7話 雲間の陽光

 9年前、10歳のころだ。

 暗殺機関サングインに入ってからしばらくして俺は訓練をさぼるようになった。


 人を殺すためにする訓練なんてバカみたいだ。

 ……だけど、自由のためにはそれをやらなきゃならない。


 未来に歩みを進めなければいけないのに、進みたくなくて、だけど逃げることもできなくて、逃げてばかりもいられなくて……行き場のない俺がかろうじて見つけた逃避が訓練さぼりだった。

 その頃は日がな一日、人気ひとけのない妖精がうじゃうじゃいる森の大樹に上って空ばかり見つめていた。

 星空も、青空も、殺伐とした感情が消えうせるぐらいにきれいで、現実から逃げるにはちょうど良かった。

 曇天も、雨雲も、憎たらしい葛藤を抱えたままでも楽に息ができたから嫌いじゃなかった。

 頭の片隅にはいつも選択を迫る自分の声がうざったく響いていたが、聞こえないと無視を決め込んだ。

 この日々の限界を見つめるのが怖かった。


 そんなある日のこと、小雨の森の中、俺のもとに一人の兵隊がやってきた。

 男は背筋が伸びていてスラリとした長身だった。

 長く黒い髪は下で一つに束ねていて、琥珀色のぎょろりとした目がまっすぐ俺を見上げる。


「おいおっさん。なんでここがわかった」

「お前がここにいると妖精たちに聞いた」


 どうやら妖精が見えるらしいおっさんの声は低く威厳のある響きで、おっさんと呼んだことをあとで少し後悔した。


「エスティー・ポードレッタだな」

「そうだけど何」


 このおっさんだってどうせ、組織の人間だ。きちんと訓練しろとか命令に従えとか俺を説教しに来たんだ。

 はなからそう決めつけておっさんの言葉に耳を貸す気はこれっぽっちもなかった。

 だけどおっさんが口にしたのは説教なんかじゃなかった。


「空ばかり見ているのは少しもったいない」

「え?」

「森は、雨上がりに動き出す。木は雨粒を抱え光を受け止める。日に照らされ干からびてしまった苔むす岩や地面は水で息を吹き返す。水源は歓喜し溢れる清水を皆に手渡す」

「詳しいじゃん、年の功ってやつ」

「そうだな、長い時を生きた」


 俺をまっすぐ見つめていたおっさんはふいに俯きその顔には暗い暗い影が落ちる。


「戦乱の世も、貧困の時代も、この目におさめてきた」


 表情は変わらないが、その言葉は影同様に暗く、確かな重みがのしかかってくる。

 戦乱も貧困も具体的に何を指すのかは皆目見当もつかなかったが、俺はこのおっさんが何者なのかなんとなくわかった。


「おっさん、暗殺者サングインだろ」

「その役割を背負ったこともある。そうでないときでも人を殺したことは何度もある。殺した中には同胞もいた」


 嘆くでも苦しむでもなく、ただ静かにつぶやいた。

 何も知らなかった俺は、そんなおっさんに心底腹が立った。

 一人殺すだけでうじうじ葛藤している俺を嗤いにでも来たのか、わざわざ殺した人数自慢されても迷惑だ。

 皮肉も込めて俺は、おっさんにこう吐き捨てた。


「案外さらっとしてる。数をこなせば慣れるもんなの」


 大方肯定の返事が返ってくるか、黙るかだろう。だけど、ひん曲がった予想は思いっきり裏切られた。


「いや、幾度となく経験しても慣れることはない」


 瞬間、俺の心臓が得体の知れないもんに握りつぶされるような心地がした。

 おっさんは先ほどと変わらず、ただ静かに話しただけなのに、胸の内に閉じ込めた幾重にも重なった悲劇の切れ端が垣間見えたような気がして、俺は俺の考えが愚かだったと知った。

