33話 Ich wollte dich nicht verlieren

 ブルート城には限られたものしか入れない場所がある。宮殿と渡り廊下で繋がれた翡翠宮と呼ばれる離れ。

 見張りのいる扉の向こうには大理石の柱が林立する廊下。長い長い道はアーチ状の柱を最後に吹き抜けのホールへと変わる。


 ある日、そこに日の光を背負い佇む一人の男がいた。

 徐に顔を上げると長く黒い前髪が頬を伝って肩に落ちる。琥珀の瞳が捉えているのは世にも不思議な天井画。三つ首の白いドラゴンの傍らに立つ女、武器を持つ民衆を先導する目を閉ざした女、片手に月をもう片手に太陽を持つ女がおとぎ話の挿絵のようなタッチで描かれている。

 目を細め、微動だにせず、男はただ絵を見つめていた。


「誰に祈るの」


 ふいに聞こえた声に驚く様子はなく、上げた顔を前に向けて問いに答える。


「私は誰にも祈らない」

「そうだったね」


 新たに訪れた者は日の光を受け輝く白装束と純粋の金髪を揺らして美しい顔に微笑を浮かべる。


「祈らないのなら、どうしてここに来たの」


 今度は質問に答えることなく黒と赤のマントを翻し、ブーツの靴音を響かせながら、輝く者とすれ違い去ってゆく。


「……思い出してたのかな」


 男の足が止まる。輝く者は振り返った。だが、決して視線が交わることはない。


「私はヘリオトロープ。名前はそれだけしかもっていない」

「それも、そうだったよ」

「外に出るが、じき帰る。仕事は私に任せてお前はあいつとできるだけ長くそばにいてやれ」

「……ありがとう」


 男、ヘリオトロープとブルート公ルチルは互いに背を向けて歩き出した。ルチルはホール右手から壁伝いに伸びる螺旋階段の高く高くへと足を運ぶ。

 果てに待ち受けていたのは固く閉ざされた翡翠色の扉。ギュッと眉根を寄せたあと、何度か深呼吸をしてから、白く骨ばった手でノックする。


「安心して。私だよ」


 訪れた者が誰であるか悟ると中から足音がして勢いよく扉が開き、長い金髪を振り乱して部屋の主がルチルの胸に飛び込んだ。


「ルチル!やっと来てくれた!」


 無邪気なその声の響きは、笑顔を向けるその顔は、ルチルと………瓜二つ。


「ジェイド、ただいま」


 ジェイドと呼んだ男の髪を撫でながら抱きかかえて部屋の内側へ足を踏み入れた。

 固く閉ざされたカーテンのせいで真昼にも関わらず暗いそこを満たすのは埃の匂い。

 だが、ルチルは窓際には近寄らず、寝台脇の暖炉の余燼で燭台に火をつける。


「見て見て!これ俺が作ったんだよ!」


 腕の中を離れるなりジェイドは寝台に乗っている筒をルチルに持たせた。覗いて回すように促され、カレイドスコープだということを悟るが、この部屋の中では筒の中に広がる美しく狭い世界の一片すらも拝むことができない。

 片目で暗闇を見つめながらそれでもこれはきっと精巧に出来たものなんだろうとルチルは思った。


「とてもきれいだね。私が貰ってもいいかい」

「うん!ルチルのために作ったんだよ!あれ、伝わらなかった?」


 首をかしげて発せられた無邪気な言葉を聞き、ルチルは微笑を浮かべながら燭台の光の届かないところへ逃げる。人知れず何かに耐えるように唇を噛んだ。

 そんな様子を知らないジェイドは鼻歌を歌いながら寝台に座り、ルチルにもチェス盤を挟んで向かい合うように座るように言った。


「兄さまが相手ではつまらないんじゃないかな」

「大丈夫!俺が手助けしてあげるから安心して!」


 その口ぶりが示すように両者の実力差は歴然たるものだった。熟考するルチルと違いジェイドは一秒と経たぬうちに駒を動かす。相手を打ち負かす最善手を導き出し続け実行する。その姿がルチルにはどう感じられたのだろう、また唇を噛む。

 半刻と経たぬうちに決着がつきそうだ。早々にナイトとクイーンで防衛線を張ったジェイド側は手駒がほぼ残っている。あとはビショップ、ルーク、ポーンのどれかでキングを取れば勝ち。

 ………だが


「あ……」


 血色の悪い唇から声が漏れ出た次の瞬間、寝台から飛び退きチェス盤が床に落ちる。ジェイドは叫び声をあげながら、床に転がった駒に躓き転がるようにして部屋の隅に縮こまった。


「ジェイド!」


 ルチルが駆け寄ると、震えながら過呼吸気味で背後を指さし、ある言葉を繰り返す。


「ルチル、がこっちを見てる……ずっとこっちを見てるよ……怖いよ」


 弾かれた様に闇の中へ顔を向ける。そこにあったのは脱ぎ捨てられた衣服だけであったが、ジェイドの見ている幻影から彼を覆い隠すように白装束の中に引き寄せ、背をさすりながら囁く。


「大丈夫。大丈夫だよジェイド。そいつは兄さまがやっつけたからね。

 ……確かに、この手で」


 愁いを帯びた赤い瞳が瞬きをして捉えたのは背をさする自らの右手だった。




 ────────────────────




 少し落ち着いてきた様子が見受けられたので、寝台に誘い、薬を服用させると、ジェイドは先ほどまでの様子が嘘のようにルチルの膝上で静かに眠っている。

 カーテンからわずかに顔を出した夕焼けの光に目を細めルチルはまた唇を噛んだ。形の良い薄い唇に一筋赤い血が流れる。


(私のせいだ。すべてが)

「お祖父様、叔父様……申し訳ありません」


 胸についたブルート公爵家の徽章を掴むと、心の中で幾度となく繰り返されてきた問いがゆらりと現れる。


 なぜ自分がこれをつけている。

 なぜジェイドは一人で苦しまねばならない。

 なぜ自分はジェイドを、双子の弟を守れなかったのだ、と。


 歴代最高の公爵になる。

 最も冷酷とされる三代目ブルート公の前で眠る青年はかつて国中でそう噂された。

 武を極めたはずの腕は白く細く、骨と皮だけになり、知に富んだ心はあの日あの時から止まったまま。


 昔は自分が抱えられる側だった。

 昔は自分が教えを乞う側だった。それなのに………


 あまりにもあえかになった齢24の青年の額に口づけを落とし、ルチルは泣きながら誓った。


「ジェイド……愛している。愛しているよ。私がお前の魂も将来も守るから」


 翡翠宮を後にし、本宮殿の執務室へ戻ると、ルチルは放っておいたある一つの書状に返事を書いた。そのタイミングで出払っていたヘリオトロープが戻り、書状を見て顔をしかめる。


「何の真似だ」

「挨拶だよ。血族にね」

「いづれ殺す連中の間違いだろう」

「だからだ」


 

 書状の表にはそう書かれていた。

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