君は食いしん坊

朝日夜

「君は食いしん坊」

  カップに注ぐお湯は、規定の線よりも下にするのがコツだった。そうすると濃いめに作ることができるからである。そして時間設定も普通よりも短めな2分30秒。予めいれておいたかやくがお湯でふやけ始め、スープがじわりと溶け出すのを確認してから蓋を閉じる。


「ねぇ、待ちきれないね」


 隣で興味津々に覗き込む娘は目を爛々と輝かせている。もう既に開けようとしているその手を優しく指でとんとんと叩き、両脇に腕を通して持ち上げた。


「えへ、ごめんなさぁい」

「そうそう、まだうどんさんもおそばさんもあっついお風呂で温まってないからね。もう少し待ってあげようか」


 僕は抱き抱えた娘をキッチンからリビングへと連れていき、ソファへ腰を下ろした。


「お父さん重くないの?」

「ははは、まだまだ余裕さ。こーんな感じでね」

「すごーい!」


 腕に力を入れて頭上へと持ち上げる。

 娘は空を飛んでいる感覚が嬉しかったのだろう、パタパタと手足を動かした。流石に三十路を過ぎると少々体に堪えたが、それを察しさせないように平然を装って続けた。

 

 満足したようで、僕の大きなお腹に顔を埋めている。少しくすぐったい感触がして、思わず顔が綻んだ。僕は流しっぱにしていたテレビを何となく見ると、今から食べるカップ麺のCMが流れていた。


「あっ」


 それに娘も気づいたようで、バッと後ろを振り向いた。美味しそうにうどんとそばを啜っている女性が画面の奥でニコニコと笑顔になっている。あまり詳しくは無いが、最近話題の女優だったはず。余りにも美味しそうに食べるものだからお腹が、ごお、と鳴った。

 娘はそれが気に入っているのかケラケラと笑う。


「ホントに似てるなぁ……」


 僕はそっと娘の頬に手を振れた。

 なぁに? ときょとんとした顔で首をかしげる。僕はハッとして「いや、頬にゴミがついてたんだ」と誤魔化した。


「あ、いつものやるよ」


 テレビを指差す。このCMは最後にとあるフレーズを歌って終わるのだ。それが娘にとってはどうにも好きなようで、毎回テレビの人に合わせて歌う。


「あーかいきつねとみどりのたっぬっき!」


 ホント、嬉しそうに歌う。

 このフレーズと歌い方はどれだけ経っても変わらない。


 僕が病弱で小さかった頃も。

 昔の頃と見違える程大きくなってクラスで一番高い背丈になった時も。

 大学時代にとある女性と出会った時も。

 

――そして何一つ不自由なくするすると流れるように結婚し、大切な娘が産まれて。

 幸せ太りで狸のようにまん丸のお腹になってしまった僕を、狐のようにつり上がった目をきゅっと細めて愛おしそうに撫でてくれた時だって、出演者が代わっただけで赤いきつねと緑のたぬきのカップ麺のCMは、ずっとおんなじフレーズで歌っていた。


 幸せだった。いや、今も十分幸せだ。守りたい存在が側にいてくれるだけで、僕は幸せだ。


「――パ? パパぁ!」

「あっ、ごめん、ごめんな。もう時間だね、よーし」


 どうやら感傷に浸ってしまっていたようだ。娘の呼び掛けのおかげでしっかりと時間内に蓋を開けることができた。ほのかに出汁の香りがする。娘がとととっと走ってきて、椅子をよじ登って僕の横に並ぶ。


「わぁ、うどんと、おそばだぁ」

「待っててね、このままじゃ薄いのと濃いのとで味がぐちゃぐちゃになっちゃうから」


 予め用意しておいた割り箸をぐっと力を入れて割る。きれいに2つに割れた。そしてダシ汁を優しくかき混ぜる。

 ふわりと湯気が鰹出汁の香りと共に立ち上ぼり、鼻をくすぐっていく。じんわりと胸が温かくなる感覚がした。麺をほぐし、全体的にスープの素が馴染んで完成である。

 天井からぶら下がる、明るめな橙色の照明に照らされたカップ麺はツヤツヤと輝いていた。   

 

 赤いきつねは大判な油揚げが浸かりきっており、ダシの旨味を取り込んでいる。

 そして緑のたぬきには小海老の風味が香ばしいかき揚げが、これまた出汁を吸って油が煌めいていた。


 ごくり、と生唾を飲む。


「おいしそうだねぇ。早く食べたい。まだ?」

「もうすぐだよ。取り分けるから待っててね」


 僕は食器棚から2つにお椀を取り出す。


「えーっ! そのままがいいな!」


 娘は涎で口元を濡らしながらまだかまだかとぴょんぴょん跳び跳ねていた。


「勿論だよ。これはママの分だからね。ちょっとだけ貰ってもいいかな?」


 宥めるように頭を撫で付ける。


「全然いいけど、それだけで足りるの?」

「うん、大丈夫」


 僕は了承を得たので数本だけお椀に取り分ける。そしてリビングの角に置かれた仏壇の、空けているスペースに乗せる。


「これでいいね」

「ママ、お腹いっぱいになるかなぁ?」


 足元へ駆け寄ってきた娘が心配そうに見上げている。僕を見ているのか、それとも写真に残っている母親を見ているのか、はっきり分からなかった。僕は膝を軽く曲げて娘の脇を持ち、ゆっくりと抱き上げる。


