第7話

 どこへ行くともなく歩き出してしまったので、俺が前に出て先導することにした。

 行先はいろんなものを置いてきてしまったキャンプ場。少なくともここ以外に向かうべき場所が俺にはない。仮に、サラには他に行きたい場所があって、どこかで別れるというのならそれでもいい。ちゃんと頼れる相手がいるかどうか確認するくらいのお節介はしたと思うけれど。どちらにせよ、そんなことにはならなかったし、結局二人でドナウ川沿いを進むことになってしまった。

 後ろを歩くサラは相変わらず口数が少なかった。ただし、これまでと比べるとそこまでふさぎ込んでいるという感じでもない。ちょっとふらふらしているので体調が悪いのかな、と心配もしたのだけれど、どちらかというとこれは睡魔と戦っているようだった。

 無理もない。彼女にとって激動の一日だったはず。なんなら、母親の死を知ってからしばらくの間ちゃんと寝ていない可能性もあった。限界だったのかもしれない。

 なんとかキャンプ地に戻ったあと、せめて仮眠でもとってもらおうとテントの中で荷物をあさり、マットレスやら寝袋やらをとりだす。その間、サラには夕食を調理していたテーブルで待っていてもらったのだけど、ささやかなベッドを準備してから戻って見るともう手遅れだった。

 背もたれのないベンチで器用に座ったまま寝ている。どうやらリュックの中に持ち歩いていたらしい薄手の毛布をマントのように羽織り、俯いて目を瞑っている。近くに行っても微動だにしない。

「サラ」

 と小声で呼んでも同じ。少し迷ってからもう一度声をかけても反応なし。肩まで叩いてみたものの、ぐらついてベンチから転げ落ちそうになってしまったので慌てて背中に手をかけて支えた。軽いな。ちゃんとご飯を食べることができていなかったからか。そう思うと心が締め付けられるようだ。

 ……それにしても、突然のことだったので半分抱きかかえるような恰好になってしまったけれど、それでもサラは起きる様子がない。よっぽど深く眠っているのだろう。

 このままベンチに横たえるのも薄情な気がして、結局抱き上げてテントの中に押し込むことにした。入れ替わりで彼女に貸すつもりだった寝袋を取り出してジッパーを開き、被る。

 季節は晩春。間違っても暖かいということはない。まぁ一晩過ごすくらいならテントはなくても大丈夫だろう。遥かなるドナウを背に、星を眺めながら過ごすのもまた贅沢。

 サラのことがあって、完全に旅どころではなくなってしまった。気を抜けば、解決もしない彼女の問題について思いを馳せてしまう。

 ……あまりいいことじゃないな。下手の考え休むに似たり。

 長い長い旅の始まりに、そんなに重たい荷物を抱え込むものじゃない。何か別のことを考えよう。温泉で使った干してある海パン、朝までに乾くといいなぁ。結局夕食を取り損ねたなぁ。クッカーのなかに残ったスパゲティどうしよう。食欲もなくなってしまった……。そういえばビールもまだ残ってるか。いまさら飲み直そうという気にもならなかったけれど、空けてしまった缶をこのままにしておくわけにもいかない。三分の一ほどの分量を煽って飲み干す。

 ぬるくなって炭酸が抜けているはずなのに、思いのほか美味しい。緊張の連続で喉が乾いていたのだということにやっと気が付く。

 胃が少し温まってきたと、ぼんやり思ったあたりでうっすらと意識が遠のいていった。


 顎が冷たい。

 気が付けば俺は分厚い屋外用の木のテーブルに突っ伏して寝ていた。どうやら自分の呼気に含まれていた水分が夜間の冷気で結露して、そこに当たった部分がひんやりとしていたらしい。

 眠気まなこをこすって周囲を見渡すけれど、いまいち景色がはっきりしない。どうやら原因は俺の目にあるのではなく、ドナウから流れてきた朝もやにあるようだった。

 尋常でない濃さの霧が一帯を覆っていて、さながらホラーゲームのよう。それなりに明るいから太陽はもう上がっているのだと思う。だけどどちらの方角にあるのかよくわからない。いや、東なんだろうけど。スマホのモニターを触って時間を確認すると五時十一分。まだ早朝だ。もう少し寝ていてもいい時間。でも、また机で寝ようという気にもならない。寝心地が悪すぎる。枕代わりの左腕は痺れているし、寝袋に覆われていなかったお腹や足が冷たい。

