丸太朶衣は腕を上げない
鏡も絵
本編
俺のもとに手紙が届いた。
昨日死んだ隣のクラスの女子生徒から。
そんな彼女が昨日、溺死した。真冬の極寒が氷を張らせた地元の小さな湖で、真っ青になっているところを発見されたらしい。大きく割れた氷の穴のなか、長い黒髪と制服を海月のように揺蕩わせて、不気味に美しく死んでいた。美しい状態。剥製のように固まった死体には傷一つなかったという。淡々しい悍ましさを残しただけで自殺か事故かはわかっていない。ただ他殺の線は限りなく薄いのだとか。
今日は彼女の葬式で、隣のクラスの生徒はみんな線香をあげに出ている。
一教室が空っぽになるという非日常性から、彼女の死に関する噂は瞬く間に広まった。
死んだ女子生徒なんてハゲタカのような学生の恰好の餌食だ。彼女と同じクラスだった人間は不謹慎に濾された空気に竦んで舌と声帯を石にしていたが、クラスや学年が違えば軽々しくその話題を引き合いに出せる。やれいじめだやれ自殺だ。虐待に援交疑惑、真理教徒に成り果てたヤク中の汚物として、心ゆくまま全校生徒に穢された彼女はたいそうな尾鰭をおみ足につけて学校中を這い回っていた。
薄情な噂に心を痛める彼女の友人や教員の目は研ぎ澄まされたみたいに鋭利だった。ひとたび彼女の名を出せば神経質なまでに反応を見せる。
考えもしなかった人間の死というものに触れ、つい先日までの穏やかな空気は少しずつ狂っていく。
たった一日で丸太朶衣という珍しい名前は至るところでポピュラーなものとなった。取り纏うのはマイナスのイメージ、決して精神衛生上よろしくないものだけど。
それからは悪化の一途だ。なにもかもが異色になって澱んでいく。重い空気が湿り気を産む。噂は尾鰭のつきすぎで最早別物にまで成長していたが、本当のところどうなんだろうね、という好奇心の声は、それら噂の全てを信じているような響きだった。学校には鰭長の化け物が徘徊。その不気味さを笑えるようなやつは、三日後にはいなくなった。残ったのは化け物の轍と薄気味悪い灰色の空気。だとしても、彼女が死んでも、世界は回る。学校という空間で確かな欠落を感じながら、生徒も教員も誰も彼も、意地でも彼女を思い出さないぞという強ばった顔つきで、不器用ながらに回っていた。
「ねえ、阿部。発注してた絵の具のことなんだけど」
放課後の廊下を歩いていると、聞きなれた女子の声が背後で俺を呼ぶのが聞こえた。
「どうした千葉、まだ届いてないのか?」
俺は振り向いて答える。声をかけてきた千葉は少しだけ距離を詰めて、俺にも見えるようにA4の白いプリントを持ち上げた。
「そうじゃなくて、確認。今回のブロック展に出す絵で油絵なの阿部だったよね。注文してた絵の具がちゃんと届いたのか見て欲しいの。これリストだから」
千葉から受け取った紙を俺は眺める。名前と絵の具の横に緑色のペンでチェックがつけられていた。全員に回って確認していたのだろう。これから部活なわけだし部室でも会えるだろうに、この部長は本当にこまめなやつだった。
「アクリル組は黒の発注率が高いな」
「周りじゃなくて自分のとこ見てほしいんだけど」
「俺のは問題ないよ。でもちょっと相談があって」
「え、なに?」
胸ポケットから出した緑のペンでチェックを入れる千葉は耳だけで俺に問う。これ言ったら凄んでくるんだろうな。
「絵の雰囲気を変えたい。新しく注文してほしいものがある」
「は?」
ほら、やっぱり凄んできた。
女子特有の毒素十分な目で、千葉は俺を睥睨する。
「バイオレットカラー全般、ライトマゼンダもあるといい。下塗りに青緑を使いたいからボトルで。それから、今回はサンドにも挑戦したいと思うんだ」
「サンドも?」
「大理石のやつ」
サンドは絵の質感や雰囲気を変えるための技法だ。サンドマチエール。天然砂や大理石、シェルの粉末をボンド乃至ジェッソと一緒に混ぜて絵の具を用いる前に塗る。ザラザラとした肌触りになって普通の油絵とは違う雰囲気になるのだ。
「それ、もっと早く言えなかったの?」
「なかった。思いついたの最近だし」
「…………」
千葉はお気に召さないらしい。
そりゃあ発注したものが届いたあとに催促をされれば顔を歪ませたくもなるだろう。好きで歪ませてるんじゃない。千葉はそう言いそうだな。苛立ちしか浮かばない眉が俺の居心地を悪くする。
「サンドのほうは、今ある分で諦めて。流石に下に施すものをこれから頼んでちゃあ描きだしが遅くなるし。絵の具のほうは妥協はしない。でも、別のメーカーでならコバルトがあったはずだけど?」
「昨日試したけど発色が思ったのと違った」
「ならしょうがないか」
どうせ下塗りだからと窘めないのが千葉の美徳だった。
千葉は部活のメンバーの中でも“美”意識が高い。基本的に技術を磨くだけの高校美術部において、美術史まで勉強しているのはこの千葉という高潔の部長だけだ。あらゆる芸術を取りこむことに余念がなく、またそれを部員に与えることにも惜しみを出さない。それに魅せられた哀れな子羊を野原に放りだすことはまずないのだから甘えるしかないのが常々だ。俺の突然の発想にも柔軟に対応してくれるのは、自分の意識と同じくらいに他人の意識を尊重してくれる性格にある。嫌な顔はしてもそれを拒むようなことはない。彼女を時期部長にと選んだ先輩の裁量は正しかった。部内会議中に誰一人として疑問の表情を浮かべなかったのも当たり前のことだと言えた。
「私の印象だとガラッと雰囲気を変えるみたいだけど」考えこむように上目遣った。「下絵はできてるの?」
「下絵の変更はそんなにないから大丈夫だと思う」
「あくまで雰囲気を変えるだけって? カラーリングと下書きから察するに、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ、『眠るパリの街を見おろす聖ジュヌヴィエーヴ』ってとこかな?」
誰だそれは。なんだそれは。
全然ピンと来なかったが千葉がそう言うのだからきっとそうなのだろうと思い「ああ」と頷いた。
千葉の表情が柔らかくなる。
「いいんじゃない? 下書きを見たときからいままでと違うなって思ってたんだ。阿部はずっと風景画とか静物画ばっかだったから、そういうのいいと思う。象徴主義っぽくて」
「そういう話は顧問の菊池とでもやればいい」
ついていけない話に沈みこみそうだったので俺はここで白旗を上げておく。
どうせ同じ部活なのだしと、部室まで二人で行くことになった。女子にしては速い歩調は男子の俺と同等のスピードで、俺が薄情に置き去るような光景には至らなかった。
俺は美術部に所属している。
そう言えば大概の人間は“嘘だろ”と首をキリンのように伸ばしてきた。
中学時代、地域のアメフトチームに参加していたせいか、俺の体格はいかにもスポーツマンというほどしっかりとしていて、運動部にも負けないくらいには筋肉質だった。学校内ではいまと同じく美術部に所属していたが、キャンバスの運びこみや用具の出し入れなど、貴重な男子部員だからという理由で力仕事の一切を任されていては、ひ弱とは程遠い上腕二頭筋に仕上がるのは自明の理。制服を着こんでもわかるオトコマエな後姿は、デッサンのモデルになってほしいと千葉の頬に羞恥の朱を散らせることなく大真面目に懇願させるほどの力があった。
鍛えあげたスタミナやコンパスの長さを生かして、高校からは陸上部に入ろうと思っていたのだが、気づけば美術部に足を運んでいるあたりが俺の気質。今では立派なスポーツマン筋肉質系美術部男子を他称させてもらっている。部員数の足りていない運動部に助っ人として頼まれることもあったが、俺の興味が絵画から逸れるようなことはまずなかった。
「あ」
千葉は思い出したように呟く。
「なんだ。忘れ物か?」
「ううん。私、これから毎週金曜日だけは部活に遅れると思う。菊池先生がいるから大丈夫だと思うけど、部室の鍵が開いてなかったら各自が取りに行くように。これ、みんなに言ってあるから」