 黙り込んだ俺を見て、おっさんはついて来いとでもいうように背を向けて、ここよりも鬱蒼とした雨の森の中をためらわずに進んでいった。

 俺は木の上から降りて小走りで、歩みに合わせ揺れる濡れた黒髪を追いかける。

 何も言わずともおっさんは俺が来たことを察しぽつりと語りだした。


「私が生きた時代は、命が軽かった。

 貴族は貴族であるだけで奴隷を殺せた。

 国王は国王であるだけで人民を殺した。

 兵隊は兵隊であるだけで敵国の兵隊を殺せた。

 今もさほどこの世に変わりはない。

 だが、お前はこの時代に生まれても命を軽んじなかった。

 どれだけ腹を空かせていても、命への敬意を忘れなかった。

 どれだけ命令されても、人を殺すことを正当化しなかった。

 命を刹那的に見ないお前の考え方を、うらやましく思う」


 前を行くおっさんは濡れた草木の雨露を俺の代わりに引き受けて服も肌も水で冷えてゆく。

 俺はなんだか不安になっておっさんを引き留めようとするけど、伸ばす手はわずかに距離が足らずただ黙ってついていくことしかできなかった。


「訓練に参加しろとはいわない。空を見つめて可能性の中を生きるのも咎めない。

 だが、忘れてはならない。お前の目的はなんだ。人を殺すことではないだろう。

役目につぶされるな」

「人を殺すことじゃない?だって、おれは…」


 言いかけた瞬間、暗かった森が終わり、目にまぶしい太陽の光が差し込んでたまらずかぶりを振った。

 光に慣れたとき、もう一度目を開けると、おっさんは開けた小高い丘の上に一人寂しく根を張る沈丁花を見つめていた。

 花をつけ、太陽を独り占めしているそいつは、雨粒をしょい込んで今にも地に臥してしまいそうだ。


「……おっさん、やっぱり俺の目的は人を殺すことなんだよ。

 道のりがどうであれ、突き詰めれば殺人になる。

 だから、俺は」


 おっさんは俺の言葉の続きを手で制止した。


暗殺者サングインのエメラダじゃないはずだ」


 分厚い雨雲の切れ間から陽光が漏れ出て束の間、森が光に満ちる。

 この国に来てから言われたこととは全く逆のことを言われて俺は面を食らった。

 本当の名は捨てろ、それだけを最近は言われていたのに、どうしてそんなことを言ってくれる。


「おまえが誰なのか、忘れるな。胸に刻み込め。考えろ。悩み続けろ。

 お前ならば新たな選択肢を作り出すことができると……私は信じている」


 進むか、止まるかじゃない新しい選択、本当に俺にできるのか。

 胸に浮かんだ不安も見透かしたようにおっさんは俺の頭に手をのせた。

 おっさんの手の雨粒は乾いていたけれど、表皮は底冷えしていて温かさは感じられない。

 だけど、俺を見据える琥珀の瞳は柔らかく細められ、実体のないあたたかな温度が確かにそこにあった。


「決して、役目につぶされるな。ことを考えろ。

 エスティー・ポードレッタ。お前ならば、できるはずだ。」


 俺の頭をくしゃくしゃに撫でた後、おっさんは踵返して小高い丘の上に上ってゆく。


「おっさんの名前なんていうの」


 いなくなるような気がして、俺は慌てておっさんの背中にそう言葉を投げた。

 歩みを止めることはなかったけど、おっさんは俺にこう語り聞かせてくれた。


「私はお前とは違う道を選んだ。役目につぶされてしまった。本当の名が消えてしまった。偽りの名が本物の名になってしまった」


 おっさんがしゃがみこんで丘の上の沈丁花を一輪摘んだところから俺の記憶はぼやけている。

 気が付いたら俺は元通り木の上にいたし、あたりはすっかり晴れていたからあれは夢だったのかと錯覚した。

 けど、夢でも幻でもなかった。

 寝ていた俺の腹の上には濡れた沈丁花があったし、おっさんの最後の言葉もぼんやりと思い出せたからだ。


「私は、ヘリオトロープ」


 その名前は、血石。血飛沫がこびりついたような黒い石の名前だった。



 この出会いを経てから、俺はさぼりつつ、訓練に出席もしつつ、ヘリオのおっさんの言葉に従って、悩みながら、考えながら、時が過ぎていった。

 新たな選択ができるかもしれないっておっさんは言ってくれたけど、結局俺はラピスに来て殺すことを選んでしまった。だけど、殺し損ねた今、状況が目まぐるしく変わっちまってどうすればいいのか、わからない。