 それに今の俺には気にしなければいけないこともある。

 テントの方を向けば小さなスニーカーが、昨晩並べたそのままに前室に置いてあるのが見える。それは昨日見聞きしたことが夢ではなかったという証明に外ならなかった。

 思えば出会い自体、このスニーカーが発端だったな。もしも、テントの中に白いソールが見えていなければ、今日は全然違う始まり方をしたのだろう。同じ場所で、もしかしたら同じような時間に起きたかもしれない。ただ、気分だけは全然違ったはずだ。

 より清々しい気持ちだった可能性は高い。これから始まる長い旅路にわくわくしていたはず。

 かといって、今日、この時間を後悔もしていない。俺の知らないところでサラが苦しんでいたかもしれないと考えると、そちらの方が憂鬱になるくらいだ。

 仮眠とも言えないようなうたた寝でも、ちょっとは頭が整理されるものだ。事実、今の俺は昨夜のようにサラの問題で頭が一杯だったりはしない。どちらかというと目の前に襲ってきた猛烈な空腹をどうにかしなければいけないという気持ちの方が高まっている。

 問題の棚上げに成功したということだ。事態は一向に解決しないけれど、棚上げをばかにしてはいけない。ずっと同じことを考えてドツボにハマれば、物事はむしろ悪化するのだから。

 テントの前室から調理器具を取り出し、まずお湯を沸かす。マグカップに注いで日本から持ってきたインスタントコーヒーを淹れて一服。よし、朝食でも準備するか。

 クッカーの蓋に被せてあったフライパンに少しだけ水を入れて沸騰させ、昨日の残りのソーセージを投下。水がなくなるまで煮込んでからしばらく炒め、皿に移す。そのまま卵を二つ割って、目玉焼きを作ろうとしたのだけれど、フライパンが小さすぎてなんだか不格好になってしまった……。まあいいか。

 最後にバーナーの上に金属製メッシュをのせてからパンを炙っておしまい。この網はバーナーパッドと呼ばれるもので、これがないとパンがすぐ焦げてしまうので地味に大切な器具だ。まぁ、こんなものだろう。お手軽朝食完成。野菜分の不足はオレンジで補う。

 火元が一つしかないので、ちょっと効率が悪いのが難点だな。焚火とかできると違うのかもしれないけれど、こんな街中のキャンプ場ではそういうわけにもいかない。

 念のため二人分用意してみたものの、サラは朝食をとるだろうか……。せっかく寝ているのを無理に起こす気にもなれずにテントの方をそっと覗いてみると、入口のジッパーが開いている。全開じゃなくて二十センチくらい? そこからひょっこりとサラが顔を出した。完全寝起きのまだ眠たそうな目。昨日散々泣きはらしたせいで目じりはやぼったく腫れたままだ。なんの配慮もせずにテントなんかで寝たせいで前髪が変な方向に跳ねている。

 こんな顔、だったんだな。ぼんやりとそう思った。

 昨日は出会いからして薄暗らかった。そのあとも何度か明るい場所で対面したはずだけど、そのときには正直相手の顔どころではなかったのだ。ただ印象的だったのは、深い藍色をした瞳。今は朝もやを通して入り込んでくる朝日を浴びて淡く輝いている。

