【後編】そして皐月琥斗は中折帽子を被る。

「あっほくさ―――…」


 なゆたから逃げてきた琥斗は文化部棟の物置になりかけている薄暗い空き部室で膝をつく。


「痛っ…」


 右手で胸を抑え込んだ。

 偶然、那由里と話をして懐かしい情緒が込み上げてきたのもあるが、胸の痛みは直接的な原因はそれではない。


「クソが…こんなもんさえなけりゃ…」


 心臓の真隣に埋め込まれた悪意の種子のせいだ。

 それが時々脈打ち痛みを伴って、今の自分は普通のオーヴァードとして生きることさえも許されないのだと


「………、レネゲイドウィルスなんかなけりゃ…」


 大きく咳き込み、座り込んで項垂れる。

 果たしてそんなものがなくても自分は宵月那由里よいづきなゆりに本心を伝えられただろうか?


「あ~~…情けねぇ…ムカつく…」


 自身の弱さとこの性格にだ。


「昔は泣き虫だったくせに…、昔はまだ淑やかさがあったのに…」


 琥斗の記憶では那由里は控えめな性格で、何か悲しいことや嫌なことがあるとすぐ琥斗や咲間の後ろに隠れて泣いていた少女であった。

 しかしソイツはいつの間にか簡単に涙を流さないほど感情が鈍っていて、刺々しくなってしまった。

 先週だって勘違いではあったが、戦いの最中に氷のような冷たい瞳を向けられていた。


「………でもさっきは笑ってくれてよかった…」


 別れる間際の笑みに昔の面影を見ていて、琥斗は自分の頬が紅潮していることに気付くことはできなかった。

 部屋の埃っぽい空気を大きく息を吸って目を閉じた。

 今はまだ大丈夫だ、と胸の痛みを押さえつける。


 時間はある、今だけはこの日常後日譚を噛みしめよう。

 そして戻れない深みに入っていく前に―――この種子を何とかしよう。

 何とかできた暁には…幼馴染であった宵月の兄妹にはすべてを話そう―――。


「…それまではどんな手を使ってでも…生きる……」


 自分に言い聞かせるように言って大きくため息を吐いた。


「ほんっとに、らしくねぇ」


 琥斗は顔をあげて立ち上がった。

 手品のように右手に中折帽子を召喚した。


「俺様は皐月琥斗だぞ、…いつもの帽子がないと決まらねぇだろ」


 自身の正装、中折帽子とスーツが恋しくなってしまい、ひとまず帽子だけ被って壁にもたれかかる。

 胸を押さえて大きく深呼吸。


 ……少しして胸の痛みは治まった。


「…ふ、いつまでも俺様に首輪をつけていられると思うなよ…」


 中折帽子をどこかへ仕舞って、埃っぽい部屋から出る。

 琥斗が文化部棟から出たあたりで昼休みが終わる前の鐘が鳴る。

 多くの生徒が自分の教室へ向かうように動く。

 夏の濃い青空と白い雲が翡翠色の瞳に映った。


 自分の教室へ帰ろうと、琥斗も本校舎へ足を向ける。

 校舎の中へ入り、二年生の教室は2階。

 階段を上っているとなゆたがとぼとぼと降りてくるのが見えた。


「…なんだ、咲間に会えなかったのか?」

「うわ…」

「同じ反応を2回もするな、二年の階にいるんだからまた会うこともあるだろ。それにさっき、またって言ったのもお前」

「そ…それはそうだけど……、お兄ちゃんにはね、会えなかったわけじゃないけど…そこの教室に居るんだけど…隣のイケメンのハードルが高い…、あと知らない人に声かけるハードルも高くて……」

「何してんだお前は…」


 中身の薄い言い訳するなゆたを見て琥斗は呆れた顔をしてなゆたの手首を掴んだ。


「えっ―――、ちょっと、琥斗君!?」


 そして階段を上って、なゆたを連れて咲間の教室へ入る。

 教室内にいた生徒はその皐月琥斗の存在にザワつく。

 それでいてようやく咲間も琥斗の存在に気付いて、目を細めたが連れている人物を見て驚いた。


「は!?おま、お前なんでナユタ連れとんねん!」

「教室の前でうろうろしてたから連れてきてやった、お前たち兄妹は俺様が居ないと仲直りもできねえのか?昼休みはもう時間ねぇし、たまにはあの面の良い男とだけじゃなくて妹と一緒に帰ってやれよ」

「コト、お前なぁ…!」

「…んぇ!?こ、琥斗君…昔からって……ど、どういう…、わわっ」


 なゆたが問い終える前に琥斗はなゆたを咲間の前に突き出した。

 コミュ障のなゆたは知らない上級生たちの視線と突き出された状況に目が回っていて硬直していた。


「宵月君に妹いたの!?」

「あの子って1年の少し前に転校してきた子だっけ…」

「え???私、琥斗様と同じ教室の空気吸ってる…????」

「あの皐月と関係ある宵月って何…?幼馴染…?」


 クラスの騒めきは止まらない。


「お前っ、ほんっと面倒なことしてくれたなぁ!?」

「知るかよバカ咲間、もう手え貸してやんねーよ」


 琥斗は硬直して目を回しているなゆたの背中を一瞥した。

 そしてあとはなゆたに任せて教室を出る。


「あ、あの、お兄ちゃ……ごめ、こ、こ、こんなつもりじゃ………」

「ああもう、ナユタ。大丈夫…気づかんかった俺が悪いんや…」


 咲間は頭を抱えると、教室から出て行こうとする琥斗を呼び止める。


「コト。お前、なんちゅうことしてくれたんや…!」

「………ハッ…先週の仕返しってことでいいだろ?」

「良くないわドアホ!!」


 琥斗は少し楽しくなってしまっていた。

 やはり…コイツらと居るの嫌がらせは、楽しい。

 ふと笑って琥斗は自分の教室へ歩く、咲間の関西弁の罵倒を背中に浴びながら。


「ほんっといけ好かんやっちゃな!けど…、ナユタ連れてきてくれてありがとな!!」

「…なんかお前に礼言われるの気持ち悪いからやめてくれ」

「相変わらず失礼やな!!?」


 そして教室に戻っていった咲間が硬直しているなゆたをひとまず1年の教室まで連れて行こうとしている声が聞こえた。

 琥斗は教室までたどり着き、席に着くころに昼休みの終わりを告げる鐘が鳴る。



 そうだ、今だけはこの日常を噛みしめよう。

 俺たちはもうあの日に戻ることはできないが、新しい形での日常を。

 俺はFHだからずっとは無理だけど――…


 …―――今だけは、この街につかの間の平穏を与えてやろう。




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