卑弥呼の神殿は出雲にある①

@takanosukan

第1話

 はじめに

 この文章は、邪馬台国(正確には女王卑弥呼の神殿)の所在地を詮索(推理では無いのは勿論、推定ですらなく、要は思いつき?の連鎖によってする詮索)する試みです。それらしく装う必要もあるので、若干は歴史学的思考も含まれてはいます。しかしながら、それでも、基本、素人の戯れ言である事に変わりはありません。この点、ご承知置き下さい(全うな歴史学研究者の皆様には黙殺、或いは無視していただけるでしょうから、全く心配はしていませんが、私と同レベルの自称歴史家或いは研究者の方々に対して、あんまり「真剣に憤らないでね」ってお願いしておく感じでしょうか)。

 話しのほとんどは、所謂『魏志倭人伝』をベースに進めていきますが、文献史料である『魏志倭人伝』を歴史学的に幾ら精緻に解釈したとしても、卑弥呼の神殿の場所を特定する事は、控え目に言って無理な話しです。言い方を換えれば、考古学的な知見の積み重ねによってのみ、邪馬台国の領域等やそれに付随する神殿の位置は比定されるべきものです。

 そこを、更に論理的な思考を排除(ワープ)して私なりに言い換えてしまえば、少なくとも卑弥呼の宮殿を探そうとする場合には、倭人伝の史料的な有効性は少なくなってきているのです。であれば、魏志倭人伝を思い切り「遊んでしまえ」も許される可能性があるのではないかと、私は考えました。その思いつきと経緯の可否については読者にお任せするとして、暫く「妄想の世界」にお付き合いいただければ幸いです。

 第一章

 こんな文章を読む気になるような方は『魏志倭人伝』の概略は、ご存じでしょうが、念の為に説明させていただきます。正式には『三国志』魏書巻三十、烏丸・鮮卑・東夷伝倭人を指します。二千文字ほどの文書であり、私のような者が批判するのはどうかとも感じますが、文章としてもかなり不充分かつ不親切で拙劣感(如何様にも読めてしまう)があります。が、しかし、それでも同時代の日本にはもちろん、世界中捜し回っても当時の日本(倭)に関する文字情報はありませんから極めて貴重な史料ではあります。

 同書は西暦285年頃に陳寿によって『魏略』(残念ながら、まとまった書物としては、現存しませんが、多くの文書等に引用されていますので、存在した事は確かです)と言う別の史料を主な材料に編纂、完成されたものだと考えられています。で、その魏略での内容はと言うと、朝鮮に置かれていた魏の出先機関である帯方郡から倭国へ渡った使者の報告を元にしていると、言われています。また、中国の所謂「正史」の中で、我が国についてまとまった形で触れている最古の文書ともなります(倭人伝より更に古い『漢書』にも「倭」についての断片的な文字情報はありますが、その漢書の成立は、邪馬台国時代?の前の1世紀末です)。

 ただ、これは全ての史料に共通する事ではありますが、その時々の常識的な事柄は書かれないものです。今で言えば、東京ディズニーランドが実は、東京ではなく千葉県浦安市にある事は常識ですから、それをわざわざ書き残す意味を感じないのと同じ感覚です(書き残すのが、むしろ小っ恥ずかしい)。なので、もしかしたら、結果的に二千年後には、後楽園遊園地の跡を東京ディズニーランドだと誤認し、葛西水族館をシーパラダイスと勘違いしてしまうのかもしれません。

 また、そこまで普遍的ではありませんが、平凡な普通の日常生活(たとえば、特別ではない日の食事の内容)も多くの場合に記載されないものです。これは、我々が日記等を書く場合の態度を考えてみれば当然の事ですが、人はスペシャルな事を書き残すものなのです。結果、文字情報にだけ頼ると時間の経過と共にく常識的で普通の事こそ、かえって分からない場合も出てきます(これに対して、考古学は逆に人々の日常生活を明らかにし易いやすい学問です)

