第8話

「……タイチは、あの自転車でどこを走るの?」

 食事の合間に訊かれる。

「いろんな国。ハンガリーと他の国も」

「……自分の足で外国へ行くの?」

「うん。ゆっくりだけどね。毎日ちょっとずつ走ればどこへだって行けるよ」

 それを証明するための旅だ。

「とは言っても、まだ始めたばかりなんだ。ブダペストがスタート」

「…………」

 黙って聞いているサラに向かって続ける。

「まずはとなりの国へ行くのが目標。到着したらまた次の国のことを考える。その繰り返し」

「となりってルーマニア?」

 ルーマニアは、ハンガリーを囲む七つの国の一つ。方向としてはここから東に位置する。そのままブルガリアへ抜ければギリシャやトルコへ行くことができるので、そんなルートを想定しているのかもしれない。

「逆だよ、スロベニア。西へ向かうんだ」

 そのとき、目の前の女の子の中で何かが変化した。あいまいではあるけれど、そう感じた。

「……それは、私にもできるかな」

 自らの足で他の国を目指す。海に囲まれた日本とは違い、ヨーロッパではそこまで珍しいことではない。できるかと言えばできる可能性が高いと思う。例えば、ブダペストは北側でスロバキアと面しているから、そちらへ向かえばここから歩いて出国することも可能だろう。加えて言えば、プレゼントの自転車だってある。けれど、彼女の場合は事情が事情だ。

「できるかもしれない。……でも、なんで?」

「……この国に私の居場所はないから」

 だからと言って、他の国に逃げてしまえば解決するというものでもないはずだ。

 国籍というものはとても重たいもので、未成年の彼女でなくとも、許可なしに国外にいることができる期間は限られる。そもそも自立して生活できるかも怪しい。どうにかその点を指摘しようと頭の中で単語を選んでいると、彼女は懐を探って小さな袋を取り出した。メモ帳が入るくらいの大きさ。巾着のようにすぼまった入口をほどき、中から現れたのは……。

「パスポート?」

 赤茶けた小さな冊子。昨日、俺が入国するときに使用したものと良く似ている。それが二冊。

「お母さんはハンガリーの人だったけれど、お父さんはスペイン人なの、もうずっと会ってないけど……。それでも、もしも他の国で警察へ行けばお父さんに連絡がいくと思う」

 スペイン……。それは俺の目的地でもある。かなり衝撃的な告白ではあったものの、今すぐに必要なことではないのでとりあえず、そのことは保留しておこう……。

 詳しいことはわからない。ただ、彼女はどうやら二重国籍に近い状態らしい。パスポートって二つ持てるものなのか。知らなかった。

 とにかく、今こうしてスペイン語で意思疎通ができる理由が判明した。

 しかし、彼女の言い分はどうなんだろう。この場合、警察っていうよりスペインの大使館か領事館へ行くことになるのだろうか。そうすれば、本国の保護者の元へ連絡が行くというのは普通のことのように思う。

 なら、この国で大使館に行った場合は? 警察は他国の大使館には関与できない。けれど、もしも、話を真剣に聴いてもらえなければ、結局警察沙汰になる可能性は高いか……。

 もうひとつ疑問なのは、最初に保護された時点で父親と連絡がつかなかった点だ。国外ということが関係しているのだろうか。

 事故の調査中に名前は挙らなかったのか質問してみると、国内にいないことを確認された程度だという。あまりの事態にふさぎ込んでいた彼女は訊かれなかったことまで答える余裕はなかったにせよ、未成年の保護者の話題として軽すぎるように思う。

 離婚したのか確認するべきか迷ったけれど、現状あまり意味のある質問ではないことに気付いて止めた。お母さんがきな臭い事件に巻き込まれてもすぐには頼らなかった以上、少なくとも距離を置く理由はあったのだろう。

