29話 赦されぬ天啓

 あのことについてはなるべく知らぬように。考えぬように。

 これから先、俺が進む未来には関係のないことなのだから。もう終わったことなのだから。

 それなのに何故……奴はルチル様によって魂を手放したはずだろ。


 ヘクセ教司祭、死刑囚プレラーティ。

 その名がはっきりと記されていた。この人攫いの全てを解き明かしてあるワインレッドの本に。


「なぜあなたがその方のことを」


 エリザベスは弾かれた様に顔を上げ、そうとだけ呟いた。明確に言ってはいないものの奴の態度で答えを悟る。やはりそうなのか。この本に書かれていることは揺るがぬ事実なのか。


『エリザベス フェルナンド男爵ヘ嫁ぐ前にプレラーティと接触した疑い。詳しいやりとりは不明』


 件のページを一瞥しただけで半強制的に体が強張り、呼気が震える。恐怖や不安、それよりも勝るものは再燃する怒りの感情。


「……何故お前がヘクセ教の司祭であるあいつに」

「ヘクセ教……なんのこと。あの方はハーヴィツ正教の司祭様よ」

「……何」


 頭を鈍器で殴られたような衝撃が襲ったその瞬間、全てがつながった。

 帝国ハーヴィツがラピスかゴーネルを手に入れるために建てたこの計画にプレラーティが関わる理由。

 瞳を見開いて赤い本を遡る。一ページ、また一ページ、文字列をひたすらに追いかける。


(やめてくれ)


 そうだとしたら、俺はどうすればいい。終わったことだと目をそらして生きて来たのに、また、どうして奴が現れる。


(見つからない)


 見つからなければ、この仮説は正しいことになる。

 俺の父を含めヘクセ教の名を語った悍ましい儀式とやらに協力した信徒たち、そして女子を狙った人攫いの犯人エリザベス、きっと……他にも、いいや、まだ判明していない奴らもいるのだろう。


 白いレースのスワドルに包まれ眠る赤子の肖像画の下に『エリザベス ヴルュハーズィ家次女として誕生』とだけ書いてある一ページ目にとうとうたどり着いてしまった。


 やはり仮説は正しかった。

 嫁ぐ前から誕生するまでの間、近親婚を繰り返し狂ったはずのヴルュハーズィ家、その、狂人の次女であるエリザベスが血を欲したことは無かった。

 今ここで俺たちが目にしたような惨状はどこにも記されていない。

 

 頭は熱いのに、背は心底冷たい。また一筋汗が伝った。

 やっとの思いで本を閉じ、懸垂幕に縋りつく赤いドレスの女に目をやる。


「お前、プレラーティに何を話した……」


 何故そんなことを聞かれるのか訝しんでいる様子のエリザベスだったが、抵抗は無駄だと思ったのだろう。諦念交じりのため息を吐いた後は一つ一つ当時のことを語りだした。


「あの方に相談したの。頭痛がするって。

 物心ついた時からいつもとてもとても頭が痛く、どうすればこの痛みが消えるのか日々考えていたのだけれど、答えの見つからないまま体は成長し、皇帝様の仲介でこの城の持ち主だったフェルナンドと婚約をすることになりました。