「お腹いっぱいになるさ。ホント、食い意地はってるくせに、すぐに食べれなくなるんだから。食いしん坊なのにね」

「私と一緒だね。だって両方食べたいもん。でも、どっちもおいしくてっ、好きなんだけど……すぐお腹いっぱいになる。パパのお腹みたいに」


 僕は苦笑いを浮かべる。


「はは、僕みたいに狸っ腹にはならないようにね」

「うんっ、ね、早く食べよ? 冷めちゃうよ」


 どうやらもう待ちきれないようだ。僕は娘を下ろし、食卓へ向かう。僕はいつもの定位置へ、娘はその隣へ座る。まだ湯気が立つ2つのカップ麺を娘の方に寄せ、僕は冷蔵庫から出しておいた銀色の缶の蓋を開ける。

 プシっと空気が抜ける心地よい音がした。


「あ、シュワシュワ飲んでる。美味しいの?」

「僕は美味しいと思うけど、これは大人になってからだからね? すっごく苦いよ~?」


 口に泡がつき、袖で拭う。

 

「苦いのやだぁ。ならこっち飲んだ方がいいもんね」


 カップを両手で持ち、息を吹き掛けて表面を冷ましてからちびちびとダシ汁を飲む。満足そうな表情を見せた。


「うーん、しょっぱい!」

「あまり飲みすぎちゃだめだよ?」

「うん、分かってる。よし、次はこっち!」


 うどんを少し食べてから、次は蕎麦を啜っていく。あまり啜るのは得意ではないので時間をかけてゆっくりと食べ進めていく。こんなところもそっくりである。


「おいし~。パパも食べよう?」

「残ったのでいいよ」

「ええ、食べきっちゃうよ?」


 娘は自信ありげに鼻をならす。


「うん、その調子。遠慮なく食べてほしいな。なんならまだ一個あるからね」

「えーじゃあがんばる!」


 意気込んだ娘はがんばって赤いきつねと緑のたぬきを食べ進めていく。そしてある程度時間が経ってから、ちらりと僕を見る娘の頬はリスのようにパンパンに膨れていた。限界の合図だ。もごもごと何かを喋りたそうにしているが、とりあえず口の中に入ったものを全て無くして貰うことにした。


 覗き込むと1/3くらい残っていた。前よりも大分減っている。成長している。僕は何だか嬉しくなってしまった。


「ん~、お腹いっぱい」

「うん、それなら良かった」

「歯磨きしてくるっ」


 娘は椅子から降りて洗面所へと消えていく。

 僕は残った2つのカップ麺を口にした。結構冷めていた。それでも美味しいと思った。ただ、味が美味しいだけじゃなくて、心の奥がじわりと染みていた。


 僕はすぐに無くならないようにわざと少なめに麺をつかんで啜る。目を閉じる。あの頃の情景を思い出す。


 これを食べるとどうしても、大好きだった君を、思い出してしまう。貧乏だった時、喧嘩して仲直りした時、晩御飯時に二人共寝てしまって御飯を作るのが面倒になった深夜、いつもこの2つが僕らと共にいた。


(……僕はちゃんとやれているだろうか)


 時折心配になる。僕はあまり頼りになっていないんじゃないかと、何も与えてあげられてないんじゃないかと、不安になってしまう。

 正解が分からないから、あれこれ模索して毎日を必死で生きている。でもそれが間違いだったらどうしよう。それを教えてくれる君はもうこの世にはいない。

 ちゃんと成長させてあげられているだろうか。幸せになってくれているだろうか。


 僕は父親として――。


「大丈夫よ。きっと、あなたなら」


 えっ?


「ちゃんとやれてるわ」


 何処にいるんだ?


「あの子を育ててくれて、ありがとう。あなたは立派な父親よ」


 教えてくれ、何処に、何処に――!?


「だから、頼むわね。あたしはいつも見守ってるから。大好き。愛してる」


 僕も好きだ。大好きだ。愛してる。永遠に愛している。だから、だから少しだけでも――!!!!


「……パパ?」


 僕は伸ばした手を、ゆっくりと引っ込めた。不思議そうに見つめてくる娘へ自然と足が向いて、そして抱き寄せた。


「えへ、あったかいね」

「ああ」


 僕は力強く、傷つけないように抱き締める。零した涙を気づかせないように、僕は無理やり押さえ付けようとしたが、無理だった。ポロポロと、自分の意思とは関係なく流れ出てしまうのだ。


「どうしたの?」

「ごめん。しばらくこのまま」

「うん?」


 しばらく僕は娘を抱き締めていた。娘も、どうやら何かを察してくれたようで、腕を横腹に回してくれる。

 落ち着いた僕は椅子に座り直して、食べ掛けだったうどんとそばを食べようとする。


「あれ?」


 中身が何も無かった。いつの間に食べてしまったのだろうか。僕はハッとして仏壇へ向かう。お椀の中身が無くなっていた。驚きを隠せない僕の元へ娘がとたたっと寄ってくる。


「ねぇねぇ、そういえばね、なんか私ね、歯磨きしててボーッとしてたら、ママにぎゅっとされた夢を見たんだ。だからパパにぎゅっとされたらすごく嬉しくなっちゃったの」


 娘はそう語った。

 どうやら、僕たちは不思議な一夜を過ごしたようだ。僕は仏壇に飾られた最愛の女性の写真に優しく触れる。




――君は、やっぱり食いしん坊だね。




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君は食いしん坊 朝日夜 @rikku1122

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