 しばらく無言で見つめ合っていたが、ふっと目線がそれたタイミングでまたテントに引っ込んでしまった。なんだか猫みたいだな……。

「Buenos dias」

 黙っていた俺も悪かった。まあなんにせよ必要なのはおはようの挨拶か、と遅ればせながら一声かけてみると、また顔を見せるサラ。こんどはモグラたたきみたいになった。

「…………」

 よく聞こえなかったけれど、返事をしてくれたのだと思う。

「朝ご飯食べる?」

 この機を逃してならない。たった今できたばかりの皿を持ち上げながら訊いてみると。

「…………」

 次は沈黙。ゆっくりと上を見て、右をみて、また上を見てからうなずくサラ。

「じゃあ、こっちに来て」

 そう伝えると、やっとテントのジッパーが最大まで開かれることになった。

 揃えてあったスニーカーをもぞもぞと履いて、不安定に立ち上がったサラは、なぜかじりじりと警戒するようにテーブルに向かって歩いてくる。まるで何かあればすぐに踵を返して逃げ出せるようにしているみたいだ。普通に歩けばいいのに、と呑気にぬるくなってしまったお湯を温め直しているとやっと近くへ来るサラ。

「座って。冷めないうちにどうぞ」

 冷めるってFrioでいいんだよな。今一正しく伝えられている自信がないのだけれど、彼女は大人しく従った。召し上がれと一言いって、両手を合わせてから俺も食事を始める。

 うむ。正直、とても美味い。ソーセージやパンの味が食べなれたものと少し違う気がするけど、なにせ昨日の昼以来のまともな食事だ。今なら苦手なシイタケも喜んで食べる自信がある。空腹を超える調味料はない。パンなんかは見た目が食パンっぽいのを選んだつもりだったけれど、風味が違うものだなぁ。麦が粗いというか、独特の酸味がある気がする。

「…………」

 両手を合わせる様子が不思議だったのか、興味深げにこっちを見ていたサラも、俺の勢いに乗せられたようにトーストを手にとる。最初はおずおずと、次第に口に運ぶペースが早くなり、ソーセージや目玉焼きにも手を出す。良かった、口にあわないということはなさそう。この子も昨日は碌に食事をしていないはずだから、かなり空腹だったんだろうな。

 二人、無言で咀嚼する時間が続く。途中でお湯が湧いたので、俺は食事を中断してコーヒーをもう一杯淹れた。マグカップは一個しかないからシェラカップに。砂糖も勝手に入れる。

「どうぞ」

 目の前に置かれた見慣れない幅広のカップを見下ろしているあいだも、サラは手にしたトーストを離さない。念のためコーヒーであることを伝えるために、自分のマグカップを持ち上げて見せる。独特の形をした持ち手を困惑しながらつまみ上げて口をつけ、すぐに離した。どうやら熱かったらしい。今淹れたばかりだし、仕方がないか。舌を出して痛がる様子が可愛らしくて思わず吹き出すと、恨めしい顔で見られることになった。


 朝食はすぐに終わった。本当にあっという間だった。

 熱くて飲めなかったサラのコーヒー以外はものの数分で消え去ってしまった。しかし、まだまだ空腹感は収まらない。昨日の夕食抜きが効いたのか、久しぶりの自転車が効いたのか。これからの長旅を考えれば胃腸の状態が良いということは歓迎すべきことだとは思う。

 なにせ自転車移動においては、食事は燃料そのもの。移動に必要なカロリーを適切に摂取できなければ、笑ってしまうほどすぐに動けなくなる。物の例えではなく、指先一つ動かない。これをハンガーノックという。少し驚いたのは、空腹なのが俺だけではなさそうなところか。