「了解。なにか用事でも?」
「図書委員を任せれちゃってね。金曜日の放課後は受付カウンターに立たなきゃいけなくなったの。とは言っても臨時だから、一ヶ月くらいでなくなると思う。受付も三十分でいいらしいし」
「こんな時期に委員なんて任されるか? 前期も後期も一学期の最初に決めるだろ」
「しょうがないよ」千葉は周囲にその名を聞かせないよう声を抑えて続けた。「後期の図書委員、丸太さんだったんだから」
薄い膜の張っていた記憶から一片を取りだしてみる。丸太朶衣の葬式があった朝、千葉のいるクラスがくっきりと空だったのを思い出した。失念していた。そういえば、丸太朶衣と千葉は同じクラスだったのだ。
死んだ後期の図書委員の席を臨時にでも誰かが埋めなければならない。千葉が代打として図書委員になったのは、きっとそういうことなのだろう。
丸太朶衣の名前を出してから空気が変わる。ピリリと暗い電気を帯びた、妙な緊張感のある空気になった。それは、小さな石でも投げれば一瞬で元通りになりそうな仮初のものだったけど、生憎その石を投げてくれる者が周りにいなかった。
「……私ね、丸太さんとはそんなにしゃべったことなかったんだ」
意外にも、千葉は話の輪を広げてきた。
そのことには些か驚いたが、無理矢理話を変える気にも俺はなれなかった。
「でも、クラスメイトがいなくなっただけで、やっぱりなんかショックは受ける。教室に残った丸太さんがいたっていう痕跡が見つかるたびに、みんな変な顔するの。氷みたいに固まっちゃうっていうか。図書委員の代わりがいるって発覚したときだって、誰も口を開かなかった」
「……お前が立候補したのか?」
「うん」
「えらいじゃん」
頭一つ分下の位置で吐息のようなものがこぼれるのがわかった。音の切れ端に笑みが見えるのは、千葉が安堵しているからだろうか。
「図書委員って面倒だろうな」
「そうでもない。あんまり人来ないって。うちの学校、部活の所属率高いし」
「行く意味あんのかよ」
「ないとは言いきれないじゃない?」
「そうだけど」
でも、図書委員なんて地味な仕事だな。
既にいない後期図書部員は、目立たないほうが好きなのかもしれない。
丸太朶衣は目立たない女子生徒だった。
不謹慎な言いかたをすれば、死ぬまで誰かもわからないような、そんな物静かな人間だった。
友達が少ないかと言えばそうでもない。根暗という表現も微妙に違う。よくある学校生活をよくあるふうに楽しんでいる。そういう意味での派手目のない、目立たないやつだった、ということだ。
たとえば、丸太朶衣が死ぬ一ヶ月前にあった合唱コンクールでのことだ。
隣のクラスだったからなんの歌を練習するかも丸聞こえで、学年一律の課題曲とは別に、サビにかけてが爽やかで美しい『COSMOS』という曲を自由曲にしていた。熱意のある担任教師のおかげでまとまりがよく、男子パートも女子パートも整った歌声を奏でていて、優勝候補のクラスとして挙げられていたのを覚えている。千葉から聞いた話だが、クラスにピアノを弾ける人間があまりいなくて伴奏者を見つけるのには苦労したらしい。中学までピアノを習っていたという丸太朶衣が半ば押し上げられる形で伴奏者となり、本番でもミスのないメロディーを披露してみせた。伴奏者は真っ黒いピアノに隠れて姿が見えない。観客が見るのは唯一背を向ける指揮者、聞き比べるのは豊かなハーモニーを生みだす歌い手のみ。結果は二位の優秀賞で、音楽部として現役でピアノを奏でる女子生徒のいるクラスが最優秀賞を貰っていた。結果が発表されたとき、丸太朶衣のクラスは歓声のなかにも、一位になれなかった悔しさの雑じった顔があった。その悔しさの分もはしゃいでお祭り気分に浸るなか、出席番号順に並ぶ列の真ん中あたりで小さく口元を緩ませるような、人知れず喜びを噛みしめる少女が、丸太朶衣という人間だった。
「これが彼女の作品だよ」
美術部の部室でもある美術室では、顧問の菊池が授業作品の整理をしていた。壁にかけられた作品を外して、見やすいように軽く持ち上げる。
「切り絵をするとき、大体の子は物とかを描こうとするんだよ。丸太さんもそうだった。でも、周りの友達が花とか蝶とかを目指して頑張って切り取っていくなか、丸太さんは別の物を選んだ。額縁だよ」
確かに、真っ白い紙に真っ黒い紙で模られていたのは、歪なところも目立つが十分荘厳と言えるほどの太く分厚い額縁だった。
菊池は頬のふっくらした顔をニィッと緩ませて続ける。
「ちょっと驚いたよね。なんていうか、作品としてはあんまり目立たないし、面白みも、うん、ないでしょ? まあ、そこが逆に面白いと思うのかもしれないけどさ。どういう意図なんだろうって僕も考えちゃったよ。丸太さんは教えてくれなかったけど」
「はあ……」
美術室に入って早々振られた話題に、俺も千葉も渋い反応をするしかなかった。
とっくに描く準備を始めていた他の部員に視線を遣る。俺たちと同じようななんとも言えない顔をしていて、きっと菊池は数分前からこの話をしていたのだろうと思った。
美術部顧問の菊池は、丸太朶衣が大のお気に入りだった。
どうやら丸太朶衣とは“遠縁の親戚の姪”という非常にややこしい関係らしく、言うなれば血の繋がらない血縁者らしい。しかし、その身内の贔屓目を抜きにしても、菊池が授業作品を通して部活中に丸太朶衣という女子生徒の名前を出すことはたびたびあった。
作品を持ちだして感傷に浸りたい気持ちはわかるが、如何せん俺たちからしてみれば重すぎる。今日そのテの話題は、囁くことすら罪だとでもいうほどの魔力を持っているのだ。菊池の寂しさを癒すためだけに、現在プチブレイク中のセンシティヴな女子生徒の話に花を咲かせる気など微塵もない。
「あの、先生、ちょっといいですか」
しかし、そのお気に入りの丸太朶衣よりもさらにお気に入りなのが、我が美術部の部長である千葉女史だった。都心の有名美術大学を本格的に狙っているらしい千葉の熱意は、菊池の教師としての心を燃え上がらせるには十分だったのだ。
だからこそ、千葉の紡ぐ言葉は無下にせず、亡き女子生徒の授業作品を壁に戻して「どうした千葉」と居心地の悪い話題に終止符を打つほどの面倒見の良さを見せる。
ようやっと解放された死刑囚のような顔色の美術部員は、揃いも揃って溜息をついた。
「阿部が新しく絵の具を注文したいようなので」
「ええ? また? 注文したばかりだよ?」
「はい。突然思いついたらしくて。バイオレット系の油絵の具です」
「うーん。確かに美術倉庫にはなかった気がするな。送料もったいないし、他に注文があるひとは今のうちに言っておくように」
菊池は美術部員全員に聞こえるよう、声を張りあげた。
俺は美術室の奥にある美術倉庫の棚から自分のパネルと道具を取りだす。テーブルに置いたあともう一度棚に戻って、黒のエプロンを手に取った。
美術部では当然絵の具を用いるので、そりゃもう当然汚れる。向こう見ずな部員は制服のまま描いたりもするが、大概は汚れてもいい服や体操着に着替えるか、俺のようにエプロンをつけるかのどっちかだった。エプロンならつけてしまえばあとは腕をまくるだけで大体は汚れずに済む。女子の場合は体操着に着替えるのが多数派で、純白のシャツが絵の具に彩られることがまるでステータスかなにかのように堂々としていた。体育の授業中に恥ずかしくないかと聞いてみれば“絵の具とは私たちの血潮である”となんとも雄々しい返答を頂いたのだから感服するしかない。思い返してみれば一つ上の先輩の体操ジャージは芸術的なまでに汚れていた。言うなれば大出血、らしい。芸術は爆発ではない。出血なのだ。
「随分と絵の雰囲気を変えるみたいだね」
いつの間にか俺の背後に立っていた菊池が言った。
「はい。まあ。でも、モデルが変わったわけじゃないんで」
「ちょっと手直しをするってくらい?」
「もう少し重たくっていうか、暗くしようかなと」
「サンドも使うんだってね。独特な透明感も出るから重すぎるってこともなくなると思う」
