10_残酷な現実

 瓶の中にいる白蛇が無邪気むじゃきに舌を出しながら、こちらに赤眼あかめを向けていた。白蛇が、僕の右腕に噛みつき、半獣になったのだとばかり思っていたが、どうやら違うようだ。自分が、半獣になってしまった答えが、このタイムベルにあると思っていたけれど、見当外けんとうはずれだったのだろうか。


「どういうことですか?白蛇に半獣にする力がないとは」


 僕は、蛇女ムグリに、真っ先に浮かんだ疑問をぶつけた。


「前にも言ったと思うけれど、白蛇の牙には、猛毒があるの。象一匹を殺傷さっしょうするほどの猛毒がね。だから、もしあなたを白蛇が噛んでいたなら、あなたは、すでにあの世に行ってるわよ」


 さらっと、恐ろしいことを蛇女ムグリが言った。


 確かに、最初に彼女と出会った時、蛇の牙には猛毒があると言っていたような気がする。像一匹を殺傷するほどの猛毒。そんな猛毒を持つ白蛇が、自分の部屋で身を潜んでいたと思うと、戦慄せんりつが走った。


「それなら、僕はなぜ......半獣になってしまったのでしょうか?」


 謎は、残ったままだ。白蛇でないのだとしたら、一体、何が原因で、僕は半獣になっているのかなんとしても知りたい。せめて、平凡な日常を漆黒に染め上げた者の正体を特定する糸口ぐらいは、見つけなければならない。


「さーな、自分の頭で考えるんだな。ただ、その右腕の噛み傷から、コウモリの匂いがするとだけ言っておいてやる」


 狼男アウルフが相変わらず顔を背けながら、言った。恥ずかしいのか顔を合わせてはくれないが、どこか、優しさのようなものを感じた。少しでも、有力な情報を話してもらえたことに感謝の念が湧く。


 たまに空を見上げた時、コウモリが飛んでいるのを見たことがあった。だけど、コウモリなんかに噛まれた記憶なんか一切なかったし、遠くで飛んでいるのを見たことがあるだけで、身近に見たことすらなかった。


「コウモリ......」


 ライオン男ライアンは、そう呟くと、何か考えているようだった。特に何かを話し出すことはなく、黙り込む。すると、蛇女が、何の前触れもなく残酷な事実を告げる。


「ところで、あなた、これから、どうするの?半獣になったら、もうわよ」


 蛇女ムグリの言葉が胸にぐさりと突き刺さり、風穴が空いたのかと思うほどの衝撃を受けた。心が残酷にえぐられ、止めどない悲しみにそっと抱かれる。


 蛇女は、何て言ったんだ......。


 人間に戻れない、そう言ったのか。


 両腕の力が抜け、瓶が重力に誘われて、床で粉々に砕け散る。


「そ、そんな......。僕は、人間には戻れないなんて。ずっと......ずっと、僕は、半獣として生きなければならないのか」


 動揺が言葉となる。心のどこかで、人間に戻れる術があるんじゃないかと思っていた。その希望がこうもあっけなく消し去られてしまうなんて、あんまりだ。血を食らう化け物としてずっと生きるしかないのか。


 超人的な力も。


 血を欲する欲望も。


 いらないから、だから。


 奪われた日常を返してくれよ。


 頼むから、誰かーー。


「残念ながら、あなたは人間には戻れないわ。半獣から、人間に戻る方法は今のところは見つかっていないの。まだ、あなたは、完全に半獣になりきれてはいないわ。少しずつ、人間との生活が難しくなってくるはずよ」


 蛇女ムグリから告げられた残酷な事実を受け入れられる訳がなかった。心にひびが入りただれ悲鳴を上げる。顔をしわくちゃになりながら、僕は彼女に呟いた。


「優しい言葉をかけてはくれないんですね」


 蛇女ムグリは、軽く頷いた。


「ええ。だって、世界は、理不尽で残酷なものだもの。あなたに寄り添って、甘やかしてはくれないし、情けをかけてはくれないわ。一度、失ってしまったものを、取り戻せるというのは、幻想よ。その事実を受け入れて、どう生きるのか考える必要があるわね」


 僕には、冷静に考えることができるほどの精神状態ではなかった。当たり前の日常が、当たり前でなくなる。


 今まで通りに生きることが許されない。


 この先の未来、どうなるか、どう歩んで行けばよいのか分からない。


 誰も、歩むべき道を教えてくれない。


 否定的な言の葉が、頭の中で舞い散り、幾度も循環して離れない。


 ーーただ、僕は。


 拳をぎゅっと握った。


「僕は、人間として生きたい、例え、それがどんなに苦しいことであったとしても」

 

「そう......人間と暮らす選択をするのね。だけど、もしかしたら、後悔することになるかもしれないわね。私がかつて、そうだったように。もし、どうしても、辛くなって、居場所がないと感じたなら、ここに来るといいわ」


 蛇女ムグリの言葉に反応して、狼男アウルフが一瞬、彼女の方を見たが、何も言わずに、顔を逸らした。


 粉々になった瓶から白蛇が、地下室の床を這っていた。不安定に揺れる心が、白蛇の存在を覆い隠していた。この白蛇にはあらぬ疑いをかけてしまった。乱暴に、胴体を握りしめ、瓶の中に閉じ込めて連れて来たことを、どうか許してほしい。


 蛇女ムグリに白蛇のことで謝罪の言葉を述べた。


「あなたの白蛇を疑ったりしてすみませんでした。無下に扱ってしまいました。白蛇はお返しします」


「あら、いいの。でも、その子は、あなたのそばにいたいみたいよ」


 僕は、床にいる白蛇を見た。白蛇は、落ち込んだ僕を慰めてくれているかのように、僕の足にすり寄っていた。僕に敵意を持って猛毒を宿した牙で襲いかかるそぶりもなかった。


 白蛇の純粋無垢じゅんすいむくな目が合い、自分の中で、迷いが生じた。完全になつかれてしまっている。どうしよう......。

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