レシーバーズ 陶の章
風鳥水月
第一節 オデッセイ
全ての生命はこの世に生を受け、あの世へ還る。多くの宗教において信じられている道理の一つである。しかし人々は知らない。もう一つの世界を。遥かな昔、極東の地『タカマガハラ』は村長(むらおさ)ヤマトによって、どこでもない世界へと消えた。この物語は、そんな歴史に忘れられた世界、『かの世』を舞台とする。
始まりは『赤鬼崩し』──話せば長くなるので、脅威から世界を守った事件と捉えられたし──から数日後、志藤仁(しどう じん)が仲間の叶野(かのう)リッキーと義太郎(ぎたろう)を連れて、タカマガハラへ向かう途中に起こった。
この世とかの世を渡れる一本道の橋『世を繋ぐ架け橋』、その扉をくぐり抜けてしばらく過ぎた頃、リッキーは違和感を覚えた。胸のざわつきの正体を確認すべく、リッキーはレシーバーズ・マージナルセンスへと変貌した。
鋭い五感は不運にも、胸のざわつきを強固な不安へと変えた。
「危ない!」
背後から迫る足音から遠ざけるべく、仁と義太郎を突き飛ばす。直後、リッキーは黒い影に弾き飛ばされ、気を失った。
「リッキー!」
仁が駆け寄る暇もなく、黒い影は仁の懐に入る。その正体は『赤鬼崩し』の際、赤鬼・レッドブレードと共に人々を襲った脅威の存在、ブラックリブラであった。
「これで汚名返上です!」
ブラックリブラの鉄拳が、仁の纏う装甲『ユニゾンギア』を破砕する。義太郎も立ち向かったが敵わず、全員ブラックリブラによって橋から落とされた。光輝く一本の線──架け橋を上空に、仁達は暗闇の底へ吸い込まれていった。
──仁君、仁君。
声に呼ばれ、次に仁が目を覚ました時、そこは森の中だった。故障したユニゾンギアに付いた夥しい数の水滴と、インナースーツの湿りから、川に押し流されたことに気づく。
咄嗟に身体を起こし、辺りを見回す。しかし、義太郎もリッキーもいなかった。焦燥に駆られる。
「大丈夫だよ、きっと」
仁の内側から、暁澪士(あかつき れいじ)の声がした。仁が死にかけた時、そして世界の救世主『ゾア』──仁達が探し求めている存在──の覚醒を感じた時、彼が意識の中に現れる。
「君が生きているということは、彼らも無事なはずだから」
仁は納得し、ひとまずインナースーツを乾かすことにした。
紅葉した木々に囲まれた状況下、仁は一縷の疑問を抱いた。本当にここはタカマガハラなのだろうか?自然環境もまるで元いた世界と同じだ。タカマガハラ出身の義太郎によれば、仁が元いた世界と隔絶されたのがタカマガハラである。
ならば太陽や月との距離(そもそもこれらが存在するのかすら疑問だが)、それに伴う気候や引力の差などによって、全く異なる様相を見せるのが自然だ。
だが、似すぎている。ブラックリブラに架け橋から落とされた事実を踏まえても、無事にタカマガハラに着いたとは到底考えられない。
ある程度インナースーツが乾いたのを確認して、仁は森を出ることを決めた。まず動かなくては、何も始まらない。
川に沿って砂利道を歩く。下流には人里があるものだ。都市開発の定石である。長い道を歩きながら、仁は幼馴染の颯架純(はやて かすみ)が溺れた時のことを思い出していた。
レシーバーズを対処する組織の指揮を任された今でも奇妙に思う。架純が砂利に足を取られて溺れ、仁は助けようと手を伸ばした。だが、幼い仁の手では架純を掴めなかった。胸に募る不安。頭の中で、徐々に明瞭になっていく『死』の一文字。
諦めかけたその時、手が架純を掴んだ。引き上げられた架純は、泣きながら仁を抱きしめた。淡い恋心を寄せていた幼馴染が近くにいながら、仁は呆然と立ち尽くし、ただ一つの言葉を脳内で繰り返していた。手から聞こえた言葉、『届いた』それだけを。
昔の出来事を思い出し、仁は無性に頬が緩んだ。同時に、目頭が熱くなる。今も世界を支える根幹『無限樹』にたった一人、枯れないよう栄養を与えるべく、ひたすらに疾走(はし)り続ける彼女の面影が瞼に浮かび上がる。