サンドのことも報告したらしい。
俺は千葉をちらりと見る。
寒さに屈し、体操着のジャージを着こむ千葉は、先週作ったキャンバスにアタリをつけているところだった。すぐ隣にイーゼルがあることから、今日中には筆を入れるつもりなのだろう。下書きを見ながらシャーペンを滑らせる姿を見ながら、俺は菊池に呟く。
「千葉はなにを描くんですか?」
「あはは、今回はあんまり題材を決めてないみたい。インスピレーションのままに雰囲気で描いてみるって」
「あいつの雰囲気は俺たちで言う計画的だろうけど」
「モチーフは雰囲気だけど、配置や一つ一つの関連性には気を遣うからね。花なら花言葉を、物質なら漢字の意味や語源を、感情なら連鎖反応を。辞書とか使って一枚の絵の構成を作りあげていくんだから、千葉の描きかたは結構独特かも」菊池は顎に手を当てる。「でも、今回は発想を握られすぎてるように思うなあ。僕のお下がりの教科書を貸して以来、イリヤ・レーピンの『サトコ』に夢中なんだ」
お下がりの教科書とは、菊池が大学生のころに購入した西洋美術史の本のことだろう。
千葉の熱意に感動し、菊池が手持ちの蔵書を彼女に貸しだすことは、よくあることだった。
今では小さな高校の美術教師なんて枠に収まってはいるが、菊池は元々有名な芸大を首席で卒業した優秀なアーティストだったらしい。芸術を究めるために二年ほどヨーロッパに渡米しただとか結局どこに行ったのか怪しいような発言をしているが、たまに目にする過去作品を見るかぎり結構な実力者なのだろう。本人は技術よりも芸術学のほうが好きらしく、それに関連する書物を美術室の棚に置いては、千葉に熱弁をふるっていた。そのくせ、熱心に美術史を学ぶ千葉に対して“美大生なんて馬鹿ばっかなんだから今から勉強してたら大学入ってからやることなくなるよ”と漏らすこともしばしばで、結局熱いんだか冷めてるんだかよくわからない教師だ。それでも、菊池の話についていけるのは千葉しか、千葉の話についていけるのは菊池しかいない。現状、遺憾ながら、菊池は優秀な美術教師だった。
「見たことあるかい? イリヤ・レーピンの『サトコ』。瞑想的で美しいよ。頭から離れないのも無理はないね」
「俺、描く専なんで」
「残念だなあ。イリヤ・レーピンといえば『イワン雷帝とイワン皇子』もすごいんだから」
知らない知らないと首を振るのも申し訳なくて、せめてもの姿勢としてスマートフォンからネットで調べてみることにした。画像検索をすればすぐにそれが出てくる。見なきゃよかったと思った。
「な? すごいだろう?」
すごいけど、アクが強すぎた。
俺はなんとも言えず苦笑いをする。
「阿部の絵の話に戻るけど、今回の阿部の絵ってなにが描きたいの? 人間の後姿だってことはなんとなくわかるんだけど……ちょっとあやふやだな。モデルはいるんだよね?」
「はい」
「なら、ちゃんと観察したほうがいいよ。これじゃあ誰か伝わってこない。個性が見えないんだ。まあ、モデルが誰だかわからないようにしたいならアリかもしれないけど、ただ色や雰囲気を変えて個性をつける、なんてのはあんまりいいことじゃないよ」
「……わかりました」
これだから、菊池を優秀な美術教師だと思ってしまうのだ。
どちらかと言えば放任主義で、大抵のことにいいんじゃないと頷いてしまうこの軽薄そうな男を、遺憾と思っていても認めてしまう理由は、美術部員共通ここにあった。
きっと筆を持たせれば、ひとたび魔術的な絵を真っ白な紙面に施すのだろう。
結局、その日の部活が終わったころには、俺の描くパネルにはサンド特有の硝子じみたきらめきがチクチクと瞬いていた。乾かさなければならないからそれ以上の手を加えられなかったのだ。配色や構図を確認、修正し、本日の部活動はこれにて終了。もう空は真っ暗で、サンドの大理石にも負けないきらめきを星々は湛えていた。
壁や椅子につかないようパネルを倉庫に仕舞う。パレットの絵の具が乾かないようにラップを敷いて、絵の具を洗い、自分の棚に戻した。
一足先に部室を出る。
豆電球みたいな照明が点いただけの薄暗い下駄箱に向かい、自分のそれを開けようとして手を止める。
この下駄箱を開け、靴の上に静かに乗っていた手紙を手に取ったのは、もう三日も前のことだ。差出人の名前にピンとこなくて鞄の中でほったらかしにしていたのを、翌朝のニュースを見て愕然とした。怖くて中身を読めなかった。俺はあの手紙に、彼女がなにを書き綴ったのかを知らない。
「――やっぱり自殺なのかな」
下駄箱の棟一つ分を隔てた先、いまの今まで意識もしなかった見知らぬ声が、俺の鼓膜を振るわせる。
「ああ、丸太朶衣だっけ?」
「そうそう“マルちゃん”!」
「噂で聞いたんだけど、自殺する前日、なんか悩んでたっぽいって」
「ええ、嘘。それ本当のやつじゃん」
「でしょー?」
「でも私、殺されたって聞いたよ」
「え? 誰に?」
「出会い系で知り合った、なんかヤバい男にって」
「やだ、それって……でも丸太さんにそんなイメージある?」
「大人しそうな子だった気はするけど」
「なんかストーカーだったってのも聞いたよ」
「男のほう?」
「違うよ、丸太朶衣」
「えー、やっだ」
「一途にアピールしてたけど、相手にブチ切れられたんだって」
「そうなんだ……」
「まあ噂だよ? でも、ね。実際のところはさあ」
「どうなんだろうね」
噂で聞いたんだけど。どうなんだろうね。そう言いながら、その全てを面白半分に信じて、さらに彼女に豪奢な装飾を施していく。校内を好き勝手に漂わされる信憑性のない化け物には口がない。自分たちに物申すことがないからと際限なく同い年の少女を貶めていく様は、見ているだけでも、聞いているだけでも気分が悪い。
向こうにも聞こえるように大きく下駄箱を閉める。
俺の存在にやっと気づいたのか、話しこんでいた声はすぐさまにやんだ。
なんて臆病者だ。責められるのは怖いくせに、それを弄ぶのをやめられない。丸太朶衣の噂話など所詮は会話を盛り上げる材料でしかないのだ。そんな軽い気持ちで、死んだ人間は汚される。
未だにそんなふうに笑える生徒がまだいたことに驚いた。てっきり、もうなかったこととして扱う方針に決定したのだと思っていた。少なくともそれが大多数の意向だ。最近の学校内じゃ死んだ人間をほのめかすだけでも後ろ指をさされるのに。
だからこそ怯えたのかもしれない。そして誰もが怯えている。だから口を噤むのだ――内心では様々な思いを秘めて。
昇降口から外に出る。ふと美術室のある校舎を見遣ると、まだ明かりが点いていた。ちょうど校門までの道のりからは美術室の中が見える。特に窓際のあたりに人が立てば顔がわかるほどだった。
隣の美術倉庫には菊池が神妙そうに立っていた。
目の前のには、立てかけられた一枚のパネル。次のブロック展に出す作品の中で、パネルで描いているのは俺しかいない。
うちの部では絵を描く際、パネルかキャンバスかを選べるようになっている。木枠に亜麻の繊維布を貼りつけるキャンバスは油絵向き、ベニヤ板のような木板にロール紙を貼るパネルは水彩向きだ。油絵を選んだ俺は実際キャンバスで描くほうが適しているのだが、パネルのようなきちんとした平面のほうが描きやすく感じられ、菊池と相談した結果、木製パネルにジェルメディウムを塗りこんだものを紙面として使うことにしたのだ。
まだなにも塗りこんでいない状態とはいえ、顧問教師が俺の絵を見ている。
なんだか気恥ずかしい思いになって、俺は早足に校門をくぐった。
最寄りの駅までは歩いて五分。
たかが五分だが、されど五分だ。
深海のように明度を失った宵終わりの空気は氷を落としこんだように冷たい。春になればもう少し明るく暖かくなるが、そんな時期を迎えるにはあと指が三本ほど足りていなかった。
気を抜けば温かい部屋にいた反動で鼻水が滴る。
寒さと一緒に鼻をすすりながら、温かいココアを飲みたいと思った。
――ああ、丸太朶衣だっけ?
