仮眠室

はおらーん

仮眠室


「お疲れさまでーす」


長時間の細かい仕事に疲弊していたが、私はできるだけ笑顔を崩さずに現場に挨拶して一旦廊下に出た。シフトの交代で、女性が何人かぞろぞろと続いて出てくる。そのままシフトを終えて帰る人もいるが、私と何人かは仮眠をとってそのまま連続の勤務となる。


「高橋さん、今日泊まり?」


「あ、はい。私実は今日が初めてで…」


「そうなんだ、じゃあ一緒に行きましょ」


いつも愛想のいいベテランの石本さんが、私の手を引いて仮眠室まで連れて行ってくれた。高卒で入社したこの会社も、ようやく試用期間が過ぎて本配属が決まった。私の住む田舎ではまともな産業も少なく、公務員になる以外は、ここのような大手電機会社の下請け工場に高卒で就職するのが一般的だった。多少実入りがいいと聞いていたので、たまに宿直のある現場仕事を自ら選んだのだった。


「配属されてしばらく経つけど仕事は慣れてきた?」


石本さんは愛想のいい笑顔で微笑みながら話しかけてくる。どちらかと言えば愛想のない私は、慣れない笑顔でハイと返事をする。田舎の工場だけあって、無駄に広い。普段は現場と食堂くらいしか利用しない私は、長い廊下を石本さんに連れられてしばらく歩いた。4階の端まで歩いてきて、ようやく仮眠室に到着する。


「上の人には何回も言ったんだけどね。ちょっとは仮眠室なんとかならない?って」


石本さんはため息交じりに愚痴をこぼす。ガラガラと引き戸を開けると、手前に給湯室のような設備があり、奥には畳のスペースが6畳ほどあるだけの殺風景な部屋だった。私は、ふと学校の宿直室みたいだなと思った。


「時間もったいないし、高橋さんもすぐ寝るでしょ?私、いびきうるさいかもしれないから、耳栓あった方がいいわよ」


石本さんは冗談っぽく言いながら、奥の押し入れを開いて布団を3セット取り出した。手伝います、と声をかけて私も敷布団にシーツをかけ始めた。押し入れの臭いなのかシーツなのかわからないが、心なしかかび臭い気がした。洗濯はしているようだが、所々お茶か何かをこぼしたような跡がある。田舎の工場の仮眠室で贅沢は言えないが、とりあえず連勤に備えて早く寝る準備をしようと、急いで作業服を脱ごうとした。


「仕切りもへったくれもないからねえ。ちょっとごめんやけど、私そのまま着替えるからね」


石本さんは申し訳なさそうに私に言うと、作業服を脱ぎ始めた。ベテランと言っても、まだ30代らしいというのは前に本人から聞いた。石本さんも高卒で就職して働いているので10年戦士なのは間違いないが、まだ30半ばくらいだろう。小学生の子持ちの自分をおばちゃんと称しているが、私から見たら「きれいなお姉さん」でも十分通るなと思っていた。作業服を脱ぐと、立ち上がって布団が入って方と反対の押し入れの方へ歩いていった。おもむろに押し入れを開けて何かガサゴソと探しているようだったが、私は自分の着替えに集中していて、石本さんが何をしているかはわからなかった。


「あの、石本さ…」


話しかけようと振り返った瞬間、思わぬ光景に一瞬言葉を失った。


「え、高橋さん、どうしたの?」


目が点になっている私を見て、石本さんの方も驚たようだが、すぐに事情を察知してにっこりとほほ笑んだ。


「あ~、これね。高橋さん、初めての泊まりだもんね」


石本さんは手に持った白いものに手を入れて、ぐーんと伸ばして見せてくれた。真ん中に透明のセロテープみたいなものがついている。最初履くタイプの生理用品かなとも思ったが、分厚さや大きさからして、生理用品でもない。石本さんが開けっ放しにしている押し入れには、CMで見たことあるパッケージがいくつも並んでいる。アテント、ライフリー、どれも介護のCMで見かけるような大人用の紙おむつだった。