 それでも言いようを聞く限り、一定の信頼はおける人物のようだ。

「じかにお父さんに連絡はとれないの? 電話とかメールとか」

「……アドレスは全部焼けちゃったから」

 ……そっか。パスポートにも住所の記載はないから、彼女は思い出の場所といっしょに父親との連絡手段も断たれてしまったということになる。

 それならと実名SNSやWEBでの検索も提案してみたけれど、黙って首を振られてしまった。彼女なりに試してみたことがあるのだろうか。

 サラは携帯端末の類いは持っていないようだから、事故よりも前の話なのかもしれない。


「この国から出るとき、飛行機も列車もバスも、すごく厳しく見張られてる」

 ハンガリーを訪れる違法入国者のうち、移民・難民の割合は少なくない。彼らの出自は様々だけれど、情勢の不安定な東側諸国、アフリカ大陸なんかの人が主だ。そんな彼らは、仕事を求めて経済強国であるドイツやフランス、福祉の充実した北欧へ向かって移動する。そのため、越境できる交通機関には厳しい監視が入るのだそうだ。

 本来、この国の人であるサラは国境検査を受けずに出国する権利があるけれど、指名手配のようなことが行われている状況を危惧しての発言だ。

 まぁ、さすがに保護扱いだろうけど、とにかく捕まりたくない、と。

「だから国を出るなら自分の足で。おばあちゃんがそう言ってた」

 おばあちゃんとは彼女の祖母ではなく、難民キャンプでの保護者のことらしい。立場上、こんなイリーガルな話にも詳しいのだろう。内陸国のハンガリーは国境線が長いから、その全部を管理するのは難しい。特にシェンゲン協定加盟国の人はかなり気楽に国の間を移動する。地元の人が買い物のために通行するのをひとりひとり監視はしていないということか。

 現実がどうかはわからないけれど、ありそうな話だとは思う。


 海外への逃亡の実効性……。

「…………」

 すぐに答えられる質問ではなかった。ただ、可能かどうかなら『可能』。必要な距離を必要な方法で移動するだけ。目立たないように気を付ければバスなんかを使って田舎の国境付近までショートカットする方法もあるのかもしれない。

 じゃあ、その後は? ちゃんと出国さえすれば、お父さんの元へたどり着くことができるのか。

 そんなこと、分かるわけがない。

 この国の警察が信用できないという話は、あくまで彼女からの伝聞でしかない。火災や鍵の壊れたガレージみたいに、状況証拠はあるけれど、それで全ての警官を不審に思うのは間違いだろう。

 ただ、二度と近づきたくないという気持ちだけは理解できた。

 これは彼女にとって、とても、とても大切な決断。……土台、昨日出会ったばかりの俺なんかに、意味のある発言なんてできるはずがないのだ……。

 答えを返せずにいる俺の前で、サラは表情に緊張をのせて黙っている。それは次第に厳しいものに変わっていき、こちらを見ていた視線はいつの間にかテーブルへと落ちていた。

 ……彼女は今、当たり前にあったはずのものを失って苦しんでいる。酸素のない海底へと沈みながら、必死に水面を目指してもがいているのだ。

 ふと、あるとき、その緊張が弛緩した。サラは下を見るのをやめ、目線をあげる。けれど、どうにも視点が定まっていないように思う。そのまま、握ったままだったテーブルの上の巾着を開くと、ぼろぼろの封筒を取り出し、俺の方へと滑らせる。

「これは、何?」

 器用なことが言えない俺の貧弱な語彙から出た最低限の質問。

「……昨日のお礼」

 それに小さなともしびを吹き消すようにそっと答えた。

 皺のよった封筒から、同じくらい年季の入ったフォリントの紙幣がちらりと見える。

 直観的に生活費なのだと思った。彼女の母親が持たせ、パスポートといっしょに肌身離さず持っていた袋の中から出てきた。そんなお金をぽんと渡すという意味がわからない。予想……、したくない。

「君は……」

 俺が受け取らなかったから、テーブルの真ん中に置かれたままの封筒。サラはそっと手を離し、宙ぶらりん。ぼんやりとした表情のままこちらを見つめ、でも視点は定まらなくて、そんな顔で口角をあげる。まるで表情を取り繕うように。


