16話 あなたを呼ぶ声
いなくなってしまったビアンカの詳しい話を聞いた後、俺は二階の突き当りにある彼女の部屋に足を踏み入れた。
箪笥も机も寝具も埃かぶってはいるが居間の家具と同じく高級品、チェスナットだ。
それとドアを開けた瞬間ふわりと広がったあの甘くほろ苦い香り……覚えがある。注意深くあたりを探る。
匂いが強いのは寝台、その下を覗き込むと置いてけぼりにされた皿が置いてあった。皿の白から浮き出るようなチョコレートの欠片、そしてほのかに香るバターからしても間違いない……ここにあったのは間違いなくブラウニー。
「妖精が見えるだけじゃない。確かな関係を築いてる……」
それならば直接聞くのが一番手っ取り早い……
俺は深く息を吐きだしてゆっくりと目を閉じた。自分の中に流れる不思議の力を通して、奴らを呼びかける。
(ビアンカを探したい。力を貸してくれ)
段々と声が聞こえてくる。たくさんの声がクリアになっていく。けれど、返ってくる答えは
「ニゲロ」
「シニタクナケレバサレ」
「コノモリハオワリダ」
俺の呼びかけには応じず、怯えたような声が聞こえてくるばかり……目を開けてあちらとの接続を断ち切る。
わずかな時間だったはずなのにあいつらの感覚に感情に呼応して、俺の手は震えが止まらなくなっていた。
(妖精が怯えるところなんて、初めて見たな)
ここで何かが起こっているのは、間違いない。それにビアンカが巻き込まれてるとしたら……脳裏にじいさんの震えた声が蘇る。
「逃げてる場合じゃないんだよこっちは」
確かな手掛かりが残ってることに賭けて……部屋の様々な所を探してはみるものの
「寝台にも何もないし、箪笥は空か……」
当てが外れたか、そう思いため息を吐くと
「探し物は見つかりましたか」
背後から響く凪いだ海を思わせる静かな声。
肩越しに背後を見やるとそこには案の定奴がいる。白のシャツに紺のエンパイアドレス……俺に気づいて黒のベールはとったが充分暑苦しい格好だ。
「キャンディッド……あいつは?」
「今は下がってもらっています」
「やっぱりお前も気づいたのか」
「はい……この家に妖精の気配が集まっています。彼女が見えることと今回の失踪、関係していると思いますか?」
「あぁ……ここで何かが起こってる。ビアンカはそれを追いかけたのかもしれない」
「何か……とはなんですか」
「わからない。だけど、妖精が怯えるような何かだ。俺たちが思っているほど猶予はないのかもしれない」
何か考えるように黙り込んだ後、キャンディッドの目が薄く開いた。
部屋の状況を確認するとまた赤と紫のオッドアイは固く閉ざされる。
「……机の上ににペンがありますね。彼女の書き物は何かありましたか?」
「いや?ないな」
ペンには乾いたインクがへばりついているが、紙類のようなものは見当たらなかった。とすると
「帳面みたいなものをどこかに隠した可能性がある……」
「床下……は二階なので不可能ですね。レンガの中に隠されているということは無いのですか」
「確認済みだ。何もなかった……」
俺は改めて部屋を見回した。
置き去りにしていた一つの違和感……足を踏み入れた時の奇妙な感覚をもう一度考えてみる。
「……この部屋、妙なところがある」
「その箪笥ですか?」
「え?」
「女性の部屋なのに空というのは違和感があります。それに横に取っ手があるんです。奇妙ではないですか?」
「いや、俺が思ったのは……待てよ?この箪笥、箪笥ではないのか?」
だとすると、全て合点がいく。
違和感も、箪笥が空なことも。
「……帳面のありか、おそらくわかったぞ。
この部屋に入った時……家具は埃を分厚くかぶっていたが床だけ埃が少なかったんだ」
「彼女はいなくなる前に床を掃除したのでしょうか……?」
「居間にあった柱の傷からビアンカの身長は157。この箪笥に乗ればちょうど天井に届く」
俺は腰に帯びていた剣を鞘をしたまま手に持ち、天井をコツコツと叩いた。
叩いていくと、ちょうど部屋の中央部分だけ音が違う。
「ここだな」
箪笥を片手で持ち上げ、上に乗り天井を押し上げると、ちょうど長方形に板がはずれ真っ暗な屋根裏部屋への道が開かれた。
キャンディッドを先に屋根裏へ上げ、続けて俺もよじ登ると、目の前に広がった光景に息をのんだ。
あいつの目も徐々に瞳孔が開いてゆく。
「エスティー、これは……」
「妖精との遊び道具、だな」
人形や生花、ハーモニカなど、一見すると子供の部屋のように見えるそこは時が止まったかのような感覚に包まれていた。
物に憑いてる薄緑のウィルオウィスプがご機嫌そうに飛び回っているその中、陰影が濃く映し出されさらに不気味さが増したゴーネル人形の横にそっと置かれているのは大きな本。
拾い上げ埃を払う。表紙にはFEE……国境特有の訛りで妖精と書いてある。
「中身は妖精のことと、日記だ……一番最後に書いたのは」
俺とじいさんが会う二日前の日付。書き記されていたことはたった一言……
「ハイドラが、呼んでいる……」
その一言だけで俺の息が止まる。
「ハイドラとはなんですか」
「いや、まさかな……」
「エスティー、何なのですか」
「これはウェルナリスの訛りで……書いてあることが本当だとすると」
そんなわけがない、そう思いつつも口から出た声が震えた。
「神話に出てくる化け物がこの近くにいるってことだ」
「……そんなこと、ありえるのですか」
「わからねぇ。でも、ビアンカの日記にはそう書いてあるんだからしょうがな……」
頭の中で妖精たちの言葉と日記がつながる。
ニゲロ
シニタクナケレバサレ
コノモリハオワリダ
……オウガ、イカッテイル
最悪の結末が脳裏をよぎった。
「……ビアンカは助けを求めてるって言ってたんだよな」
「ハイドラが助けを求めて呼んでいる。ということですね」
現代において、ありえることではない。常識的にはそう考えるのが妥当だが、イレギュラーが起こった場合の事態を想定しないという選択肢は俺の中にはなかった。
「……出かけてくる」
「エスティー、どこへ」
「情報収集だ」
屋根裏部屋を後にし俺はビアンカの部屋の窓から飛び降りた。
「キャンディッド、コリンと一緒にいろ。この家から出るな。近くの森から怪しい動きがあれば下の村へ早急に避難しろ。わかったな」
あいつにそう言い残し、俺は外套のポケットにしまってあったスフェーンお手製の地図を取り出した。
手紙にはお楽しみマップ、などと書いてあったが
(実際は裏世界とつながりのある場所を記したものだったとはな)
そういう場所には情報が集まる。時間がない今、多少危険を冒してでも行くべきだろう。
国境街道へと急ぎ駆ける俺の後ろを、一匹の大鷲がつけていたことなど知りもしなかった。
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