 そもそもどうあがいたって任務が成功できないんじゃ動きようがないじゃないか。




 部屋から逃げ出した俺は、修道院の裏にある小高い丘の森の中を歩いていた。

 妖精一人いない森の中は土も木も貧相で、上るのに手ごろな木がなかなか見つからず、やっと数百年物とみられるシナの木を見つけ、てっぺんの枝までたどり着き横になって眠った。


「どーしたもんかな」


 任務を終えたら、自由になって、俺の本当にやりたいことができると思ってた。

 だけど、任務自体欠陥もので、俺は身代わりのあいつにインチキ契約持ち掛けられて……この先どうすればいいのか、冷静に考えれば考えるほど迷宮の奥に足を進めてしまう。


「すべてを明かしブルートに戻って次のチャンスまで待つとか」


 そう声に出した瞬間、さっきのあいつの言葉が脳裏によみがえる。


『役立たずの兵隊を生かしておくほどあの国がぬるいとは思えません』


 殺しはしないはずだ。だが、そうだな……確かにぬるくはない。

 契約を破棄しあいつがラピス側の誰かに告げ口したらこちらの計画がバレる。その場合、絶対にただでは済まない。ただでさえ悪そうな両国の関係が悪化か、その果ては全面戦争か。

 もともとの計画ではブルートの存在を明かすことなく暗殺、そのあとのことはわからないが……国際問題に発展する流れは望んでいないだろう。

 さて、必然的にこの選択肢は消え、あいつと契約を結び、作戦を失敗ではなく、継続中にする必要がある。

 冷静に考えても、別の選択なんてやっぱり見えてこねぇ。おっさんの見込みは外れちまった。

 畢竟、俺は終わりの見えない護衛業をして、あいつと心中しなければならないのか。

 

「俺はどうすればいい」


 気がついたらあの日以前の自分がいる。その揺るがぬ事実に堪えてため息をついた時、枝葉がガサガサと揺れ何かが俺目掛けて突進してきた。

 ゴッシェの黒蛇だな、と思ったが、突然襲い掛かった肩の痛みに来客が誰なのかを悟る。


「いだだだだだだだだだ!!!!」


 食い込むようなその痛みは、ある意味懐かしいものだった。


「……久しぶりだな、グリシャ」


 俺は肩に乗っている客の顔を見上げた。

 鉤爪は俺の顔ぐらいでかくて、羽はこげ茶と灰まじりの一メートルは超える背丈の大鷲。

 スフェーンの相方でチビのころは一緒に遊んでいた仲だ。

 グリシャは挨拶するようにくちばしで俺をべしべしと叩くと、足についた郵便物を器用に外して手渡した。


「はいはい、わーってるって……本国への手紙だろ」


 選択の時が近い、という事実にげんなりしながら手紙を開けたが中には


「はぁー………なんだって?エメへ……ん?エメ?」


 誰かさんが口ずさむあだ名が一番最初に目に飛び込んできて、俺は手紙を三度見くらいはした。


『作戦の方はどうなってる?そこんとこ本国への手紙に適当に書いといてね~締め切りは今夜ね~

 そんなことは置いといて俺が作成したラピス国お楽しみマップを入れとくから

 ちゃーーーーんとみるんだぞ!』


「おい。これがサイファーで本当にいいのか」


 グリシャに目を向けるが、そんなもん知らんよとでもいうかのように見事にそっぽ向いている。

 なにが適当にだこっちの事情も知らねぇで馬鹿スフェーンが……!