 さらには、ある年代までは、校訂を経た上での印刷物としてでは無く、各個人が書き写す事で伝承されてきた物が多いわけですから(場合によっては1000年間以上)、意図しない誤写は勿論、恣意的な改竄も含まれている可能性もけして少なくはありません。特に自分や自分達に都合が悪い事柄については…。

 その上、倭人伝は編纂物ですから、主要な資料はあるにしても多様な材料を編纂した個人の判断で整合性を持った(言い方を換えれば、それが不充分かもしれませんが、辻褄が合うように)一種の物語にしてしまっている可能性すらもあります。

 そして更にさらに言えば、倭人伝はともかく、たとえば、江戸時代の日本には偽古文書造りを商売にしていた人すらも存在していました。古い、或いは古そうにも思える文字情報は、極めて危うい物なのです。

 以上のような状況を前提にして全ての文字情報は徹底的かつ批判的に解釈するのが歴史学の常識、良心ですが、本文は、そのような態度をとりません。何故か。「トンデモ本」だからです。ご了承下さい。

 具体的にいきましょう。まずは、同書に対する私の捉え方ですが、一字一句とまでは言いませんが基本的には正しいと認識していきます(後ほど説明は致しますが、特に数字と固有名詞以外は)。他の同時代史料が余りに少ない事が主な原因ではありますが、ほとんどの場合、同書のどの箇所がどう具体的に間違っているかを人文科学的に客観性のある「正しさ」を持って確定するのは不可能だからです(私より幾らかは高度な、つまりは、推測につぐ推測は可能でしょうが)。

 次に、その上で同書は我々の時代のどんなジャンルの書物に類似しているかを検討してみました。結果、突飛な発想かもしれませんが「観光ガイドブック的な書き方じゃねぇー」と、思い至りました。邪馬台国及び中国の認識している倭における小国家への行き方から始まり、風俗習慣、政治的な関係へと書き進めているからです。

 そこをもう少し内容的に説明しましょう。まずは、順番を度外視して、政治的な情報の位置づけから考えていきます。国内での旅行では、基本、不要でしょうが、海外旅行となれば、訪れる地域によって大差はあるにしても、必要性はあるはずです。もっとも、現在もそうですが、その国や地域に行きたくてしょうが無い方にとっては、後に廻されて仕舞いがちでしょう。倭人伝に於いても扱いは最後となります。

 これに対して、国の内外に関わらず、行き方は無条件に必要であり、風俗習慣は旅行に伴う知識として必要性はそれなりにはあるので、この順番にならざるを得ないのです。勿論、この文書を頼りに実際の「旅行」をするのは、余りに危険ではあるにしてもですが。

 言い換えれば、ある人にとって未知な地域への行き方や状況を説明する為には、そういった記述、体裁にならざるを得ないはずだからです。

 では「観光ガイドブックだ」と把握したとして、話しを進めて行きましょう。私は千葉県民なので、京都を例にします。飽くまで私の見知った範囲ではありますが、京都駅から神社仏閣等への行き方を個別に紹介して行く形が殆どです。何故か。当たり前過ぎますが、そのガイドを利用する方は多様だからです。たとえば、全ての観光客が、まず無条件に清水寺に向かい、二年坂、産寧坂のお店を梯子して、葛切りなり抹茶を味わい、その後、たとえば、全員が金閣寺に行くわけではないからです。好みや嗜好、旅の目的、京都での経験値には大きなバラツキがある以上そのような書式にならざるを得ません。

 次に、それが観光であれ、仕事だとしても「京都に行ってきた」と、最低限、言い張れる場所を考えてみましょう。すると、それは京都駅の新幹線ホームとなります(たとえ、改札を出なくても、素人が奥さんなり旦那さんに対してアリバイ工作の為にお土産を買うぐらいの事は簡単に出来まっせ)。つまり、観光ガイドブックの類いは、外来の人の多様なニーズに対応する為に、何らかの基準点が必須となります。関東からの視点ではありますが、京都に行くのであれば、新幹線の京都駅がその基準となるのです(地域によっては伊丹空港が基準となるかもしれませんが)。

