玉県民として草を食い過ごした年月のほうが何倍も長いので、記憶がかなり曖昧になっていた。


 伯父ならば伯母よりは里の歴史に明るいだろうが、その独特な葬儀が行われていたのは伯母が小学生の頃までだったようだから、伯母より年少の伯父も、あまりよく覚えていないかもしれない。私の母は末子だし、やはり若くして抜け忍となっているので、葬儀の時のことはほとんど覚えていないという。


 里の生き字引のような抜け忍は他にも何人かいるが、皆80歳以上だ。

 一日でも早く彼らに話を聞いて記録に残さないと、また津波のときのように突然、色々なものが無惨に失われてしまうのではないか。

 と、私は最近、少し焦っている。


 だって人里離れた海辺の奇怪な葬儀の作法ですよ?

 よくわからないまま歴史から消えて無くなるなんてもったいないじゃないか、オカルト的に。


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