――そうそう“マルちゃん”!
あの淑やかな少女は、そんなコミカルなニックネームで親しまれていたらしい。
思い返せばそう呼ばれているのを聞いたことがある。
誰が言ったのか、誰に言ったのかは知らなかったけど、きっとあれは、丸太朶衣を呼んでいたのだろう。
朶衣。聞く分には男の名前に聞こえる、漢字を見ても判別に苦しむ、そんな不可思議の名前を授けられた彼女は、きっと俺と同じくらい、下の名前で呼ばれるのが好きじゃなかったんだろう。だからこそあえて名字からニックネームを作ってそれで呼ばせるようにした。そんな流れが容易く汲み取れるようなあだ名だった。
意識してみればいろんなところでその文字を見かけた。
音楽室に並ぶ長机。Bの0.5のシャーペンで刻まれた文字には“マルちゃんは××が好き”とあった。おそらくこのマルちゃんは丸太朶衣だ。××の部分は上から塗り潰されていて――友人にでも書かれたのを羞恥から丸太朶衣本人が塗り潰したんだろう――鉛の粉が噴きだすほどに真っ黒い。頑張れば読みとれなくもなかったけど、俺はそれをしなかった。
もう一週間も経っているのに、丸太朶衣の座っていた席の机には、雪みたいな小さい花を生けな花瓶が置かれている。ちらりと教室を覗いただけでもその一角だけが別世界のように見えて、殺虫剤を撒かれたみたいに誰も近寄らない。きっと早く撤去してほしいとでも思っているのだ。花や少女に悪気はない。でも確実に空気を害している。学校を徘徊する化け物の末路は多数決でとどめを刺されるしかない。あの花瓶が姿を消すのもそう遠くはないだろう。
「なに見てるんだ?」
「……別に」
廊下にぽつんと立ち止まっていた俺に、友人は話を中断し声をかけた。
別にと返したけど、視線の先を辿ることで、俺が見ていたものの目当てはつくだろう。陶器特有の滑らかさを持つ骨のように細長い胴を見て、友人の顔は少しだけ冷めたものになった。
反応を見せるだけマシなもんだ。大抵のやつはそろそろなんの興味も示さずに忘れていく。
「……あ、忘れてた」
「なんだ? 教科書か?」
「いや、そうじゃなくて。本」
「教科書だろ?」
「そっちじゃない。図書室に、本返すの忘れてた。催促来てたのに」
貸し出し期間を超過すると、図書館から直々に催促状が届くようになっている。気になる小説があるけど買うにはもったいないときや、絵の参考資料になりそうなものを見繕うとき、頻度としては一年に五回くらい、俺は図書館を利用していた。そんな頻繁に借りるようなことはないから返却期限を切れるなんてことはよくあって、そして今それを思い出したのだ。
「マジかよ。貸し出し期間二週間だろ? どれくらい超過したんだよ」
「一ヶ月くらい」
「そりゃひどいな」
友人はおかしそうに笑った。笑われることはさほど嫌じゃなかったけど、周りがちょっとうるさそうに通りすぎるのは申し訳なかった。
周りの目に気づいたのか声のボリュームを絞る。いつも通りの声音で俺に言った。
「阿部って時々ぬけてるよな」
「うるさい。明日持ってくるって」
「あーあ。期限大幅に超えて返し遅れたやつってブラックリストに載せられるらしいぜ。貸し出し制限がかかるんだって」
「でも俺、前も一ヶ月くらい返しそびれたぞ。けど普通に借りれてる」
「ラッキーだな」友人は目を見開かせた。「誰か当番のやつが気利かせてくれてたんだろうよ」
教室の移動を終えた俺たちは指定の席につく。
明日本は持ってこよう。樹海と化してはいるが、勉強机のどこかにあったはず。年代の古いものほど下に配置されているから、せいぜい塔の真ん中くらいだ。見つけだせない場所じゃない。
なにを借りたのかと思い返しあぐね、数秒後にピンとくる。
すぐに出てこなかったのも無理はない。
ガラにもない物語を借りたのだ。
四大悲劇の一つとしても名の知れた、ウィリアム・シェイクスピアの名作、The Tragedy of Hamlet, Prince of Denmark――翻訳名を『ハムレット』。
「オフィーリアを知ってるかい?」
夕方の日差しと同じくらい和やかな声で、菊池が正面から俺に尋ねる。描いているのを見られるのがどうにも苦手で、俺は体がむず痒くなるのを感じながら返答をした。
「知ってます。っていうか、前に先生が教えてくれましたよ」
「あれ? そうだっけ?」
照れくさそうに頭を掻く菊池は歳相応にあどけない。これぐらいの世代のひとはだんだん心が少年へと交代していくイメージがある。
「まあ、だったら話は早い。ジョン・エヴァレット・ミレイの代表作『オフィーリア』。ヴィクトリア朝の最高傑作とも言われている名画だよ」
いま阿部が描いている絵にはそのオフィーリアを感じるんだ、と菊池は神妙にしみじみを混ぜこんだような表情で囁いた。
ミレイのオフィーリアは、シェイクスピアのハムレットに出てくる登場人物からそのままきている。ハムレットの美しき恋人・オフィーリアは、ハムレットに冷たくされ、度重なった不幸により、溺死してしまう。その悲劇の少女を題材にしたのが、川に浮かぶ様が神秘的な一頭地を抜く『オフィーリア』である。
「なんでだろうね。体勢や色使いだって全然違うし、この絵には水面も草花もないはずなのに」
そんなにわかりやすかっただろうか。
俺は不安な気持ちで呟くように言う。
「イメージを、引きずられすぎたのかもしれません」
「意識をしすぎたってこと?」
「はい。でも描き直すつもりはないです」
「うん……それでいいと思う。まだ明確なものは見えないけど、阿部の伝えたいものを伝えるのが一番だからね」
俺は油絵の具をたっぷりと含んだ筆をパネルに伸ばした。竜胆色の絵の具がぷっくりと乗る。いまは色を置く段階でしかないから、非常に画面が混乱している。全体的にのっぺりとしていて、手を出せていない感じがすごい。ただそこに色を置いただけ。でも、下地に時間をかけた分、どの色を置いてもイメージ通りだった。やはり下塗りの色にこだわったのが良かったらしい。前回の絵では薄いピンクを置いたのだが、上から重ねた植物の緑は瑞々しく映えていた。どんな色を塗るかでイメージは大きく変わる。油絵の具は乾かさなければならないのでこまめに手を加えられるようなものじゃないが、こういう、自分で雰囲気の作りやすい長所が俺は好きだった。
視線を感じ、顔を上げる。
菊池はまだ俺の絵を眺めていた。
勘弁してほしい。こうも見られると描きにくい。
絵画教室でもあるまいし、部活中に顧問がここはこうするべきだとか筆を貸してみろだとか言うことはまずない。小さなアドバイスなんかはよくあることだが、基本的には生徒の個性に身を任せていた。だから批難されるなんてことはないはずだ。ないはずだけど、自分よりも歴戦の芸術家にこうも注視されていては緊張するのは当たり前だ。
自然と遅くなる筆ごと、菊池はパネルを観察していた。
「これは女性だね」
「……はい」
「髪が長くて、まだ若そうだ。奥にもう一人いるのか。どっちも後姿だね……声をかけようとしているようにも見える。女性のほうの、これは制服かな?」
俺の絵を見てぽつりと呟く菊池。言い当てられるともっと恥ずかしくなってくる。声につられて他の部員たちの意識も俺に向けられているような気がした。微妙な表情をする俺に気づいたのか、苦笑をしながら「こりゃ珍しい」と言った。
「阿部って、自分の絵を見られることにあんまり抵抗がないタイプだったのに」
「はあ。まあ、そうですけど」
「見られたくないのは、自信がないか、誰かに向けて描かれたものだからかの、どっちかだよね」