 では、倭人伝で京都駅と同じよ

うに「倭に行った」と、言い張れる最低限の場所は何処になるでしょうか。九州説の方には申しわけありませんが(因みに畿内説は、私が、魏志倭人伝を検討する中では、成立するはずはないと、思っているので、今後の私の珍説を展開していく中でも申し上げないとは全く感じませんが)、伊都国とはなりません。当時の倭の入口は対馬国(現在の長崎県対馬市)となります。従って、もし、何らかの基準点を設定するのであれば、対馬国にならざるを得ないのではないでしょうか。人によっては、そこから朝鮮に戻ってしまう方も居たはずですが、それでも、倭に行ってきた事にはなるはずだからです。

 で、倭人伝の書き下し文をベースにして話しを進めていきたいのですが、もう一点だけ、事前に説明すべき論点があります。それは、記載されている方位に関してです。

 今と違って方位磁針はありませんから、正確な地図と共にイメージ出来る我々の感覚とは違って「か~なり」大雑把なはずです。「南東」と行った中間的な表記は倭人伝には基本ありません(冒頭の「東南」を含め三回使用されていますが、その都度、後述いたします)。「南」と書かれていたとしても我々の感覚で見れば、限りなく東や西に近い方向も含まれているはずです。さらに言えば、進むべき方向を表現したとは思えません。何故なら「南」と表記されてはいても、これは今でもそうですが、陸上、海上を行こうとすれば、現実の地形、道等の制約から、常に100%、南に行き続ける事は不可能だからです。では、何を表現しているのでしょうか。私は、ある程度の面積、塊としての存在するであろう国の位置関係を表現していると考えます(〇行と表記された場合を除いて)。

 たとえば、茨城県と千葉県の位置関係で言えば、明らかに茨城県は千葉県の北となりますが、私の住む柏市から同じ県内の千葉県銚子市の利根川河口の対岸にある旧波崎町(現茨城県神栖市の一部)に行こうとすれば、大雑把に言えば、東に向かう事になります(ルート設定によっては、最後は南東に向かう事も起こってしまいます)。つまり、任意の二点間、具体的には対馬と言う基準点から見れば、卑弥呼の宮殿間との方向性と大面積を伴う国家の位置関係は「かなり異なる可能性がある」と、認識せざるを得ないのです。

 では、順次、卑弥呼の神殿の所在地に関係しそうな部分の倭人伝の解釈をしていきます(全文の解釈は別の機会とさせていただきます)。まずお断りしておきたいのは漢文?を正確に読み下していく能力は私には無いので、主として、ネット上のそれを含め私が一般的だと思われる書き下し文をベースにして話しを進めて行きたいと思います(尚、スマホ或いは私の能力不足で、似た字を一部使用しています。また、それすら無いと判断した場合は〇で表示しました)。また、現代語訳は私の創作(勝手な解釈)です。ご了承下さい。

〈 〉内が書き下し文、それに続く【 】内は現代語訳、更にその後の文章は、更にさらに悪ノリした私のデタラメな解説となります。

〈倭人は帯方東南の大海の中にあり。山島に依りて国邑をなす。旧百余国。漢の時に朝見する者あり。今使訳通ずる所三十国なり〉

【倭人の国は帯方郡(現在のソウル付近)の南東の大海の中にある島国で島々にそれぞれ集落があり人が住んでいる。前の時代(魏の前の漢王朝の頃)には中国に外交使者がやって来ていた。その頃は百カ国に分かれていたが、今は三十カ国ほどになっている】

 倭(当時の日本)はソウルの南東に広がっている海上にある島国であると、ほぼ正しい地理感覚です。昔、100あった国は「今は30ほどに集約されている」と、統一への動きをも認識しています。

 また「使訳を通ずる所は30国だ」と、していますが、邪馬台国と敵対している狗奴国を含めれば、倭人伝に登場する諸国数と一致しますが、敵対すれど最低限の往来、或いはお互いに認識はあったのかもしれません。