「あと二人、か…」
仁、いや世界には猶予が無い。世界は進化を促し続ける混沌によって支配されている。神の時代の契約に翻弄されてきた世界は遂に、進化の歩みを止めてしまった。
進化の余地を感じられなくなった混沌は、部下である四騎士の1体・ホワイトライダーに削除(デリート)を命じた。だが架純達の奮闘、仁の契約により世界は300年の猶予を得た。
その間に四人のゾアを集め、無限樹にそれぞれの栄養(ちから)を注がなくてはならない。それが唯一、世界が混沌の支配から解放され、崩壊の運命を変える方法なのである。
決して同じ時代には生まれない四人の救世主を、仁は探す運命にあるのだ。
「その内の一人がここにいるわけか。ここが本当にタカマガハラなら、の話だけど…」
両腕を頭の後ろで組み、仁はため息をついた。さすがに長すぎる。川の前でしゃがみこみ、水を手で掬って飲んだ。透き通る川の流れを見て、もう一人のゾア、潜明良(もぐり あきら)のことを思い出していた。
どこか架純の面影を感じる、記憶喪失の少女。彼女がゾアだと知った時は驚いた。自分に課せられた使命の重さを改めて思い知った。彼女の人生を、世界を救うことに費やさせる残酷さ。正しいだとか間違いだとか以前に、心苦しかった。
しかし、明良は強かった。最初は『悪者』を容赦なく倒そうとする、危険な節があった。それが徐々に多くのことを学び、成長し、『悪』であろうと相手を思いやる精神が芽生えた。悩み、もがき、最後は脅威から生命を守るために己を犠牲にした。多くのことを考えた上で選んだ答え。凄い奴だと、心の底から感嘆した。
「今頃眠ってんのかな…」
激戦の後、赤ん坊の姿で生まれ変わった明良に想いを馳せる。幼児は前世の記憶を朧気ながら覚えていると言うが、どうなのだろうか。他の幼児と同じく、忘れるだろうか。
それでも構わない。あの日一緒に戦ったことは、『アマカゼ』の皆が覚えているから。共に過ごした時間は決して消えないから。
思い出に更けていた仁はふと、奇妙なことに気づいた。そういえば明良は架純がゾアに目覚めた7年後に、ゾアに目覚めた。同じ時代に現れることの無いゾアが何故?ホワイトライダーが嘘をついたとも思えない。そして今また、新たなゾアの出現を感じている。
義太郎をレシーバーズへ変えた風といい、遠く離れた人々一人一人の応援を直接心に届かせた風といい、何か不思議な事態が起きていることには変わりない。リッキー達と合流し、科学研究棟へ帰ったら、その辺りのことも皆で考えるとしよう。
仁が立ち上がり、再び下流へ向かおうとした時、茂みから炎のように揺らめく黄金の鬣を持つ黒い馬──麒麟が首を突き出した。物珍しそうに仁を見つめる馬を見て、仁はここがタカマガハラであることを確信した。
麒麟は川を跳び越え、仁に近づく。ジリジリと距離を詰める麒麟から威圧感を受け取った仁は、咄嗟に下流へ走っていた。後ろから麒麟が追いかけてくる。
「何なんだよ、あいつ…!」
しばらく走っていると、彼方に民家が見えた。高床式の一軒家が並び立つ。あそこで泊めてもらおう。そう考える仁の背後を、尚も麒麟が物凄い勢いで追ってくる。
「餌なんか持ってねぇぞ俺!」
仁の説得などお構い無しに、麒麟は鼻息荒く突進してきた。石につまずき派手に転ぶ。
衝突する寸前、土の塊が麒麟を受け止めた。突然現れた土の壁を見上げる。レシーバーズによるものと考えるのが道理だろう。海央日向(かおう ひなた)が『G・A(ギフテッド・エイプリルフール)』を起こしたことを踏まえると、ゾアである可能性は高い。
仁はすかさず身体を起こし、周囲を見回した。だが、人影は無い。
「タカマガハラの地形ってこともあるもんな…」
ため息まじりに呟き、その場を離れようとした仁に、
「どこ行くつもり?」
と、女の声が呼び止めた。仁の前に降り立った金髪の少女は、左目に火傷痕を持っていた。脈絡からして、彼女が土の壁を発動させた張本人か?