「あの、それって…」


「紙おむつだよ、びっくりしたよね」


「ええ、まぁ、はい」


「この仕事してると仕方ないんだよね~」


石本さんは特に引け目に感じる様子もなく話す。石本さん曰く不規則な交代制が続くと、自律神経が乱れることも多いらしく、数時間の仮眠でも失敗する社員が多数出たらしい。別のベテラン社員が、業を煮やして自宅にあったおむつを持ってきたことから、仮眠の時は多くの社員がそれを真似るようになったらしい。


「え、みんなですか…?」


私は目を丸くして石本さんに聞く。時間の不規則な仕事で、最初は自律神経を乱すというのは他の先輩からも聞いたことがある。その時はおむつ云々の話は全く出なかった。


「全員ってわけじゃないけどね。でも出産経験のある人たちは大体みんなじゃないかなぁ。若い子も結構使ってるよ」


若い人までおむつを使っているというのには驚いた。そもそも、大人用の紙おむつというものを始めて見たかもしれない。その大きさに私は唖然と眺めるしかできなかった。



「オツカレっす」


ガラガラと扉が開き、愛想のない様子でてっぺんがプリンになりかけている茶髪の女性が仮眠室に入ってきた。今日の予定では、泊まりは3人と聞いている。吉田さんは私の2年先輩にあたる人だが、仕事中は無言で作業をこなし、他の人との雑談にも加わらない。業務上の会話をするだけで、ちょっと怖いなという印象のある人だった。


「吉田さんお疲れ〜」


石本さんは誰に対しても態度を変えない。吉田さんは少しだけ目を合わせて、会釈をするとこちらのやり取りを気にする風でもなく作業着を着替え始めた。


「それにね、ここ4階の端っこでしょ?女子トイレ西棟の端っこだから、すごい遠くてね…」


半分おむつに引いている私をよそに、石本さんはまだおむつの必要性を熱弁している。チラッと吉田さんの方を見ると、特段興味のなさそうな表情でスマホをいじっていた。


「高橋さんも気をつけた方がいいよ〜。慣れてないから、最初の泊まりでやっちゃう子も多いみたいだしねぇ。良かったら私の一枚貸してあげようか?」


冗談とも本気とも取れない調子で、石本さんは押し入れから自分の紙おむつのパッケージを取り出して差し出してきた。私がとっさに首を横に振ったので、仕方なさそうに石本さんは手を引っ込めた。石本さんのおむつのパッケージには、黒のマジックで大きく「石本」と書かれている。よくよく見てみると、他のパッケージにも誰のものかわかるように名前が書かれていたり、メモ用紙が貼り付けてあるものもあった。


「いいよ、じゃあおむつナシで。その代わりシーツにシミ増やすのだけは勘弁してね」


私は改めて敷布団のシーツをまじまじと眺めた。誰かがお茶か何かをこぼした跡だろうと思っていたが、どうやらそうではないらしい。ただでさえ工場の隅の仮眠室で眠らないといけないというのに、誰が汚したかわからないようなおねしょ布団で寝ろというのか、と内心腹立たしく思えてきた。しかも、何年も前に卒業したはずのおねしょを心配されるなんて、恥ずかしいなんてものではない。


「私、大丈夫なんで。子供じゃないし…」


ついトゲのある言い方になったかな…?と一瞬心配したが、石本さんは気に留めるでもなく、自分の着替えを始めた。普通にパンツを履くのと変わらないように、片足ずつおむつに脚を通し、腰まで引き上げる。最後に生理用品の要領で指でギャザーを直すと、さっと上から仮眠用のジャージを履いた。


「さあさ、もう消灯するよ。吉田さんもさっと着替えちゃって」


「あ、ハイ…」


すでに作業着を脱いでいる吉田さんに、着替えるように促す。吉田さんはさっきまで手元でイジっていたスマホを布団の上に放り投げると、おもむろに立ち上がって押入れの方に向かった。


「あ、えっと、その…」


予想外の吉田さんの行動に面食らった私をよそに、押し入れの引き戸を全開にして、奥から紺色の大きなパッケージを引っ張り出してきた。「一晩安心」と印字されたパッケージには、かわいい丸文字で「よしだ」と平仮名で書かれたメモ用紙がセロテープで貼り付けられ、くしゃくしゃになっていた。そこから雑におむつを一枚抜き取ると、また雑にパッケージを押入れの奥に突っ込んだのだった。