 やっと少しだけ冷めたコーヒーを、おそるおそる舐めるように飲んでいるサラ。空になった皿を恨めしそうに見ている。昨日の様子を考えれば、よほど望ましい健啖ぶり。


 うーむ、どうしよう。今すぐ食べられるものというと、行動食のチョコレートバーがある。けれど、もう一つその前に確認するべきは……。

 昨晩からテーブルの上に置きっぱなしになっていたクッカー。蓋をあけると中には冷たく固まってしまったトマトスパゲティ……。ごめんな、あんなに美味そうだったのに。

 昨日の大事件のせいで忘れ去られて一晩そのままになっていた。夜はかなり気温が下がったので、痛んだということはないと思うけど、お世辞にも食欲をそそる見た目ではない。

 かといって、廃棄するのももったいないという気持ちはある。長旅に向けて節約はしていきたいし、食べ物を粗末に扱いたくない。

 でもなぁ……。温めたらいい感じに食べられたりするだろうか。

「?」

 スパゲティを眺めて黙考していると、サラが横から身を寄せてくる。なんだかリスか何かを彷彿とさせる動き方。

「おいしく食べたいんだ」

 もったいないという意味のことを言おうとして、上手く説明できずに端的な言い方になってしまった。どうやら意図は伝わったようで、何事か考えている様子。

 上やら横やら視線を泳がせた末に、「塩とスパイス、ある?」という質問を受けた。昨日買って、そのまま詰め込んだままの調味料が揃ったフードバッグを見せる。

 中身を一通りテーブルの上に並べ、いくつかを選ぶと、「これ、使っていい?」

 塩、油、コショウ、チーズ。別に構わないけど……。

「いいよ」

 ただ肯定を意味する答えを手短に伝えると、サラはすぐに準備に入った。

 クッカーの中身をフライパンにあけると、ナイフでざくざくと刻み始める。どう考えても調理に見えない風景に一気に不安になるけれど、ここまで来れば止めることもできない。

 みじん切りというほどではなく、あくまで刃入れをしたという感じで終わり、次に投入される油。なんだか不安になる風景が続く……。

「ストーブ使いたい」

 欧米でコンロのことをストーブというのはキャンプ用具と同じ。ここまでくればどうしようもないからと、腹を括ってバーナーを準備した。つまみを捻ってしばらく火力を調節していたサラは、フライパンを火にのせる。今更ながら、火が昨日までの経験を思い起こさせないかと冷や冷やしたけれど、どうやらあまり気にしていないようだ。

 調理は続く。しばらくは中火で。全体が温まったところで火力を落とし、ざく切りになったスパゲティをころころと裏返す。一晩経って固まってしまった麺がちょうど良い感じに焼けていく。そうか、このためにあんな形にしたのか。少しトマトソースが煮詰まっていよいよ水気がなくなってくると、チーズをもみ入れる。当然溶けて良い匂いがし始めたところで、俺はこの料理を美味そうだと思っていることに気が付いた。

 そこからは短い。何かを決意するように火力を弱めて火を止めると、コショウを振りかけて終わり。火力調整ノズルと消火スイッチが同じなのはカセットコンロと同じだ。

 さきほどまで目玉焼きが乗っていたそれぞれの皿に半分ずつよりわける。すぐに試食時間かと思われたけれど、先に空のフライパンとクッカーに水を入れていた。どうやら乾いて洗いにくくなるのを防ぐためらしい。気が利いている。

 二人でテーブルについて実食。ざく切りにされたスパゲティを摘まんでみる。

 火の通った短い麺はかなり柔らかくなっていて正直箸では持ち上げにくい。フォークはサラに貸し出してしまったので他に道具もないのだけれど、そちらでもうまく食べられる自信はないので同じか……。チーズの粘り気も利用してなんとか一口。熱っ。……でも美味い。

 考えてみれば、入っているのはパスタの他にタマネギ、ソーセージ、トマトソース。ここへチーズが加わって美味しくないわけがない。材料的にはほぼラザニアだ。

 水気が飛んでトマトの風味が濃厚になっている。油を加える必要があったのかなとも思ったけれど、どうやら口当たりがよくなっているようだ。茹でて時間がたったスパゲティ特有のぼそぼそした感じもない。当初感じていた不安はどこへやら。二口めに箸を延ばす。

 おっと、そうだ。大切なことを忘れていた。

「美味しいよ、サラ」

 人に料理を御馳走してもらったら感想を言う。大切なことだ。

「……ちょっと塩が少なかった」

 俺と同じように一口目を口にしたサラは、それを飲み込んでから答える。どうやらシェフの目指す高みはもっと上らしい。

 よく汗をかく自転車競技というスポーツをやっていた宿命か、俺は少し濃いめの味が好みだ。だから、正直サラが言いたいこともわからないでもない。トマトの味が強くなった分、塩みも、もうちょっと欲しい。……でも塩分って摂りすぎていいものじゃないよな。

 これから毎日自転車に乗って汗をかく予定だから、気にしなくてもいいのかもしれないけれど。

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