〈郡より倭に到るには、海岸に循いて水行し、韓国を歴て、乍く南し、乍く東して、其の北岸、狗邪韓国に到る。七千余里なり。〉

【帯方郡から倭に行くには朝鮮半島の西海岸を海岸づたいに南下し、その後、東に行く。倭の北岸、狗邪韓国に到る。ここまで、7000里ほどだ】

 この節でも地理的な認識は正確です。狗邪韓国は現在のプサン付近に比定されています。そうすると、大雑把ではありますが、現在の海岸線を前提にすれば、ではありますが、ソウル、プサン間は700㎞ほどなので、この文章では、今後「1里は100メートル」と、していきます(もっと正直に言えば、こう設定しないと色々な場面で面倒くさいからです)。

 前節で、狗奴国を含めて30カ国にはなるとは書きましたが、狗邪韓国(今のプサン)を倭の一部と考え狗奴国は除外する事でも国数は一致します。この当たりは、現在の政治状況を考えると「炎上」するのでしょうが、可能性はあると、考えています。つまりは、今の日本と二千年近く前の当時の倭の領域は一致しないかもしれないのです。

〈始めて一海を度ること千余里。対馬国に到る。其の大官を卑狗(ひこ)といい、副を卑奴母離(ひなもり)という。居する所絶島にして、方四百余里ばかり。土地山険しくして深林多く、道路は禽鹿の径の如し。千余戸あり、良田無く、海物を食して自活し船に乗って南北に市糴す。〉

【始めて外海を渡ること千余里、対馬国に到る。王は卑狗、副を卑奴母離と称する。絶海の孤島で周囲は四百里余りある。険しい山に森林が広がり、道は獣道のようだ。千戸ほどの家はあるが、農作物に恵まれないので、主に海産物を食し、南北に船を走らせ交易で生活している】

 プサン、対馬間は、港?(船着場)の位置によって変動しますがおよそ60㎞ほどですが、感覚的にはこの後の対馬、壱岐間よりは「もうちっと遠いかなぁー」と、言った程度の事でしょう。だいたい、この時代に海上の距離を測るのは極めて難しい事なので大きな間違いではないと考えます。

 ここで、本題からは少し外れていきますが、通説ではこの時代の東アジアでは「帆走は行われていなかった」と、されていますが、もしそうであるなら、プサン、対馬間の往来は不可能ではないかと、考えています。何故なら、とてもじゃないけれど、人力だけ、それはつまりは、漕ぐだけで60㎞を渡りきる事は出来ないからです(特にプサン発は)。

 その根拠は、当時の船では漕ぐだけでは、時速1ノット程度しかだせません。時速1ノットとは、1時間で1海里(1852メートル)しか進めないので、60㎞を渡りきる為に30時間以上かかります(距離を50㎞としても25時間)。ほとんど飲まず食わず、仮眠すらしないで30時間漕ぎ続ける事が出来る人間がいるでしょうか(交代要員を乗せれば、積める荷物は減る一方ですから、よほど大きな船にしないといけません。すると漕ぎ手もより必要となり悪循環に陥ります)。あらゆる航海術(例えば、プサン発では始めに南西方向に漕ぎ出して北上する海流を利用)を駆使しても船中泊を余儀なくされます。当時の航海は、季節や短期的な経験則を下に行われていて、我々とは次元が違うレベルの知識、技能があったとしても、これは無理な話しではないでしょうか。

 効率は悪くても、風力を利用すれば、それが技術的に低レベルで追い風しか利用出来ないかもしれませんが(他にも、たとえば、木の板や布は製作に手間暇がかかり過ぎるでしょうが、竹や木の皮を薄くはいだ短冊を編んで漆等で固めた風受け?を利用する事は可能ではないでしょうか)、倍の2ノットで航海出来る可能性はあります。であれば、60㎞を16時間あれば何とかクリアできます。早朝、4時にプサンを出れば、夜の8時頃に対馬に到着するイメージにはなりますから、過酷ではあっても可能ではないでしょうか。

〈又、南一海を渡ること千余里。名づけて澣海という。一大国に到る。官をまた卑狗といい、副を卑奴母離という。方三百里ばかり。竹木叢林多く、三千ばかりの家あり。やや田地ありて、田を耕せども、なお食は足らず。また、南北に市糴す。〉