 嫁ぐ直前のこと……城にプレラーティ司祭様がいらしたの。

 あの方に頭痛のことを相談したら、乙女の血が薬となる……神がそう仰っていると教えてくださったわ。

 試しに16のメイドの血をのんだの。身分は低いけど生娘だったからかしら、頭痛がひいたわ

 夫がいる頃はそんなに血を欲しがらなかったのだけれど、10年前に死んでしまってからは毎日頭が痛くてしょうがなかった。だから……」

「もういい。黙れ……!」


 吐き捨てて、掌を胸に押し当てたとき、俺は泣きたいような、叫びたいような、どっちつかずの感情でどうにかなってしまいそうだった。

 プレラーティ。奴は2つの顔を持ち、人の弱みに付け込んで思い通りに操っていた。きっとエリザベス以外の人間も、俺の父親もそうしてきたに違いないのだ。

 そのすべては恐らく帝国のため。

 繁栄のためだかなんだか知らないが、幾百、幾千もの人間を、死してなお犠牲にしている。

 今目の前にいるのは、プレラーティの悪意そのもの。そう思うと、身一つだけで暗闇に惑う弱い存在に対して抱いてはいけない黒い感情が湧き上がる。

 あの日、あの夜の時には持てなかったある種の勇気。


 奴はもういない。だけど、奴の心は今、ここで脈打っている。

 ならば俺が……


 短剣を懐から取り出した時だった。燕尾服のポケットにしまい込んでいた羊皮紙が一人でに宙を舞う。

 寄せては返す波のように青い光を揺らめかせながら、俺の左胸に二三軽く触れる。気持ちはわかっているから、自分に任せろと目の前でゼノが言ってくれているかのような感覚に陥り、俺はやっと冷静さを取り戻した。


(そうだ)


 俺が今すべきことはたった一つだけなのだから。何かを考えるのは後ででいい。

 思い切りかぶりを振って顔を上げ、目の前に浮かぶ羊皮紙を手中にさらう。


「2つだけ聞く。黒髪の女を手にかけたことはあるか」

「黒髪……この世で最も身分の低い者の血をのむなんて、できませんわ」

「………では、ビアンカを手にかけたか」

「あの平民の娘かしら。いいえ。なんだか醜く思えてきたものだから塔の上に鎖でつないでおいているわ。

 あんまりうるさくするものだからあの日はちっとも痛みが引かなかったの。それに白いワンピースも斑に模様がついて気持ち悪くて。だから、私分け与えてあげたの……だけど、折角綺麗に染まったのに酷く醜く顔を歪ませているものだから見てられなくて。

 その時思いついたのよね。平民ではなく、貴族の娘なら振舞うはずだから、喚いたり泣いたりなんてしないんじゃないかしらって」

「そういうことか」


 残されていた疑問の答えがようやく分かった。

 何故エリザベスは夜会を開いたのか。平民から貴族へとターゲットを変えたことで城に入り込む隙ができ、俺達は真相を暴くことができた。

 その僅かで確かなチャンスを作り出したのはビアンカ自身だったんだ。

 感謝を思うと同時にあいつの心が分かったような気がして胸が締め付けられる。

 女子たちを助けようと、大きな力に精一杯抵抗して、この瞬間も助けを待っている。

 掌の羊皮紙が熱を帯びたような気がして、俺は頷いた。


(早く行かないとな)


 プレラーティの一言で帝国繁栄の尊い犠牲となる運命を辿ることになったエリザベス。

 自分にとっての救いが何なのか、終ぞ知ることなく、この世で最も身分の低い俺達黒髪に打破される……


「…………かわいそうな奴だ」

「なぜ?」


 最後の言葉は一転の濁りもない、澄んだ声音だった。


「……もういい。終わりにしようぜ」


 宙へほうって、諳んじていた呪文を口にする。


「《ルクス・モルス》」


 手のひらに収まるほどの小さな羊皮紙から黒い水流が大滝のごとくあふれ出し、まっすぐエリザベスを飲み込み轟轟と音を立てて渦巻いた。

 次第に渦は傾き、とうとう床に横たわると、大きな水音を立てて一切が元通りの静寂で満たされる。

 臥しているエリザベスを一瞥する。奴はどうやら気を失っているだけのようだとわかると俺は燕尾服を脱ぎ捨てて、速くなる鼓動と同じように駆け上がった。

 ビアンカはまだ生きてる。

 一秒でも早く、依然と変わらぬあの子をじいさんのもとに帰すんだ。

 上へ上がれば上がるほど、鼓動は速く、両目は熱くなっていく。

 もうすぐなのか、早く来いと言っているのかはわからない。ただ、何かに引き寄せられるように上だけを見つめていた。

 刹那、熱い頬に冷たい風が吹き下ろす。凍てついているかのような冷たさと叫び声に似た音を伴って煽るように何度も何度も吹き付ける。


 嫌な予感がする。そう思った時だった。


「やめてビアンカ!」


 キャンディッドの声が耳に刺さる。


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