 ――雷にうたれた気分だった。

 なんだ俺は、今の今まで寝ぼけていたのか。自分で自分を殴りつけたい衝動にかられるのをなんとか抑え込む。そうだ、これは笑顔なんかじゃない。

 写真に撮って眺めれば、まあ笑顔でしょ、と誰もが言う。そんな表情だったとしても、俺は認めない。

 机の上の封筒を手にとって中を確かめる。一、二、三、四……。入っていた紙幣は種類がばらばらで硬貨も混じっていたりして、入国したばかりの俺には数えにくい。それでもむりやり平静を装ってざっくりでも計算した。日本円で十万円ないくらい。

 思ったより多い。気軽に渡していい額じゃない。とにかく、中から二千フォリント紙幣を一枚とりだす。

「これで十分だよ」

 少女は曖昧な、口角を上げた表情を崩さない。

「……ああ、そうだ、俺もお礼をしないと」

 わざとらしく、そもそも拙いスペイン語だから演じているようにすら見えないかもしれないけれど、とにかく言った。

「?」

「朝ご飯、美味しかった。スパゲティがだめになるところだった」

 もったいつけて二千フォリントを渡す。

「困る……。あんなの……。元々タイチのご飯だったし」

「でも、シェフにお金を払わない理由はないだろ」

 きざったらしい、でも冷静に考えると不恰好ないいわけ。

「……優しくしないで」

 口角を上げたまま吐き捨てるようにいうその言葉は容赦なく俺の心をえぐる。

 でもいい。これからの俺の行動は、傷つかずにできることじゃない。何も解決ができなくたって、同じ痛みを少しでも共有しなければ、説得力がない。

「優しくなんてしてないよ。ただ値段が高すぎるって言っているんだ」

 笑顔もどきを浮かべたまま、困った顔をするサラが痛々しい。

 けれど、気付かないふりをして続ける。

「でも、俺も今は長い旅の途中だから、正直お金はあればあるだけ助かる」

 困った顔は困惑へ。


「だから、提案」


 可能性の提示。

 人は思いもしなかったことが起きた時、そこに不安と期待を抱く。

 満ち足りた人はその中から不穏なものを強く受け取ることもあるかもしれない。

 ならば、もしも、何もかも失った人がそんな未知と出会えば何を思うのだろう。


 微かな、ほんの微かな違い。これまでのような諦観の海に浮かび上がった心の残りかすみたいな感情ではない、別のものが少女の表情にあらわれた。気付くことができた。

 真っ黒な海に薄っすらとみえた希望の浅瀬。流され泳ぎ疲れた少女がひと時休むための居場所。間違いない。手放してはいけない。

「俺を雇ってくれないか。君を国境の向こうまで送り届ける、俺が連れて行く。もしも成功したら、そのお金の半分をもらう。変わりに、食事や寝る場所、全部用意する。どうだ」

「…………」

「ただし、乗り物だけは準備できない。俺はただ君の前を走るだけ、君は君の足で出国するんだ」

 言いたいことを言い切った。

 返事はない。けれど反応はあった。あの、口角を上げた笑顔のようなものは消えてなくなり、迷いが、不安が、そして微かな希望が浮かんでいる。

「…………」

 いぜんとして答えはない。……半分は吹っ掛け過ぎただろうか。

 全額渡そうとしてきたからなんとなく説得力を出そうと言ってしまったけれど、結局彼女は自分の力で国を出るのだ。宿泊といってもたいした場所は用意できないだろうし、食費で考えたらちょっと高いか?