【再び、澣海と呼ばれる大海を南に千里ほど進むと、一大国に到る。王は卑狗、副を卑奴母離と称する。周囲は三百里ほどで竹林、山林が広がっている。多少は田があり、耕作もしているが、自給は難しいので、南北間の貿易にも従事する者が多い】

 「一大国」(「一支国」の誤りか)は、通説では、今の壱岐の事だとされています。対馬、壱岐間は、プサン、対馬間よりは、幾らか短いのですが、距離、方向共にほぼ正確です。また、対馬よりは農作物は豊かではあるけれど、交易に頼って生活している様子も現在の壱岐の地勢はを考えれば適切でしょう(対馬よりは平坦地が多い)。

〈又、一海を渡ること千余里。末盧国に到る。四千余戸あり。山海な浜いて居す。草木茂盛し、行くに全人を見ず。好んで魚鰒を捕え、水深浅となく、皆沈没してこれを取る。〉

【さらに海を千里ほど渡って末盧国に到る。四千余の人家が山の麓や海沿いにある。前を行く人を見失うほど草木が茂っている。多くの人が海に潜って魚貝を捕っている。】

 末盧国は、現在の唐津から呼子にかけた地域にあった小国家だと言われています。地理的な事項に特に問題はありません。王についての記載が無い理由は分かりませんが、或いは、伊都国の外港(今の東京港は対外的に充分な機能を持っていますが、かっての東京市に対する横浜港のような関係性)となっていて、国は形式的な区分なのかもしれません。また、私には、九州本土の入口と言うよりも、穏やかな港町の昼下がりの光景を活写しているようにも感じられます。

〈東南へ陸行すること五百里。伊都国に到る。官を爾支(にき)といい、副を泄謨觚柄渠觚(しまこへきこ)という。千余戸ありて、皆女王国に統属す。郡使の往来、常に駐する所なり。〉

【東南に五百里(50㎞)ほど行くと伊都国に到る。王は爾支、副を泄謨觚柄渠觚と称する。千戸ほどの住居があり、女王国に属す。郡使が駐在している。】

 50㎞ほどで到着するので、やや大袈裟に言えば隣町みたいな感覚でしょうか。現在の糸島市、福岡市西区にかけての地域が伊都国の領域だとされます。今の呼子を基点と考えれば、動き出しは「東南へ行く」との記述は間違いとは言えませんが、微妙な記載です。

 また「千余戸余り」と、書かれていますが、通説では「千」は「万」の誤写であると、されています(断片的に伝わる『魏略』からの引用に「戸万余」記載されでいるからです)。帯方郡からの使い、つまりは、郡使が滞在する街であれば、王の記載がない末盧国の4分の1強なんて違和感があります。ので、私も納得出来ます。で、意味を現す漢字のような表意文字は、そう簡単に誤写するものではありません(誤写してしまえば意味が変わってしまうからです)。これに対して数字には、相対的な?意味はあっても書き写した後に再度確認したしても意味自体は変わらないので気がつきにくいからです(前述したように固有名詞も含めてね)。

 また、敢えて、邪馬台国に属する事を書いているのは、もしかしたら、実務上は伊都国こそが、政治的には首都だけれども、形式的に、或いは象徴的には、狭義の邪馬台国が都である事を確認させる為なのかもしれません。

〈東南、奴国に至るには百里。官を〇馬觚(しまこ)といい、副を卑奴母離という。二万余戸あり。

【伊都国の南東百里(10㎞ほど)で奴国到る。王を〇馬觚といい、副を卑奴母離という。家屋は二万ほどだ】

 その真偽には、問題があるかもしれませんが(製作年代は江戸時代かも)、西暦57年に後漢の光武帝から賜ったとされ、江戸時代の天明四年(1784年)に志賀島(現福岡市東区)で発見されたと言われる金印(印面に「漢倭(実字はにんべん無し)奴國王」とあり、国宝)にある奴国だとされています。

 かって、中国に正式な外交使節を送るほどの倭のリーダー的な存在であったはずなのに、経済的にはともかく、政治的には、やや弱体化したのかもしれません。現在の博多付近、比恵・那珂遺跡が中心地だと言われています。