押し黙っているとまるで助け舟のようなタイミングで、倉庫のほうから「先生、黒い絵の具がなぁーい」という声が上がった。菊池は返事をしながら倉庫へと引っこむ。まさに万事休すを得たような気持ちだった。
「あるじゃないか、黒」
「あるけど出ないんですよ。なんで絵の具の黒ってこんなに固まるの早いんだろ」
「たまたまじゃない?」
「そんなわけないじゃないですか! 他の色はまだ使えるのに黒だけどのチューブも固まってるんですよ!」
アクリル絵の具派の生徒が次々に声を上げて、黒い絵の具が固まる謎について討論している。熱を吸収しやすいからすぐに乾くんじゃないかというのが一番有力な説だ。特に今回のブロック展で絵画部門でなくデザイン部門で出品する生徒はいかに黒が貴重であるかを語り、発注における黒の重要さを説いてみせた。
油絵では黒を使うのはよくないとされているから、正直あまり縁のない話だった。色を混ぜれば混ぜる分だけ暗くなるのだから下手な無彩色を使うより色を混ぜこむほうが俺の好みでもあった。
「そうそう。オフィーリアの話なんだけどね」
棚の裏から黒のポスターカラーを取り出してきた菊池が、小さな惑星でも撫でるような手配せで話を戻す。
「ミレイのオフィーリアは、溺死して力ない手が手のひらを見せて水面から上げられているのが神々しいほど美しいんだけど、僕としてはその周りの花々にも注目してもらいたいんだ」
どんな絵かピンとこない部員が多かったので、千葉は壁に並んでいた美術の本を手っ取り早くかっぱらって、菊池の説明に遅れないよう素早くページを開く。開かれたのはもちろん件の絵。それを覗きこむ部員は感嘆の息を漏らした。
「水面に浮かぶよう描写されている草花には、象徴的な意味がこめられていると言われている。ヤナギ、見捨てられた愛。イラクサ、苦悩。デイジー、無垢。パンジー、愛の虚しさ。首飾りのスミレは誠実・純潔・夭折。ケシの花は死を意味している。どうしてその植物を描いたのか、シェイクスピアのハムレットを読めばわかりやすいんじゃないかな。ミレイの描きかたは実に千葉寄りだ。いや、千葉がミレイ寄りと言えばいいのか。モチーフの一つ一つに意味を与える。ちぐはぐに見えて統一された構成が美しさを生みだすんだ」
結局はお気に入り自慢かよ。
千葉の名を口にしたあたりで部員どころか千葉本人さえも、半ば白けた顔をした。千葉の性格からしてみれば、菊池の言うことは有難半分迷惑半分、つまるところ有難迷惑なのだろう。
部員の一人が美術史の本に手を伸ばす。なにかを調べるようにページをめくり、指を止めたところでテーブルに広げた。
「他の画家もオフィーリアを描いてるんですね」
ほぼ同時期に描かれた数多くの画家の様々な絵に、鑑賞の目が注がれた。
極彩色で彩られているもの。デザイン的なもの。20世紀初頭がピークだったのかもしれない。少なくともそのページのオフィーリアが描かれたのはそのあたりだった。
「ミレイの絵は後世に影響を与えたからね。ポール・ドラロッシュの『若き殉教者の娘』もオフィーリアに影響されたのではないかと言われている。水面に浮かぶ死体というのは身の毛もよだつほど恐ろしいが背徳的に美しい。どの絵も純真そのもので描かれている。それだけ、誰もがオフィーリアに魅せられたのかもしれない。溺死した美少女。悲劇のヒロイン」
暗く冷たい水面に髪を広げ、長い服を漂わせ、息絶えた唇と死に色の瞳は閉じられることなく曝けている。
「――丸太朶衣みたいだよね」
水底に沈んでしまいそうな声で、菊池は言った。
「……先生、ここちょっと聞きたいんですけど」
空気が重く沈みこんでしまう前に、後輩の部員が手を上げた。
すっと子馬が駈けたような安堵にみんなが肩の力を抜き、キャンバスに向かい合いながら談笑に戻る。古ぼけたイーゼルを用意する者もいれば、パレットを洗いに行く者もいた。菊池もその部員に近づき、絵の様子を伺う。
「ここ、もっと細かく描きこみたいんですけど上手くいかないんです。何度やっても潰れちゃって」
「その太さの筆じゃあ確かに潰れちゃうな」
「これより細いのってあります?」
「ないね。だから、ここはひとまず放っておこう。一通り絵の具で描き終えてから色鉛筆で細かいところを仕上げるってかんじにすればいいと思うよ」
「はい」
先生が数歩離れると、その部員も助言通り、他の箇所を絵の具で塗っていく。
俺の真後ろでは女子三人が談笑。
最近話題のドラマのこと。お小遣いのこと。今週の休日の遊びの約束。いい画材屋を見つけた。パソコンが壊れてしまった。エトセトラエトセトラ。
口を閉ざすのを強制しないうちの部らしい、にぎやかな作業空間だった。
天啓のように澄んだ日常風景。火蓋のように切って落とされかけた汚物を拭い去り、誰もがそれをなかったことにする。
でも俺だけはまだ頭の隅にうろのような澱みが残っていた。
菊池が言ったのと同じことを、俺も思っていたから。
記憶の中ではいつもあやふやだ。生前ですら、目の前にしてもきっと確信は持てないだろう。彼女に順ずる情報を聞いてやっと、あいつのことか、と推測する程度の、よく知らない相手だった。
だからこうやって思い出したのも偶然だ。
あの日たまたま見かけたのも、ほんの偶然。
――ハムレットだ。
差し出した本を見つめる目に睫毛がかかる。俺よりも低い位置にある頭を少し俯かせ気味にするしぐさ。するりと髪が胸元に舞いこんで、制服のセーラー襟をすっぽりと覆ってしまう。
こちら側へと人見知りそうな腕を伸ばした。彼女の両手が本を掴むとまるでなにか表彰されているような構図になる。
バーコードに機械をあてると無機質な囀りが鳴った。
ようやっと、彼女が顔を上げる。
――ごめん。こういうの借りるひと珍しかったから。
カウンター越しの彼女はまるで独り言のように言った。目の前に俺がいるのだから独り言ではないのかもしれないけど、少なくとも、彼女が俺に返事を求めているようには見えない。
気弱になりがちな眼差しは作業をするのにあっちこっちへと流れていく。
貸し出しのための過程を終えて俺の元へと戻ってきた本を、ぶっきらぼうに受け取った。小さな文庫本はしなるように空を切る。反射で引っこめた手をカウンターの陰に隠して、彼女は再度口を開いた。
――期限は二週間です。今度は遅れないようにね、阿部くん。
マシュマロのような小さな頬を持ちあげる柔らかい口角。
息を潜めるようなかすかな微笑み。
そう、彼女はそんなふうに笑っていた。ノイズでぼやけてしまってはいるけど、静かに笑っていたのは覚えている。
どうして名前を知っているのか。
そんな問いかけもろくに口を聞くこともせずに俺は図書室を後にした。
蜘蛛の糸のように細い視線を、背中に感じながら。
図書館だけじゃない。廊下ですれ違うときだって、足元ばかり見るくせに、真横を流れて背を向け合うと、しがみつくような視線を送る。おとなしめの寡黙的な唇よりもその視線はずっと雄弁だった。なにも言わずに、彼女はつられるように振り向いて、小さく手を伸ばすのだ。
振り向いたことは、一度もない。
彼女がそうするのはわずかな時間だったし、振り向かなければならない理由も俺にはなかった。まるで置き去るかのように、俺は薄情だったのだ。数瞬見つめ終えれば彼女は友人の元へと向かう。逡巡さえ奪われないほどのか細い引力。すぐに空気に溶けていく。ちょっと振り向いてみただけの隣人であり、お互い目を合わせたことも会話をしたこともない。
