赤いあなたに宣戦布告

小林礼

第1話 当てつけ

 年も押し迫ったある日の晩、チャイムの音とほぼ同時に玄関ドアが開いた。


「コータぁ、いるー?」


 ダウンジャケットをしゃりしゃりいわせながら入ってきたのはナナ先輩で、ぼくはコタツにあたったまま「お疲れ様です」と頭を下げた。


「バイト帰りですか」

「うん。あー疲れた。寒かった」


 ジャケットを着たままコタツにもぐりこんだ先輩の、鼻の頭がほんのり赤い。


「やっぱいいよねえ、おこた」

「先輩、外からきたときは、まず手洗いうがいしてください。あと上着は脱いで」

「出た、コータのオカン発言。あんた、あたしのお母さんかって」

「先輩みたいな不肖の娘を産んだ覚えはありません。いいから早く手え洗ってきてください」

「はーい、ママ」


 先輩はもぞもぞとコタツを出ると、トイレと洗面を兼ねた風呂場へ向かった。ぼくは卓上に広げていたノートパソコンを片づけ、先輩が脱皮したジャケットを壁のハンガーにかけた。


「コーヒーでいいですか」


 背後の水音に負けじと声を張り上げ、ぼくはやかんを火にかけた。


 大学から徒歩五分、築二十五年の木造アパート六畳一間が、ぼくの住まいだ。大学進学を機に田舎から上京してきたのはこの年の春。賃貸物件の善し悪しなどまるでわからず、とにかく予算内でいちばん大学に近いところ、という安易な理由で決めたこの部屋は、いまや同期やサークル仲間たちの格好のたまり場と化している。


 まあ、三世代同居の大家族で暮らしていたぼくにとって、家の中に常時誰かがいるという状況はそれほどストレスではないけれど、


「お腹すいた。コーヒーよりなんか食べるもんない?」


 さすがに夜更けに押しかけてきた他人に飯までせびられるのは、あまり気分のいいものではない。


「お腹すいてるなら、寄り道なんかしないでさっさと帰ったらいいじゃないですか」

「だって家遠いもん。それまでもたないもん。ついでに給料日前で金欠だもん」

「だからって後輩にたからないでくださいよ」


 あきれながらも、結局ひもじさを訴える人間には勝てず、ぼくはシンク下から赤い蓋のカップ麺をとりだした。ちょうど沸いたお湯をカップの内側の線より気持ち少なめに注ぎ、閉じた蓋に箸で重しをする。それを自分用に淹れたコーヒーと一緒にお盆にのせ、コタツでくつろぐ先輩のもとへ運んだ。


「はい、どうぞ。バイト代入ったらちゃんと返し……」


 そこでぼくはぎょっとした。ぼくの向かいに座る先輩の瞳に、透明な涙の粒が盛り上がっていたからだ。


「コータ……」


 ぐすっと鼻をすすりあげて、先輩は目の前に置かれたカップ麺を見つめた。


「これ、あたしへの当てつけ?」

 

 その瞬間、ぼくは自分がとんでもない失態を犯したことにようやく気づいた。



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