 当時の海岸線と現状はかなり異なりますが、わざわざ末盧国を経由して此処に到るルートが普通なのは、いささか不思議です。実際、五世紀以降(西暦401年~)となると、対馬から沖ノ島を見やりつつ、博多や宗像にむかうルートが、一般的になりますので、航海の安全性や確実性を含めて、何らかの歴史的な経緯があるのかもしれません(何らかの勢力が朝鮮半島から侵攻した時に利用か?)。更には、考古学的な知見等から考えれば、卑弥呼の時代でも、九州を経由しないで、直接、朝鮮半島南東部から山口県、島根県等の日本海側に到達するルートも想定可能です。

 で、「東南」と、いった中間的な方位の記載は前節も含めてありますが、これは、見通せるとまでは言いませんが、近隣なので、書き手、読み手とも位置関係を細かく認識出来るからだと、考えました。

〈東行して不弥国に至るには百里。官を多模(たま)といい、副を卑奴母離という。千余家あり。〉

【東に百里(10㎞)ほど行くと不弥国に到る。王は多模、副は卑奴母離と称する。千戸ほどの家がある。】

 次に不弥国です。通説では、内陸の現在の飯塚市付近が比定されていましたが、宗像大社付近ではないかとも言われています。個人的には、後者を推したいと思いました。最大の理由は、自分の妄想に都合が良いからですが…。 

 以上の六ヶ国は、不弥国に多少の異論はあっても、考古学的な視点も含めて多くの研究者が納得しています。京都の観光ガイドブックにたとえれば、東寺や三十三間堂、せいぜい伏見稲荷ぐらいまでの範囲に当たります。「新幹線の発車まで1時間半ちょっとあるけど、どうする」「伊勢丹、ウロウロするのも悪くはないけど、東寺行っちゃおうか」なんて会話が成立しそうな感覚の地域でしょうか。なので距離の記載はあっても、日数は書かれていないのだと感じます(日帰り圏だとまでは言いませんが)。問題はここからなのです。

〈南、投馬国に至るには水行二十日。官を弥弥(みみ)といい、副を弥弥那利(みみなり)という。五万余戸ばかりあり。〉

【南、投馬国には水行で、二十日間で到る。王は弥弥、副を弥弥那利と称する。五万戸ほどの人が住む】

 投馬国に向かう際の基点となるのは、九州説では伊都国、畿内説では不弥国が一般的です。さらに後者は、理由は色々とあげられていますが「南」は東の「書き間違い?」だと捉えるのが普通です。私は、既に書いたように対馬国が基準点として最適だと考えています。そうすると、余りに漠然とはしていますが、投馬国は、それが九州だろうが、それ以外の本州等であろうが、対馬よりは南にあったと言うのが、私の意見となります。

 で、まずは、九州説の問題点から挙げていきたいと思います。幾ら外交使節がいる政治的な中心地だとしても、伊都国を基準点とする説得力が弱い事です(失礼千万ではありますが、私の思いつきと大差はありません)。

 一方、畿内説は、この点では私に言わせれば論外です。なぜなら、自分の都合の良いように、つまり、畿内に邪馬台国がある事を前提にして「間違えている」と、主張しているからです。しかも次節の邪馬台国、更には次々節の狗奴国の説明で使われている「南」も同様に東の誤写ないしは、日本列島の位置に対する誤解からくるものだとする事です。如何でしょうか(但し、私も次章以降同じ様に客観性に欠ける自分の都合で話しを致しますので、このような批判する資格は無いのですが…)。

 この節で問題なのは、水行、つまりは船に乗って行く所だと書かれている事です。しかも二十日と言う長期間です。九州説の方は筑後川の川下りを想定しがちですが「筑紫次郎」とも、称されるほどの大河を下ってしまったら、帰りはどうするのでしょうか。今の各地の船下り、私は大好きですが、それが成立するのは、下りきった船をトラックで上流に運んでいるです。当時は、不可能でしょう(牛馬で引っ張る。或いは帆走する事が無いのであれば、ですがね)。

 次章で詳述しますが「一海」とは書かれていないので沿岸を移動したのではないかと、認識しています。具体的には末盧国から九州西岸を南下するルートを想定していますが、詳細な航路?は次章以降で。