彼女のことは、死ぬまで名前も知らなかった。
「阿部鞠矢!」
廊下ですれ違った千葉に思いっきり腕を掴まれる。しかもご丁寧にご指名つきだ。とんだ公開処刑である。
俺の機嫌を見事にもぎとってくれた部長殿に「なんだよ」と眇めてみせた。
「在庫切れで届くのが遅れてたコバルトバイオレットの大チューブ、届いた」
「……どうも」
流石にそれを聞いて無下に扱うようなことはできなかった。案外自分はちょろいやつなのだ。しゅんと不機嫌も失せて軽く頭を下げてしまった俺に、千葉は呆れがちに言う。
「今度からはもっと早めに言うこと。絵の雰囲気から見るに、紫がベースなんでしょ? こっちが発注かける前じゃなく、あらかじめ自分で予備があるかをチェックしてから描きだしなよ。今回みたいな急な発想だったとしてももちろん」
「かたじけない」
「うむ」
よし、と頷く千葉は俺から手を離した。
ほつれるように交流は終わり、千葉は反対側へと足を進めていく。
俺はその背中を見つめた。振り返らない背中は、相手の思惑とはきっと正反対に冷たく感じる。さっきまですぐそばにあった姿がどんどん小さくなっていくのを名残惜しく思うのは多分俺だけじゃない。控えめな人間なら声だって出せない。
視線を引き剥がして、俺も歩きだす。
学校中は寝返ったかのように静穏。もしくは記憶喪失。馬鹿になる薬でも打たれたみたいに清らかな毎日に戻っていく。
校内を徘徊していた化け物はもういない。重く長く垂れた尾鰭はあらゆる汚物を拭い取って、ぐちゃぐちゃになったまま消えていった。
丸太朶衣は一度死に、何百人もの人間に引きずられ、二度死んだ。
化け物は幽霊だったのかもしれない。
だから姿が見えなくなっただけで。
鈍色の掃除用具入れの隣、だらしない駐輪場の裏、堅く細い木々の真下や静かな図書室のカウンターに、もしかしたら。
「ばかたれ……」
清々しい日常を直視できないあまのじゃくなやつ。
気分を紛らわせるために俺は美術室へと向かう。
昼休みが終わるまであと二十分もある。籠って続きでも描いていよう。乾くのを待たなければならない油絵はこまめに描けるようなものじゃないけど、なにかせずにはいられなかった。
運よく鍵は開いていた。でも中には誰かいて――声からして菊池と千葉だ――コムズカシイうんちくをベラベラと述べている。
ていうか千葉はさっきすれ違ったばかりなのにここに来るのが早すぎる。しかも、すぐ別れたけど結局再会するなんて、なんかまぬけだ。若干気まずい。
面倒なタイミングに来てしまったものだ。
話の折り合いがついたころにでも入ろうと、俺はドアの横の壁に背凭れる。
「近代における“芸術”は古代ギリシアでは全てテクネー、つまり“技術”という言葉で捉えられていたんだ」
語り部はもちろん菊池。相手が千葉だったのは菊池にとって最大な幸運だろう。
「技術だと混乱しません?」
「そうだね。全部同じだったわけだし。絵画や彫刻、演劇だけじゃない。料理も建築も医術も造船も、農業や漁業ですら、技術と呼ばれていたわけだから」
「なにかをする“すべ”が“技術”だったってことですよね」
「なるほどその通りだね」
菊池は嬉しそうに返した。やはり菊池の話についていけるのは千葉だけだった。
もういいかな、と翻すようにドアの前に立ち、開きかけていたドアをスライドさせた。音に気づいて振り向いた二人と目が合う。千葉のほうはなんでここにいるんだみたいな顔だった。実に同意見である。
「ああ、阿部か。ちょうどいいところに」
「え」不穏めいた言葉に俺は後ごみする。「美術が“すべ”だった話はけっこうです」
「あれ? 聞いてたの?」
ぎくっとした。唇を歪ませる俺に千葉は「あー、違うから」と悟ったような表情で手をひらひらと振った。
一瞬姿を消したと思った菊池が持ってきたのはアクリル絵の具のボトルだった。まだ新品なのか状態はいい。でも日焼けしているのか黄ばんでいる。開封していないものを何年も残しておいたのかもしれない。
「これ、開かないんだ。阿部だけが頼り」
そういうことか。
俺はボトルを受け取り、蓋と底を持って力をこめる。
女子の多い美術部で俺は重宝されるべき屈強な男子部員だった。おまけに中学まではスポーツもやっていたことから自分で言うのもなんだけど力が強い。以上のことから、こういう仕事はよく回ってくる。大の大人でしかも男である菊池から回されたことは、今まで流石になかったけど。
「固くなっちゃってねえ、どうも。いけそう?」
「もうちょい、です」
ミシ、と粉を落として蓋が緩んだ。そこからまた急ブレーキをかけられたけど、この分ならもうすぐで開きそうだ。
「あ」
ぱかっ。なんてかわいい音ではなく、ばこっと、不吉な音を立てて開いた。開いたけど、噴き出した。中の絵の具が制服の袖口に跳ねる。
「あー……」
眉を下げながら千葉は席を立った。水道のほうまで小走りで駆け寄り、雑巾を濡らす。俺も蛇口のほうまで行って水を開けた。ぼとぼとと袖に注ぎ、最初は弾いていた水分をどんどん含んでいく。
「先生、ラッカーとかリムーバーってありますか?」
「ないんだよねそれが。石鹸で応急処置しといて」
少しは落ちたけど、やっぱり完全には取れない。真っ黒な制服に絵の具のシミ。美術部の宿命とはいえ屈辱だった。帰ったら親が頭から火を噴くだろう。もちろん怒りが原因でだ。
「そういえば阿部、続き描きにきたの?」
「あ、はい。でもなんか気が削げたんですけど」
「ごめんな」縁の側面に絵の具の滴ったボトルを拭いながら言った。「でもまあ、せっかくだから自分の絵、遠くから見てみれば? 普段近くで描いてるけど、たまには遠くから見てみるのも大事だし」
「はあ」
どうせまだ本格的に描きこむ段階でもないんだから、眺めても意味はないんじゃないだろうか。頭の中で絵の完成形はできあがっているからあとはそれに少しでも近づくよう仕上げていくだけだ。
「まあ、まだはっきりと描いていってるわけじゃないだろうけど、自分の筆の置きかたを見ておくのもいいかもしれないよ。その一筆で印象が変わったりするし」
菊池の言葉に千葉も言葉を挟む。
「タッチで印象が変わると言ったら、印象派のモネとか、スーラの点描とかですよね」
「ああ」俺は軽く頷いた。「ゴッホみたいな?」
「ゴッホはどうだろう」
「えっ、違うのか?」
「私の感覚としては違うかな。ゴッホはストローク」
「僕もそう思うよ」
タッチとストロークの違いってなんだよ。
俺は美術倉庫のドアを開けながら心中で愚痴を吐いた。
これだからこの二人を相手に話すのは嫌なのだ。二人とも、絵を描くぶんには美術史的な知識や技法の正式な判別はいらないと考える人間ではある。菊池なんかは最悪自分の体さえあれば絵は描けると宣っていたほどだ。とはいえ芸術学や美術史の勉強をある程度身につけている彼、彼女らは、俺たち一般部員を置き去りにする内容を会話にすることが多い。俺たちが知ってることといえば授業で習った“ヴィンチ村のレオナルド”くらいのものだった。
倉庫を進むと自分の絵を見つける。それを持ち上げて近くにあった椅子に起き、何歩か下がって眺めてみた。
やはりまだまだの段階だ。色の塗りからしてもまるで塊みたいで、とても見直しをするようなことは。
「あれ……?」
これは違和感だった。
意味深な意味合いでもなんでもない。そのままの意味。なにかが違って、とても違う。
この絵がおかしいことに気づいた。
しゃがんで見ても変わりはない。違うだけだ。
夢中になっていて気づかなかったらしい。こんなに不思議なことなのに。