「ナニ?」


目を丸くして吉田さんの一挙手一投足に注目していた私は、吉田さんの問いかけにハッとした。


「そんなにジロジロ見たら恥ずかしいだろ」


表情を変えずに、いつもの冷たい印象の声で言われた。


「その、すいません…」


吉田さんの圧にそれ以上何も言うことはできなかった。無地の黒いショーツを脱ぐと、きれいなお尻が露わになる。恥ずかしいのか怒っているのかわからないが、吉田さんはわざわざ壁の方に向き直っておむつに脚を通し始めた。そのおかげと言ってはなんだが、吉田さんに気付かれることなく様子を観察できた。


石本さんが履いていたのは履くタイプの生理用品と見分けのつかないような薄型のパンツタイプだったが、明らかに吉田さんの履くおむつには厚みがあった。さっきチラッと見えたパッケージにも、「大容量」の文字があったので、もしかしたらいざというときの量に心配があるのかもしれない。普段は怖いイメージもあり、いかにも田舎のヤンキー風な吉田さんが、一晩の失敗を心配しておむつを選んでいるところを想像すると、先輩ながらちょっとかわいいなと思ってしまった。


「彼女も常習犯だから」


石本さんは掛け布団で口元を隠しながら、吉田さんに聞こえないようにコソッと耳打ちしてくれた。えっ?というような表情を見せた私に、口元に指を添えて、シーっというジェスチャーを送る。


何も聞かなかったような顔をして、再び吉田さんの方に視線を戻す。ちょうどおむつに右足を通すところだった。一度膝まで紙おむつを引き上げた。お尻の透明なテープには、「大人用S」と印字されているのが見えた。初めて見る大人用のおむつだったので、あのテープがなんのためについているのか私には見当もつかなかった。吉田さんは腰を曲げ、おむつの両サイドを持つと、一気ににお尻を覆った。細身でスタイルのいい体は、厚ぼったい紙おむつのせいで一気に不細工になる。吉田さんはそんなことを気にするでもなく、上から派手な柄のハーフパンツ履いて掛け布団を被った。




ジリリリリリリリリ


仮眠室から目覚まし時計が大音量で鳴り響く。一体何年前からあるかわからない時計は、無骨な音を響かせて休憩時間の終わりを知らせる。最初に目を覚ましたのはベテランの石本さんだった。何年もやっていると、体内時計に仮眠の時間が刻まれているのかもしれない。しかし、このときはまだ私に起こった悲劇に気づいていなかった。石本さんは先に吉田さんの方に声をかけにいった。


「吉田さん、吉田さん!」


大声にならないように気を使いながら、吉田さんの肩をぽんぽんと叩く。吉田さんもすぐに気付いたようで、さっと布団から起き上がった。


「においでわかるから。高橋さん起きる前に着替えちゃいなさい」


「ありがとうございます…」


掛け布団をめくると、今にも溢れそうなくらいに大きく膨らんだジャージが姿を見せる。吉田さんは寝息をたてている布団の山に一瞥をくれると、さっと立ち上がってジャージのズボンに手をかけた。その横ではすでに石本さんが脱ぎ終わった紙おむつを丸めているところだった。どうやらこちらは何事もなかったらしい。


「先に袋に入れとくから。吉田さんも同じ袋使って。着替え終わったら高橋さん起こすから」


「いつもスイマセン…」


あまり感情を出さない吉田さんだったが、この時ばかりは少し恥じらいながら石本さんにお礼を言った。


ジャージのズボンを膝まで下ろすと、今にもずり落ちてきそうな紙おむつが姿を現す。おしっこと言えばほとんどの人が黄色をイメージするが、おむつに出されて時間が立つと、外から見ればほとんどグレーのような色になる。そんな紙おむつを、吉田さんはサイドに手をかけてビリビリと破いていった。完全に破りきると、床に落ちないように左手で支え、一旦そっと床に置いた。