〈南、邪馬臺国に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月なり。官に伊支馬(いきま)あり、次を弥馬升(みましょう)といい、次と弥馬獲支(みまかし)といい、次を奴佳〇(なかと)という。七万余戸ばかりあり。〉

【南、邪馬台国には水行では十日、陸行では三十日で到る。王は伊支馬と呼び、副を弥馬升と言う。次を弥馬獲支といい、さらに次を奴佳〇と言う。七万戸の人口を抱えている】

 いよいよ、問題の邪馬台国です。私は、投馬国と同様に対馬を基点として考えていきますから、対馬からみて南に大まかな塊として邪馬台国は存在していたと、認識している事になります。具体的には次章以降で展開していく事になりますが、「水行十日」「陸行一月日」についてだけは私見を述べたいと思います。

 結論的に言えば、水行では十日、陸行では約一ヶ月と二通りの行き方を示していると、考えます。その理由は、前節の投馬国への「水行二十日」と言う表現です。幾ら島国とはいえ、大海でもない海上(水上)だけを瞬間的に陸地に上がる事も無く「大海」と表記されない海を二十日間移動する事は常識的に有り得ません。多少は、例えば半日程度の「陸行」を含め、船を乗り継ぐ等も含めて「二十日ほどかかる」と、言うふうに捉えるのが普通ではないでしょうか。言い方を換えれば、主な移動手段は「水行」ですが、陸上を移動しないわけではありませんよ。です。

 その流れでいけば、書き分けているのは、二通りの行き方が成立するからではないでしょうか。京都でたとえれば「路線バスや地下鉄で行けば4~5分程度、街を半ば見物しながらであれば、歩いて小一時間で着きますよ」と、言った感じだと考えます。

 詳しくは、次章で展開していきますが、更に踏み込んで言えば「行きは海上を十日、帰りは陸上を一ヶ月」がお勧めと、言う事を表現しているのでは無いかと、考えています。だいたい、行程の75%がもし基本、陸上を行くのであれば「陸行四十日」と、書かれるはずです。

〈女王国より以北はその戸数道理を略載し得べくも、その余の傍国は遠隔にして詳らかにすることを得べからず〉

【女王国より北にある国については戸数、行き方は簡単に書くことは出来るが、それ以外の国々については遠いので詳しいことは書けない】

 この節に関しては、妙な解説は不要かもしれませんが、あえて申し上げれば、北部九州或いは私の妄想では対馬からみて、邪馬台国本国のさらに遠方(少なくとも邪馬台国の南や東)に広義の邪馬台国(倭)に属する国家が存在している事を書いている事になります。次章で書いていきますが、相当の奥行きがないと収まらない世界が広がっている事になります。

 さらに踏み込んで言えば、何の根拠もありませんが、邪馬台国の西端は、北部九州からさほどには遠くない所にあることを示唆しているようにも私には感じられます(少なくとも常識的な往来に支障が無い程度の距離)。

〈次に斯馬国あり、次に已百支国あり、次に伊邪国あり、次に群支国あり、次に弥奴国あり、次に好古都国あり、次に不呼国あり、次に姐奴国あり、次に対蘇国あり、次に蘇奴国あり、次に呼邑国あり、次に華奴蘇奴国あり、次に鬼国あり、次に為吾国あり、次に鬼奴国あり、次に邪馬国あり、次に躬臣国あり、次に巴利国あり、次に支惟国あり、次に烏奴国あり、次に奴国あり。これ女王国の尽きる所なり〉

【省略致します】

 前節を受けて、全部で二十一カ国の国名があげられています。読み方によっては、現在の地域名や旧国名等と一致又は近いものもあると、言いたい所ですが、そのような比定は控えたいと思います(たとえば、「支惟国」は「きいこく」と読めない事もありません。それが旧国名の紀伊、つまりは、今の和歌山県にあたると言えない事もないのですが?)。

 ただ、あくまで私見ではありますが、これらの諸国は、現在の三重県から東海、さらには千葉県までの関東南部、事によれば、長野までの地域にあったのではないかと、感じています。次章以降話しの中で申し述べ致します。