具体的にどこが違うかはわからない。
でも、描き続けてきたモデルがまるでどこの誰ともわからないものに仕上がっているのは間違いない。画家が違う違うと絵を引きちぎる気分がわかった。何故だ。どこが納得できないんだ。これは、こんなものじゃ、ないはずだ。
美術倉庫の中で俺は呆然としていた。
わかっていることはただ一つ。
俺の絵の住人が崩壊しかけていることだけだった。
他の部員はもうとっくに道具を片づけ終えていた。自分の絵を倉庫にしまって「さようなら」と帰っていく。部長の千葉も壁の金具に部室の鍵を引っかけ、戸締まりを俺に託したあと出ていった。残っているのは俺だけで、今日一日手のつけられなかった絵の前に座りこんでいた。
俺の感じた違和が、絵の画面のなかでも大部分を占める最前のモデルにあることは、考えこんだ結果わかっていた。
というよりここにある以外考えられなかった。
シルエットがどうにも不自然で、絵の意味全てを破壊させている。でもどこがどう変なのかまではわからなくて手のつけようがない。塗りこんでしまっては修正はしにくくなる。バランスを変えるならいまが最終タイミングなのだ。なのにわからなくては、どう描き変えようもなかった。
言葉を借りて“個性が見えない”とするのが一番近いのかもしれない。雰囲気だとかの問題か。いや、そんなことはない。ただ圧倒的にしっくりとこない。
これは違う。これじゃない。これは誰だ。別人だ。
まさしく無限リピートだった。
一度沈みこめば浮かび上がれない。ずんずんと、纏う繊維が水分を含んで。重い。体の輪郭が狭まっていく。薄く細い氷の針のようなものが自分を覆っていく。肩へ、顎へ、耳へ、鼻先へ。溺れるのだ。オフィーリアだ。
「思い悩んでいるようだね」
気づけば背後には菊池が立っていた。珍しく真面目な顔をしている。声も低い。
「……なんか、違うんです」
「デッサンが狂ってるとか?」
「いや、そういうことじゃないと思います。もっと本質的に違うっていうか」
「それはこのモデル?」
菊池は俺の絵をしげしげと眺める。
見られたくない気持ちはあってもこのタイミングだとそうも言えない。
「はい……」
「なんだろう。オフィーリアにつられすぎてるってことは?」
「そういうのでもないんですよ」
「このモデルが誰かわからないからなあ。なにをどうすればいいのか、僕にはわからないや」
尤もな意見だった。
俺は少しだけ俯く。
「絵の中の登場人物は二人。一人は男で一人は女。どちらもまだ若い。顔は見えなくて、女は男に……話しかけようとしているのかな? 腕を伸ばしている」
青緑を孕みながら画面上を踊るバイオレット、くすんだ菫色。狭い空間の隅々を燃えあがるようなマゼンダの影が蔓延っている。二人とも後姿だ。わずかながらに距離はあった。真っ黒い背に触れようと、華奢な片腕は鳩尾ほどの高さで伸びている。
絵は中途半端なところで止まっていた。
決してこれから進まないように思われた。
「やっぱり、ちゃんと観察することだよ」菊池は苦笑と共に呟いた。「見て、確かめること。芸術っていうのは案外ちゃんと見ることから始まるんだ。もちろん構想力も大事だよ? エスキースを何枚も蓄えておくのもいい。でも、僕らにはせっかく、カメラよりも優秀な視覚機能が備わっているんだ。確かめるべきだよ、きっとね」
「…………はい」
菊池は言い残すようにして俺の背後から数歩だけ後ずさった。
テーブルに放りだされたままの筆箱。そこから突きだしたシャーペンを使うときはまだ来ない。念のために出しておいた絵筆も、ペインティングオイルもなにもかも。パレットに押し潰されるように広がったカドミウムレッドの絵の具の毒が俺の思考を狂わせる。とにかく描く、ということすら今の俺にはできないのだ。
「そういえばね」
ふと、思い出したように菊池が言った。
というより実際に思い出したから呟いたのだろう。
振り返ったところにいた菊池が見ていたものは、いつか部員たちに語っていた一枚の切り絵だった。
「この額縁について、彼女はなにも教えてくれなかったけど……一つだけ、こっそり、僕に話してくれたことがあるんだ」
ストーブのごうごうと鳴る音がいやに大きい。実際には菊池の声のほうが大きいはずなのに、どうしてかその声は俺には遠かった。
「彼女はこれを“ただの自己満足なんです”と言っていた」
そのあと菊池は肩を震わせる。
喉で小さくうずまっているのはまず間違いなく笑い声だ。
「どういうことなのか、これまたさっぱりわからなかったよ。絵なんてほとんど自己満足みたいなものだ。それを、そんなふうに言うなんて。彼女は話すことはあまり得意ではなかったからね。ヒントをもらったところでそれすらも解読不可能なんて本当に――」
言葉は潰れた。
笑いながら振り向いた菊池の目が、捉えたのだ。
一直線に俺の絵を見ている。
その顔色が今まで見たこともないようなものに変わったとき、俺は捉えられたことに気づく。
サッと自分の絵に視線を遣る。ありありと伝わってくるものは俺自身にはどうしたって隠しようがなくて、逃げるように足元へと目を落とした。
さっき見てしまった菊池の顔が頭から離れない。教育者の顔をしながら、もう一つ別の人格を混ぜこんだような、そんな複雑なもの。もう一つの人格はきっともう一つの感情。俺に向けられたものではない。あんな家族愛のような淡い親しみのこもったものを、俺に向けてくるわけがない。
「その絵の構想を始めたのは一ヶ月くらい前のことだっだよね」
「……はい」
「雰囲気を変えたいと言い出したのは、あの日の、すぐあと」
「……はい」
「阿部が、どういうつもりで、その絵を描いているのか、僕にはわからない」
菊池の声もほんの少し緊張していた。
戦いているようにも感じられた。
俺の背後にいる絵の違和感に、菊池は斬りこんでいく。
「でも、一つだけ言わせてくれ。阿部……お前は、なんにも見ていないよ」
さっきと同じ顔をして、菊池は俺に強く言う。
「丸太朶衣は腕を上げない」
絵のなかで手を伸ばす彼女が、ようやっと俺の幻想であることに気づいた。
振り向いても、そこに彼女はいない。学校中探したってもう見つからない。どこにもいるはずがないのだから見えるわけがない。全部今さらだ。俺は生きていたときですら、彼女を見てはいなかった。
よく考えればわかることだ。あんな人間が、腕を伸ばせるわけがないのに。声をかけることも、目を合わせることもできなかったのに。手を伸ばそうと小さく腰から上げて、それすらできずに力なく手を握り絞める。所詮その程度だ。その程度で、振り向くには、俺たちはあまりにも無関係すぎた。
「阿部は彼女を知っていたのかい?」
「いいえ……」囁かれたのは乾いた空気に似合わない声だった。「臆病だったから……俺は彼女が死ぬまで、その名前すら知らなかった」
彼女がもっと欲張りであればなにか変わっただろうか。俺がもっと果敢であればなにか変わっただろうか。
出席番号順に並んだ列の最前席にいた俺は、ステージの端で楽しそうにピアノを奏でる彼女を見ていた。図書室で健気に執務に勤しむ彼女を知っていた。廊下ですれ違うたびに見つめられていることに気づいていた。俺たちはお互いになにも知らなくて、けれどそこに発露する剥きだしの感情に戸惑った。彼女を、そしてなにより自分を信用できなかったのだろう。彼女が俺に向けたあのひたむきな眼差しのわけを、もっと本当の意味で考えていればよかった。
ろくに出会いもしないまま、ある日、丸太朶衣は死んだ。