 時間は交渉を受ける側の味方だ。条件を提示した俺の中で少しずつ不安が広がっていく。

「……私に、できるかな」

「さっきも言ったよ。できる『かも』しれない。君には自転車があるから」

 最後にお母さんから受け取ったプレゼント。それが力になる。

「ただ、それは一人で挑戦した場合だ」

「え?」

「俺が手伝えば、『できる』」

 まっすぐに、相手の目を見て大嘘をつく。無責任に、自信満々に。

 定まらなかった彼女の目線を絡めとるように掴んで離さない。

 詐欺師のやり方。叔父の得意だった、調子の良い発言。それを真似る。

 いつかの俺が、正しさで両親に否定され、孤立し、諦めていたとき。なんの責任もない叔父がやったこと。自転車を用意し、正論を鼻で笑って無責任に言い放った。身勝手。

 でも、その軽快さが自由さが、俺に翼を与えたのだ。

 今このときに、挑戦したことへの後悔はない。それはただ運が良かったからかもしれない。一度でも大きな事故にっていれば気持ちは全然違ったはずだ。でも、その幸運の始まりは叔父の発言だったのだと、そう思っている。サラにとってのそれに、俺はなりたい。

 なんの責任もとれない行きずりの旅人。大人としての経験は不十分で言葉も不自由。そんな外側の人間が、壁の乗り越え方を知っていることだってある。

「俺なら、自転車で空を飛ぶ方法だって教えられる」

 不幸と不幸をかけ合わせた日々の最後に、幸運と出会って欲しい。

 全てが帳消しにならなくても、次の場所を目指せるように。

 歩き出す勇気を、与えられる。やがてそれは助走に変わり、翼を羽ばたかせる。

 そう願わずにはいられない。

 俺のこの旅は、貰ったものを返すための旅なのだから。

 

 こくりと、彼女は頷いた。

 チャンスを逃してなるものかと、テーブルの上の二千フォリントを手にとる。

 新米詐欺師の俺には落ち着きがたりない。それでも、とにかく宙に浮いたお金を取ってしまえば契約が成立したのだと言い張ることができる。

「Deposit」

 手付金という意味のスペイン語が思い浮かばなかったので、とにかく英語でそれらしい単語を言ってみる。正しいのかどうかはわからない。けれど、少なくともサラは納得の表情を示しているように見えるので通じてはいるのだろう。

 そう思ったのも束の間。彼女はすっと右手を前に差し出してきた。何? 返せってこと?

 正直二千フォリントという金額はそう高額ではない。物価の安いこの国でも、ファーストフードで一食分くらいの額。

 別に利益を出したくて引き取ったわけではないので返せと言われれば返すけど……。

 そっとお札を渡そうとするとぶんぶんと首を横に振られる。どういうこと?

「握手。契約が成立したら握手だよ。どこの国でも通じるんだってお母さんが言ってた」

 そういうものなのか。こちらとしては契約書を準備しろ、と言われているわけでなくてほっとした。

「わかった。それじゃあ今日からよろしく、サラ」

 あらためて自分の右手を差し出す。

「うん。よろしくタイチ」

 何か大切なものを受け取るように握られた少女の手は昨日、テントの中で握った記憶よりも小さく細く、それでも強い意志を感じさせる熱を秘めたものだった。


 そうと決まれば準備をしなければいけない。幸い、ブダペストは大きな都市だからお金さえ払えば必要なものは揃う。

 想定外の事態とはいえ、不足したものをここで揃えるというのは当初の予定通りだ。そう主張したのだけれど、サラは提案に反対した。早くこの場を離れたいという希望である。

 お母さんとの思い出を惜しむよりも、今このときはまだ生々しく残る苦しい記憶の方が辛いのだろう。警察官による補導の可能性を考えても長居したくないという気持ちはまぁわかる。

 結局、最低限の生活用品は持っているという彼女の主張を受け入れて、まずブダペストを離れる方向で話は決まった。

 親しい人たちに挨拶はできない。ただ難民キャンプの保護者の元にだけ書置きをしてきた彼女は逃げるようにこの地を去る。いや、ようにではない。まさに逃避行そのものだ。

 追う人間がちゃんといるのかもわからないが、警戒をしないわけにはいかないだろう。

 仮に何事もなくても大事業だったはずのヨーロッパ横断自転車旅行は、二日目からとんでもないことになってしまった。

 叔父さん、旅にトラブルはつきものって、こういう意味なの?

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