「君は…?」
「それ、こっちの台詞なんだけど」
それもそうだ。仁は咳払いをする。
「俺は志藤仁。信じられないかもしれないけど、訳あって別の世界からやって来た」
少女は腕を組み、眉を潜めた。
「…他の人相手じゃ絶対不審者扱いよ?その説明の仕方」
「悪いな…色々複雑なモンでさ」
仁は後頭部を掻いた。
「でも、信じてくれるんだな。君は」
すると少女はそっぽを向き、口ごもらせた。
「疑ってかかるのも気分悪いなって思っただけよ」
育ちが良いのだろう。仁は微笑んだ。
「とにかくありがとう。君のおかげで助かった」
握手を求め、手を差しのべる。顔は背けたままだったが、少女は手を握ってくれた。
「大したことじゃないわ。あの子に好かれていただけだから、あなた」
壁を避け、麒麟が顔を見せる。仁が近寄り撫でると、実際に麒麟は甘えた声を出した。
なるほど、愛情表現。仁は納得したのと同時に、少女の観察眼の高さに感心した。物事を見極める力に長けている。
「君凄いな、ホントに」
「登子よ」
声が小さかったものだから仁が耳をそばだてる仕草をとると、少女は口を尖らせた。
「轍登子(わだち とうこ)!一回で聞いてよ…全く」
「そんな恥ずかしがることか?」
首を傾げる仁に対し、登子は気まずそうに言った。
「というか…嫌なのよ、名乗るのは。理由は聞かないでちょうだい」
仁は頷き、登子に頼んだ。
「近くの町まで案内してくれるか?」
「凪村(なぐむら)ね。わかったわ」
こうして、仁は登子を麒麟に乗せて、凪村へと歩いた。
やはり元々日本の一部だっただけあって、言葉が普通に通じる。零に翻訳機能の搭載を提案した際、日向が微妙な顔をしていた理由がよくわかる。
道中、そんなことを考えながら歩いていると、登子が突然叫んだ。
「何か聞いてよ!」
鼓膜が破けるかと思い、仁は耳を塞いだ。
「聞くなって言っただろ自分で…」
「そう言われたら聞きたくなるのが普通じゃないの!?」
逆上。滅茶苦茶だ。意外と寂しがり屋なのかもしれない。
そういえば、リッキーも出会った最初の一年間はこんな感じだった。自分から身の上を話すのは憚るが、他人には聞いてほしい。仁は笑った。
「何で笑うのよ…」
「ごめんごめん。それで登子、お前何で名乗りたくなかったんだ?」
仁が質問すると、登子の表情が暗くなった。
「名字が嫌いだからよ」
家族仲が悪いのだろうか。仁は困惑した。すると、登子は語り始めた。
「タカマガハラには二つの国があるわ。祈祷とかオーダーを信じて国政を動かしている勾国(まがのくに)、今は武力国家に成り下がった轍国(わだちのくに)」
轍。仁の目が見開く。
「まさかとは思うけど…」
「そのまさかよ。私、轍国の王女なの」
仁の足が止まった。驚愕で身体が固まる。
「といっても第二なんだけどね」
十二分に凄いだろう。そう言いたいところだったが、仁にはそれ以上に気になることがあった。
「お前…家出したのか?」
通常、王室の人間が付き人も無しに外を出歩くなどあり得ない。それは第一も第二も関係ない。なら、考えられるのは家出の線だ。
登子は金色の鬣に顔を隠した。
「…家を出された」
仁の面持ちが険しくなる。
「…どうして」
「…5年前、現轍国女王、轍燈花(わだち とうか)のクーデターのせいで、王と妃はこの世を去ったわ。残された第二王女は国外追放。帰るアテも無く、自治集落の凪村へ流れ着いたってわけ」
淡々と語ろうとする登子の頬を、涙が伝った。仁はその頬を見つめる。
「一応確認するぞ。答えなくたっていい」
登子は頷いた。
「…今の女王、お前のお姉さんだな?」
登子は頷いた。
「ずっと平和な国だったのに…あいつが全部壊した…勾国と戦争なんかして、凪村にまで迷惑かけて…そんなのと同じ血が私に流れていて…」
仁は唇を噛みしめた。凪村が見えてくる。彼方から見えた景色よりもはるかに閑散とした、寂しい村だった。
突如、煙が上がる。途端に血相を変えて、登子は麒麟を走らせた。
「待てよ!」
仁の声も振り切り、登子は現場にたどり着く。肉の焦げた臭いと共に、黒炭の山が積まれてあった。動悸が激しくなる。
背後から、人が登子の肩を掴む。
「お前のせいだ…!お前が、あいつを…!」
直後、人は炭塵と変わり、山の一部に成り果てた。胃液が逆流しそうになり、登子は口を押さえた。
「愚かなものだ」
山が熱風に巻き上げられ、向こうに立つ人の姿が露となる。登子は蟀谷を浮かび上がらせた。その人物をよく知っていたからだ。
「おとなしく我が国に属せば、こうはならなかったというのに」
右目を火傷痕で塞がれた、銀髪の少女。人でありながら、手から火を出すその少女に、登子は変貌して跳びかかった。
「燈花ァー!」
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