09_居場所を求めて
はぁー、はぁー、はぁー、はぁー。
凍てつく空気に、乱れた白い息が漏れる。頭の整理がつかないまま、獣に変わり果てた顔をフードで覆い隠し、ただひたすらに、駆け出していた。途中、バランスを崩し、地面に倒れ込む。
途端に、血を流し、倒れ込んだ女性の光景が頭に浮かぶ。
あの時の出来事は、あまりに非現実的で、夢のようだった。
でも、夢などではなかった。紛れもない現実だった。早く夢から覚めてくれと願っても、一向に目が覚めない。体に走る痛みが現実であったことを告げる。
罪のない女性をこの手で.......。
自分の手を見た。今でも実感がわかないが、あの時、手が異質な形に変形し、何の罪のない女性を傷つけてしまった。その後、バエナと名乗る少女が、どこかへ消えると同時に、手の形も何事もなかったように元通りになっていた。
僕は、地面から立ちあがり、再び、手足を振って駆け出す。ロンドン街の路上を駆けていると、テレビからニュースが流れ、残酷な現実を知らせる。
速報≫≫
【本日、ロンドン街郊外にある河川敷で、女性が何者かに襲われ負傷。近くの病院に運ばれました】
僕が傷つけてしまった女性のことだ。女性が倒れこんだ後、騒然となり、周囲の人が、救急車を呼んでくれていた。
人を、殺めてしまったかもしれない。その罪悪感が、胸を締めつけ離れない。
日が徐々に沈んでいく。辺りは、闇に包まれ、ビッグベンの鐘の音が、鳴り響いた。
とにかく、居場所がほしい。温もりがほしい。
僕は、希望を求めて、家に飛び込んだ。両親なら、半獣になった僕を受け入れてくれるはずだ。
一人じゃない。寄り添ってくれる人がまだいるんだ。大丈夫、大丈夫だ。
だけど、依然として気持ちは安らがない。不安ばかりが募っていく。
家の玄関の扉は少し開いたままになっていた。いつもなら、鍵を締めて、不審者が入らないようにしているはずだ。
きっと、鍵を締め忘れたんだ......。
ちょっとした違和感を覚えたが、僕は、扉を開けて中に入る。
「ただいま」
大概、返事が返ってくるけれど、今日は誰の声も返ってこない。ただ、薄暗く静寂に包まれた空間に僕の声が響いただけだった。
(きっと、神経質になっているんだ。リビングの扉を開ければ、いつもの光景が、広がっている)
リビングの扉の取っ手に手をかけた時、強烈な臭いがした。途端に、不安が全身を駆け巡り、心臓が狂ったように、鼓動し始める。ふと、扉の下を見ると、赤い血液が流れ出ていた。リビングの中から漂ってきた臭いは、血の臭いだった。
(お母さん、お父さん。生きてるよね。死んでなんかいないよね)
息が乱れ、まともに呼吸することすらままならない状態になった。
扉の取っ手をぎゅっと強く握る。
どんな残酷な光景が、待ち受けようとも、いずれは、直視し受け入れないといけない。見たくない気持ちを圧し殺して、リビングの扉を開けた。
その直後。
目の前に広がる光景を見て、すっと全身の力が抜け、膝から崩れ落ちる。
母親と父親が、二人とも血を出して倒れていた。一瞬、動揺して頭が真っ白になったが、我に返り、慌てて二人のもとに近づき、脈を測った。
幸いにも、二人とも、なんとかまだ生きている。手を震わせながら、ポケットから携帯を取り出し、家の状況を説明すると、救急車を呼んだ。
今は、なんとか、生きているが、このまま、出血が続けば、命が危ない。
止血をしようとした時、母親が目を覚ました。
「お母さん、大丈夫?何があったの?」
問いかけるが、母親の反応がおかしかった。身を震わせ、ひどく怯えていた。
「ば、化け物!来ないで!」
そんな母親の言葉を聞いて、僕は、半獣の姿になってしまっていることを思い出した。母親は、自分が息子だということに気づいていなかった。
「お母さん、僕だ。聖だよ」
僕は、母親に、息子であることを伝えるが、母親はかなり気が動転していて、冷静さを失っていた。
「あなたは、息子なんかじゃない!私をお母さん呼ばわりしないで!何で、息子の名前を知っているのよ!私たち家族のことを調べあげて、何をする気なの!」
母親は、僕が息子のふりをして油断させようとしていると思っているようだ。半獣となった僕は、誰の目から見ても、化け物だった。
「なにもしないよ。信じられないかもしれないけれど、僕は、聖なんだ。信じてほしい」
僕は、気持ちを鎮めて、冷静に話した。
「信じられないわ。あなたが私の息子だなんて......」
母親は、そう言って少ししてから、また意識を失った。どうやら、一時的に、目を覚ましただけだったようだ。この会話が、なんとなく母親との最後の会話なるように思えた。自分の母親に、化け物と誤解されて終わるのではないかと考えると、虚しさが胸に込み上げてきて、心が軋んだ。
父親は、母親の近くに、彼女を守るようにして倒れ意識を失っていた。家の中に、半獣が現れた時に、必死に、母親を守ろうとしたことが容易に推測できた。
床には、半獣と思われる、血で染まった足跡がいくつもあった。その足跡を、目で追っていた時、何かの視線を感じて、さっと振り向いた。
トッドピット。
僕に、視線を向けていたのは、白蛇のトッドピットだった。赤い瞳でこちらを見て、無邪気に、細く長い舌を出していた。
トッドピットは、部屋の中に隠して置いた瓶の中にいたはずだが、瓶から抜け出し、一階のこのリビングまで下りてきていた。
僕の足元まで、近づき、甘えるようにすり寄ってきた。暗い気持ちになっていた僕は、そんなトッドピットを見て、少し癒された。
なぜ、トッドピットがここにいるのか最初はよく分からなかったが、今では、半獣から親を守ってくれたのではないかと思う。
トッドピットが、半獣を追い払わなければ、母親も父親もすでに命を失っていただろう。
それから、半獣の手がかりがないか、家のなかを隈無く捜したが、何かを荒らしたようなあとはなく、足跡以外は何の手がかりも見つからなかった。
足跡も、リビング内に残っていただけで家の外まで行くと、跡は残っていなかった。
外を出ると、満月が、真っ暗な夜空を仄かに照らしていた。
僕は、これから、どう生きればいいのだろう。居場所がなくなってしまった。ごく当たり前の日常が、半獣に出会ってから、完全に失われてしまった。
もし、あの時、タイムベルで半獣に出会わなければーー。
もしかしたら、こんな苦しみを味わなくてもすんだのかもしれない。いつもと変わらない平凡な日々を過ごせたのかもしれない。
今さら、後悔したところで、何かが変わる訳ではないことは分かっている。だけど、どうしても後悔せざるをえなかった。
救急車のサイレンの音が聞こえてきた。僕は、半獣の顔をしている。この場所にいると、ややこしいことになりそうだったので、トッドピットと一緒に家の外に出た。
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