「吉田さん、そこにお尻拭きも置いてるから」


Tシャツに下半身は何も履いてない状態の吉田さんは、石本さんが押し入れから持ってきた赤ちゃん用のお尻拭きから何枚かさっと抜き取り、何度も丁寧にデリケートゾーンを拭いた。シャワー設備があれば、と何度も思ったが、ただの仮眠室にそこまでの贅沢は言えない。使い終わったお尻拭きは先ほど床に置いたおむつに一緒に押し込み、くるくると巻いてテープで留めた。



「あの、石本さん…」


吉田さんに名前を呼ばれるのは珍しい。石本さんは布団を片付ける手を一旦止めて、吉田さんの方を振り返った。


「なんかにおいませんか…?」


たしかにツンとした尿臭が鼻をかすめる。吉田さんのおむつはすでに自分の分と合わせて袋に入れてきつく縛ってあるし、換気扇のスイッチも入れた。二人はくんくんとにおいのもとを辿り、気付いた瞬間お互いに目配せをした。


「高橋さん、ちょっと起きよっか」


吉田さんにしたのと同じように、掛け布団をめくって体を揺らす。布団をめくった瞬間にふわっと尿臭が強くなった。


「もう、時間ですか…?」


私は慣れない短時間睡眠でまだ頭がぼーっとしていた。


「高橋さん、ちょっと大変だから… 布団めくるね」


耳元で石本さんの「あー」という子供の失敗を咎めるような高い声と、吉田さんに何か指示を出す声を聞きながら、段々と意識がはっきりしてくる。それと同時に、下半身の気持ち悪さにも気がついた。


「大丈夫だから、ね?とりあえず一旦立とうか」


言われるがままに立ち上がった私は、現実に何が起こったのかはっきりと目の当たりにした。さっきまで寝ていた布団には何色とも形容しがたいシミが大きく広がり、過去の先輩たちの失敗をすべて覆い隠していた。パンツとハーフパンツはぐっしょりと濡れて肌に張り付き、体育の後の汗だくの体操服を思い出させるような気持ち悪さがあった。


「え、おねしょ…?わたしが…?」


なぜこうなったのかはわからないが、自分が仮眠室でおねしょをしてしまったということだけははっきりとわかる。そこから先は、すべて石本さんの言いなりで、どうやって処理されたのかはっきりと思い出せない。いつも冷たいくらいに冷静な吉田さんが、石本さんに指示されながらバタバタと手伝ってくれたことだけは朧気に記憶にある。


「そんなに気にすんな、うちもやっちゃったから」


そう言いながら汚れたおむつの入った袋を見せながら励ましてくれていたが、そんな大事なことすら、薄っすらとしか思い出せない。それくらい呆然自失だったのだと思う。起こされてから10分ほどで片付けは済んだが、「バンザイして体拭かれるの、子供みたいだったよ」と後から吉田さんには言われた。




3人揃って仮眠室を出るころには、私もだいぶ落ち着いていた。私は部屋を出る前に、まじまじとおむつの押し入れを覗いた。紙おむつのメーカーやサイズは多種多様で、どれにも識別用の名前が書かれている。ようやく私も配属先の人たちの名前と顔が一致するようになってきたが、パッケージを眺めながら「あの人もおむつ使うんだ…」と妙な感慨に浸った。中には子供用のパッケージもあり、スーパービッグと印字されたピンクの塊には、「島崎」と書いてあった。


(高木さん、しっかりもののイメージなのになぁ… あ、野本さんは」おっとりしてるし、ちょっとおむつとか似合いそう。上司の木村さん、普段すっごい厳しいのに、仮眠のときはおむつなんだね…。島崎さん、小柄ですっごいかわいいもんなぁ。大人になっても子供用のおむつ買うときってどんな気持ちなんだろう…)


その日の勤務を終え、退勤する前に全員に挨拶をする。みんな片手間に「お疲れ様でした」と言うものだから、私がまじまじとみんなの顔を眺めていたことに気付いた人は少なかったかもしれない。



次の泊まりのときに、おむつのパッケージが一つ増えていたことは言うまでもない。


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