 この節で問題なのは最後の「次に奴国あり。これ女王国の尽きる所なり」でしょうか。この奴国は九州北部の「奴国」とは別の国だと思います(単純に誤記、誤写の可能性も高いでしょうが)。旧国名でも「あわ」と読む国が二つあります。阿波(今の徳島県)と安房(今の千葉県最南部)がそれです。単なる伝説や後世のこじつけかもしれませんが、安房は「新しい阿波」を表現しているのかもしれません。それと同様に、この場合には、奴国出身者達が造った国でしょうか。

 また、「女王国の尽きる所なり」と、記載されているのは、これらの21カ国のさらに南に次節に登場する狗奴国が存在すると、捉えるのが、本筋だとは思いますが、そうしてしまうと、私には都合が悪くなるのでひとまずは無視して、次節、次章以降で説明致します。

〈其の南に狗奴国あり、男子を王となす。その官に狗古智卑狗(くこちひく)あり。女王に属さず。郡より女王国に至るには万二千里なり。〉

【その南に狗奴国あり、男性が王であり、狗古智卑狗と称している。この国は女王国には属していない。帯方郡から女王国に至るには一万二千里である】

 前節で触れたように「其の南」の「其の」が何を指しているのかが問題になるでしょうが、私は狭義の邪馬台国本国の南側に狗奴国が広がっていると、捉えたいと考えます。なぜなら、「その余の二十一カ国」は国名しかあげられていません。つまり、少なくとも倭人伝の編纂者は、それら諸国の具体的な位置を認識していないからです。認識出来ていない諸国の南側に狗奴国があると書く事はまず有り得ないからです。

 さらに言えば、敵対しているとは言え、親分の名前が分かっている狗奴国の北側にこれら国名だけしか分からない諸国が広がっていると、するのは不自然です。

 最後の「万二千余里なり」ですが、これは帯方郡から邪馬台国までの距離ですから、倭人伝の言う経路で行くと対馬からでは残り四千里、つまり400㎞しか離れていません(それが末盧国を起点にしてしまうと、およそ200㎞となってしまいます)。そうなると、とても奈良県には到達しません。東方に振ってもせいぜい島根県、広島県、愛媛県当たりまでの範囲になってしまいます。

 また、何で、狗奴国を紹介した後に、邪馬台国までの距離を書いたのかを考えてみると、もしかしたら、帯方郡からの視点に立てば、邪馬台国同様に狗奴国の西端も九州北部からさほどには離れていないからなのかもしれません。

 以上で、まとまった形での邪馬台国の位置関係に関わる部分は終わります。つまり観光ガイドの「行き方」の解説としては、ここまでがほぼ全てです。その後は、風俗・習慣の説明に移っていきますが、その中で、邪馬台国の位置関係に関わる部分を説明致します。 

〈其の道里を計るに、まさに会稽東治の東にあるべし〉

【この国はどのあたりにあるかというと、会稽(今の浙江省紹興)東治(今の福建省福州)の東にある】

 会稽の真東は奄美大島、東治の東であれば沖縄本島となります。風俗・習慣に触れる中での説明です。全体的に南国的な記述が多いので、かなり南方にあると感じた為だとは思いますが、既に書いたように魏略の記述に従って倭人伝に記載されているのは、帯方郡から派遣された使者の報告がベースになっているはずです(伊都国に常駐しているとされている外交官?では無く)。では、そのような使者はどの季節に倭に来たのでしょうか。全くの妄想ではありますが、真冬だとは思えません。日本海が比較的に穏やかな、つまりは春から秋にかけて渡来、滞在した可能性が高いはずです。昨今ほどには高温では無いにしても、夏の九州北部は充分に「亜熱帯」なはずです。従って、その印象を踏まえれば、むしろ、妥当な記述だと考えます。

 以上が、倭人伝の中で、邪馬台国の位置関係に直接触れている部分の全てです。断片的には書いてきましたが、次章では、いよいよ、具体的な妄想話しをしていきたいと、思います。

 

 



 

 

 

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