【短篇集】六花奇譚

平蕾知初雪

水道局の人

 私の人生初めての一人暮らしは18歳。地方都市も地方都市、生まれてこのかた住んだことがないようなカントリーサイド、某県S市でスタートを切った。

 ちなみに私は旧大宮市の出身、現在はさいたま市見沼区にあたる。かの地も私が4~5歳の頃は、犬の散歩がてら筍を獲れるくらいの田舎だったが、S市はその比ではない。


 田んぼの真ん中に大学のキャンパスがぽつんと建っている光景は、地方の公立大学に進学した人ならば大体想像がつくと思う。学生向けアパートは田んぼエリアの外側に建っていて、今思えば、一人暮らしの学生の8割程度は互いに徒歩で行き来できる範囲に住んでいた。


 だから「昨日の夜、宗教の勧誘が来た」とか「NHKのおじさんが嫌な感じだった」とかいう情報は案外重宝され、積極的に情報交換をしていたように思う。


 あるとき、我が家に水道局員を名乗る作業着の女性が訪ねてきた。

 覚えている人も多いだろうか。ガス局や水道局の職員を装い、部屋に上がり込んで狼藉をはたらいたり、ひそかに盗聴器を仕掛ける事件が頻発した時期があった。SNSでそのような案件の注意喚起がされていたのは2015年頃ではなかったかと思う。


 彼女が現われたのはそのような事件が明らかになるだいぶ以前だったが、やはり家の中に見知らぬ人間を上げるのは、女性相手といえど抵抗がある。が、仕事とはいえ見知らぬ人間の家に入るなんて、彼女のほうも嫌だろうな、と同情する気持ちもあり、結局私は彼女を招き入れたのだ。


 その人は無個性な作業着に帽子を被っていたが、当時のいとこの恋人と背格好が似ていたので、身長が少し高かったことや、茶髪のストレートヘアだったこと、声の感じなどは今でもなんとなく覚えている。


 彼女はリトマス紙のようなものを使いながら少々私に水道水の説明をした。が、正直、その説明が何だったのか未だによくわからない。

 塩素濃度の話であれば多少理解したと思うのだが、どうも塩素の話をしに来たのではないらしい。当時の私には、なぜか彼女の説明がまったく頭に入ってこなかった。


 彼女は私に「コップに水道の水を入れてください」と言った。特に指示されなかったので、確か100円で買った黒っぽい湯呑みに水を入れ、彼女に渡したと思う。すると、先ほどまで水道水の説明をしていたテンションと口調のまま


「ようけえ〇〇よなぁ。でえれぇ〇〇しようが、えろうもん〇〇〇、〇〇せられえ」


 と、突然語りかけ始めた。といっても、水に向かってというわけでもなければ、私に言っているふうでもない。その異様な様子に、さすがに面食らったというか、ぽかんとしてしまったのを覚えている。


 さすがにもう一語一句覚えてはいないが、おそらくすべて岡山弁だったと思う。きちんと聞き取れなかったのは、まったく知らない言葉が混じっていたからだ。


 彼女はいかにも「喉が渇いてて水が欲しかったんですよ」というように、普通にゴクゴクとその水を飲み干すと、空になった湯呑を私に返した。


 その後、金銭や個人情報を要求したり、何らかのパンフレットを渡すことすらせず、彼女は帰っていった。

 以来、私はしばらく気を張っていたのだが、宗教勧誘が来ることもなければ、水道水がおかしくなるということもない。危険な目に遭わずに済んだのは良いが、謎はむしろ深まった。今でも「何だったんだろうな」と思う。


 当時はもちろん、近所に住まう同級生たちに「水道局の人とかいうのが来た!」と情報共有をしたが、水道局員を名乗る者が訪ねてきたのは、なぜか我が家だけ。年上の先輩たちに聞いても「そんな人は来たことがない」と言う。


 ちなみに一応、岡山や香川、広島出身の子に彼女の言葉の意味を聞こうと試みたが、私がまったく彼女の言っていた言葉を思い出せなかったため、それもすぐに断念した。


 これは蛇足になってしまうのだが、私が住んでいたアパートには当時から妙だと思っていたことがいくつかあったし、生まれて初めて金縛りに遭ったのもあそこだ。

 金縛りは立て続けに何度か体験したが、回を重ねるたび、玄関から私の寝ているベッドまで、黒い影のような男が少しずつ私に近づいてきて、腹のあたりを触れられた、という記憶がある。

 まあ、これは夢かもしれない。


 実を言うと、水道局の職員を名乗る作業員はその後もう一度私の部屋に現れた。


 こんどは若い男性だった。彼も終始事務的な口調で何かを説明したが、彼は最初の女性と違い、何も言わずに水を飲み干したので、なんだか「それって何なんですか」と聞けぬまま終わってしまった。


 結局、何もわからないまま二年でその部屋は引き払った。今でもたまにこの話を人に聞かせているが、相変わらず「そりゃ変な話だ」で終わってしまう。


 ただ、数年前に見かけた「引っ越しの作法」みたいなコラムで、その土地の神様へ挨拶するために、入居前のお部屋に水やお菓子をお供えしましょう、というような話があった。

 もしかしたらも「お供えの水」だったのではないか、と思えなくもない。


 まあ、水道局員を名乗る彼女たちが、一体私の部屋で『誰』にお供えをしたのかは、結局知るすべもないもないのだが。


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