確かめるのが怖くて彼女からの手紙は読めなかった。
葬式のあった日の夜に、ライターで燃やした。
言い逃げをされたのか、一生を恨まれたのか、自殺だったのか事故なのか、もう誰にもわからない。残ったのは、仕返しのように置き去られてしまった、俺の心だけだった。
「……やっとその絵のことを掴めてきたよ」
顔はおぼろげ。名前も知らない。話したことすらなくて、だから根性なしの俺は振り向くこともできなかった。
丸太朶衣は、隣のクラスの女子生徒。
「その絵においての阿部の“芸術”は“なにかを伝えるすべ”だったんだろうね」
もしかしたらいつか出会えたはずの全然知らない赤の他人。
トラックの荷台に絵が積みこまれていく。
青いビニールで覆われたのは俺の油絵一枚のみ。まだ乾きが甘かったせいだ。搬出時に他の絵に絵の具がついてはいけないからと、前日にきつく封印してもらった。あの固結びなら運んでる最中にほどけるようなことはないだろう。展示会場についたとき梱包を剥がせるかも怪しいところだけど。
寒い季節の早起きは身にこたえるが、本日はブロック展。
そんなことも言ってられない。
絵を運んでくれるトラックよりも先に会場についた美術部員は、他校に挨拶をしたあと各々のポジションを確認していた。去年よりも展示面積が少なかったことを抗議しに行った千葉と菊池は、おそらく範囲の拡大をもぎ取ってくることだろう。あの二人に口で勝てる者など小心者の多い美術部にはそういない。他校の顧問も舌を巻くほどだ。
「印刷したタグに、名前もタイトルも書いてあります。両面テープを使って額縁に貼りつけてください」
十センチほどの真っ白い紙でできたタグが配られる。明朝体で打たれた文字はなんだかかっこよくて、それだけに額縁に貼るという稚拙さがかっこわるかった。
会場の奥から威風堂々と千葉、菊池の二人が帰ってくる。
千葉は片腕を空に上げた。
「角の所まで使っていいって」
部員たちの歓声が上がる。
流石だ。やはりこいつに任せておいて間違いはなかった。
配置に苦労していた部員たちは「これで余裕ができる」とガッツポーズをしている。その脇を脚立を持った女子二人が横切った。俺の前にそれを置いて、当然のような顔で俺に言う。
「じゃあよろしくお願いします」
「はいはい」
体育会系美術部員の出番である。
壁の高いところへ絵をかける仕事は、基本的に俺に回ってくるのだ。
俺は腕まくりをして脚立を動かす。考えてもらった配置表を見ながら、指定の絵を持ってくるように告げる。
「阿部、これ頼んだ」
「はいよ」
菊池が脚立の下から両手で絵を差し出す。絵の具がメインのうちにしては珍しい色鉛筆画だ。ふわふわとした色使いで絵本のような世界を描いている。この大きさで色鉛筆を選んだのか。相当時間がかかっただろうな。
「交渉しに行くときに他校の絵を見て回ってきたんだ」
金具を持ったまま見上げる千葉の目は妙に好戦的だった。
「へえ。どうだった?」
「今年は賞狙えるかもしれないね」らしくもなく、口角を吊り上げる。「思ったよりもいい作品はなかった。面白いのはいくつか見かけたけど、サイズが小さかったからな……その点うちは40号以上って決めてたからね。常勝校を超えるのは厳しそうだけどいい勝負にはなると思うよ」
逞しいことを言う千葉の顔は勇ましかった。部員に指示を出す横顔は雪花石膏でできているかのように気高い。こいつがここまで言うのなら今回はいけるのかもしれない。俺も心の隅で小さな期待を抱いた。
部員たちによってビニールで巻かれた絵が担ぎこまれてくる。うちでこんな扱いを受けた絵は一枚しかない。俺の絵だ。
ばりばりと梱包を解くのを見ながらハラハラした気持ちで脚立を移動させる。
千葉は開封された絵を両手で持ち上げる。俺に渡す前にしげしげと眺めた。そういうオプションを本人の前で披露するのは感心しない。
「思ってたよりもいい絵になったよね」
「はあ……どうも」
「褒めてるんだけど」
「別にいいよ。これ、ただの自己満足だし」
「ふぅん」
いつまで経っても絵を渡してこない相手に「いいから早くかけよう」と急かす。しかしタグをつけていなかったためまだのようだ。印刷した紙の束から俺のものを探していく。
そういえば菊池の姿が見えない。いつもなら搬出のときは千葉との熱いトークで美術部を賑わせるどころかうんざりさせているはずなのに。
会場を見学しているんだろう。ブロック展の展覧会場として使われるこの会館はちょうど円形になった建物で、聳えるような吹き抜けや煉瓦造り風の壁が趣を感じる。特に入口のアーチは素晴らしい。アーチは人間が生みだした最も素晴らしいものの一つだと豪語する菊池が、特に褒め称えた代物だ。要石に緑の鉱石を使っているのが小憎らしいほど粋らしい。そんな粋な建物にぐるりとかけられた何校もの美術部員の絵画は、まるで鮮やかな水槽だ。木目のないちゃちな木枠を覗きこめば、誰かがなにかしらの思いをこめて描かれた画が驚くほど素直に自己を示している。いくら学生の作品と言えど練り歩きながらそれを鑑賞するのは案外面白い。
俺もこの展示作業を終わったら見に行こうかな。
ぼんやりしているうちに、俺の絵にタグをつける作業は完了していた。千葉が「おーい」と声をかけてくる。
「この絵はその列の真ん中ね」
「真ん中まん真ん中じゃないか」
「唯一の油絵だしね、こう、メインに」
メインに、じゃない。
第一俺はそんなに絵が上手いわけじゃない。自信がないとかじゃなくて、実際の実力はそこそこなのだ。自分を研鑽することに余念のない千葉なんかはやはり上手いが、俺はそこまで熱心にはなれない。
「まあその配置で構成組んじゃったから」千葉は俺の絵を持ち上げて渡す。「はい。そこね」
俺はそれを受け取った。のしかかったのは確かな重み。ゆっくりと持ち上げて配置場所に手をかける。
「タイトルもなんか不思議」
千葉はぽつりと呟いた。
「そうか」
「この絵の女の子もさ、不思議。相手の後ろ姿を見てて、片手を小さく開いてる。伸ばそうとする前を描いたの?」
「どうだろうな。伸ばしたかもしれないし、伸ばさなかったのかもしれない」
「なにそれ」
瞬く間に有名になった目立たなかったはずの彼女は、平和的な意味でまた目立たない存在に戻っていた。もう誰も彼女のことを思い出さない。徘徊する化け物は完全に死んだ。健全に世界は回っていく。それは俺も同じだ。
「そういえばこの女の子、うちの制服着てるよね。モデルは誰?」
「さあ? 全然知らないやつ」
俺は目を細めるように小さく笑い、かけ終えたばかりの絵を、体を反らせて眺める。
知っているはずなのに見慣れない少女の後ろ姿に、とうに燃やした手紙の存在を思い出した。
きっと死んだとされる時刻より前に俺の下駄箱に放りこんだのだろう。意気地なく臆病になって読めなかった手紙。あれを読めば、彼女の死の真相も、聞けなかった彼女の言葉も、きっと知ることができたはずだ。
俺たちは相変わらず不器用だ。
あの手紙がなんであれ、返事をするつもりはなかった。読んでいない手紙に返事などできるわけがない。相変わらず薄情なことを言うが、もう終わったことなのだ。あれが遺言であれラブレターであれ、俺はその手紙の思いに答えることはない。
ただひとつ、俺の描いた絵のタイトルが『Raise your hand』だということを、丸太朶衣は知っているだろうか。
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