あっちっぱ
まったく覚えていないが、私が1歳くらいの頃、親戚のY姉ちゃんが我が家に居候していた時期があるらしい。
Y姉ちゃんは今でいう就職浪人だった。実家は東北で、3.11の津波で更地になってしまったが「あまちゃん」のような田舎町を想像してもらえばわかりやすいだろう。
そんなところではアルバイト先も漁協の加工工場くらいしかないが、東京なら、看護の資格を取る夜間学校へ行きつつ仕事もできるということで、親戚同士の伝手でY姉ちゃんは我が家へやって来た。
当時の我が家は埼玉県にあったが、東北民にとっては埼玉も東京も同じだ。大宮駅で2~3個石を投げれば1個は東北民に当たる。
Y姉ちゃんは新宿だか大塚だかの病院でアルバイトをするようになったが、いかにも「赤ちゃん盛り」の私の相手をするのが楽しかったようで、よく構ってくれていたらしい。
ちなみに、家は二階建ての一軒家だった。私の両親の他に父方の祖父母も同居していたが、その祖父母というのがロックな人たちで、なんだか皆それぞれ好き勝手に生きていた。なのでY姉ちゃんがベビーシッター兼留守番をすることも度々あったという。
当時の私は「おかあさんといっしょ」にハマっていた。今で言う「おかいつ」だが、なぜか「あっちっぱ」と呼んでいたそうだ。
私が頃合いを見計らって「あっちっぱ」と言うと、家族やY姉ちゃんが「あら、もうあっちっぱの時間だね」とブラウン管のテレビを付けてくれる。子どもの体内時計は案外侮れない。
あるとき、Y姉ちゃんは家に私と二人きりで、犬小屋の前で煙草を吸っていた。Y姉ちゃんは犬が嫌いだが、犬も煙草が嫌いなのか犬小屋から出てこない。それを良いことに、日光浴がてら気持ちよく2~3本スパスパと吸っていた。
すると、ガラス戸の向こうから「あっちっぱ」と声がする。私が昼寝から起きて、軒先までY姉ちゃんを探しに這って来たのだ。
「あっちっぱはまだだよ」と言いつつ、煙草がまだ残っているのでY姉ちゃんは窓の前に立ったまま動かない。
私はしばらく名残惜しそうに「あっちっぱ」と繰り返したが、そのうちまた静かになった。自分で言うのも妙だが、
Y姉ちゃんは煙草を吸いながらまた犬小屋のほうを向き、ぼーっとしていたが、不意にそばに誰かがいるような感覚がした。最初、その「誰か」がどこにいるのかわからなかった。周囲をよくよく見まわして、ようやくそれらしき人影を見つけた。
家の横は用水路になっていた。家と用水路の間には段差があり、河川敷めいた狭い通路もあるが、緑色のフェンスによって住宅地と通路と用水路はそれぞれ隔てられている。そのフェンスのあたりに大きな人が佇んでいた。家の目の前はちょっとした竹林なので、影がかかってよく見えなかったようだ。
きっと、なんとなく川を眺めたい気分の人なんだろう。しかし、それにしても大きい。Y姉ちゃんは「なんでぇ、熊みてぇなおんつぁんだな」と思った。
するとまた私が「あっちっぱ」とガラス窓の内側から叫んだ。Y姉ちゃんは振り向きながら、なんだか変だな、と思ったそうだ。先述の通り、私は非常に手がかからない静かな子どもだったので、少なくともY姉ちゃんは「あっちっぱ」が放送していない昼の時間帯に「あっちっぱ」と私が駄々をこねるのを聞いたことがなかった。
すり硝子越しではあるが「あっちっぱ」と言う私の顔は、明らかにY姉ちゃんのほうを向いていない。どこを見ているんだろう、と振り向くと、Y姉ちゃんのほとんど目の前に、先ほどの熊みたいな人が立っていた。
Y姉ちゃんはぎょっとした。その人影は真っ黒で、全身毛皮に覆われているようにも見えたが、見ようとすればするほど眩暈がするような感じがして、よくわからない。しかし頭だけはつば付きの帽子を被っているとわかる。
顔もはやりよく見えない。影のせいなのか、怖くてまじまじと見られないのか、あるいは顔部分が真っ黒で何もないのか、それもわからなかった。そしてやはり、縦にも横にも大きい。立っている状態のY姉ちゃんが見上げるほどの体躯だった。
「めんこいごった」
黒い影はやけにくぐもった声でそう言うと、また用水路のほうへ歩いて行った。くぐもってはいたが、身体の大きさに似合わず高い女性的な声だったという。着物や浴衣を着た人のような、ちまちました少し変な歩き方だったが、足のない幽霊がスーッと浮遊するような感じではない。
数秒後、竹林の陰に溶けるように、唐突にその人物は見えなくなった。
Y姉ちゃんはすぐに犬小屋から無理やり犬を引っ張り出して家の中に入れ、すでに寝こけている私を抱えて居間で家族が帰って来るのを待った。
結局、今でもそれが何だったのかはわからず仕舞いらしい。
「仮に幽霊だったとしても、幽霊まで東北弁かよって感じだよね」
そう言うY姉ちゃんも40歳で浦和のマンションを買った。きっとこのまま死ぬまで埼玉に暮らすと思う。
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