「とりあえずあそこの、修道院のバルコニーに置いておくから、誰にも見つからず取りに来いよ?」


 俺の言葉を承知したのかグリシャは翼をバサバサとはためかせた後、大きな体を隠すため大樹の中に潜り込んでいった。

 見送った後、俺は手紙を取り出して、何を書くでもなくジーっと紙面を見つめる。


「あいつの契約に乗ったとして、どうやってルチル様をだます」


 ゴッシェに理由を話して協力を仰ぐべきか。と思った瞬間同時にさっきの言葉が頭に響いて手が止まる。


「ゴッシェの協力にも裏がある……いや、あいつの言うことなんて真に受けちゃいけない」


 悩んだ末に俺はゴッシェに手紙を書くことにした。


(青石はよくできた贋作だった。本物のありかは特定してある。あとひとつ、姫は)


 身代わりで……

 そこまで頭の中に思い浮かべたところで結局ペンを懐にしまう。

 ゴッシェは……誰の味方なのか。単純な疑問が脳裏の片隅に湧きでる。

 何故、俺がこの仕事を任されたのか。10年来手を付けていない謎だった。

 

『君がそんなだから』


 あの人はそう言った。俺には今でもわからない。

 ……もう自分のことなどわかりたくもない。

 何か裏があるとしたら。ゴッシェの協力に裏があったら。

 そう考えるとブルート関係者には嘘をついたほうがいいのかもしれない。

 手紙の姫のところに黒インクを垂らしてごまかし、計画は変更するが問題ないと最後に付け足した。が、身代わりであることを伏せて書いているのでつじつまが合わない……言い訳が苦しい。


「こんなんでやりすごせるのか……?」


 自嘲気味の呟きが力なく落ちる。そして、また枝がガサガサと揺れた。

 今度は真下から。

 グリシャではない……じゃあこんなところに誰か人が来たのかと思い、手紙を懐にしまって何気なく下を見る。瞬間、状況を察して絶句した。

 枝にロープが巻き付き輪をたれ下げてプラプラと風に揺れている。

 そして、それに首を通す白髪の男……


(……!)


 すぐに俺は下の枝に降りて、巻き付いたロープを断ち切ろうと懐からナイフを出すが


「なんだこれ……!ダガーじゃキレねぇ!」


 あんのじじいやけに丈夫なロープ用意しやがって!

 まだ半分も切れていないのにふいにロープがギュッと固くなり枝が下に勢いよくしなった。

 それが何を意味するか悟り血の気が引く。


「迷ってる暇ねぇな」


 ダガーナイフをしまい込み俺は腰に帯びていた小さな剣の柄を握りしめる。

 感覚を握りしめた右手に集中させ、腹に力を入れ、鞘から勢いよく抜き出した。

 うっすらと光を帯びたその薄紫の刀身には古代文字が刻み込まれてあり、大きさはダガーとさして変わりない。

 だけど、これは普通のナイフとは決定的に違うところがあった。

 この国では極力使いたくなかったが、緊急事態だ。


「≪フェアトラーク!≫」


 俺の言葉に呼応するように刀身の文字は浅葱色の光をまとい目覚める。

 瞳は燃えるように熱を帯び、髪は瞬きのうちに黒に染まる。

 髪と服をはためかせる銀の風の渦の中、俺は剣を振り上げて叫んだ。


「≪エンデ・シュナイデン!≫」


 思い切り放った剣閃は風をうねり上げ吸収し、銀から青に姿を変え竜巻のような軌道を描いてピンと張ったロープを一瞬で断ち切った。

 

「……やったか」


 時間的にそんなに余裕はなかったが人一人じいさんがお陀仏するには足りないはずだ。

とはいっても、こんなに用意周到な油断ならねぇじいさんだ。ロープがだめならナイフでとか考えてもおかしくない……

体の熱はそのままに黒髪が茶髪に戻ったのだけを確認して、シナの木を降りるとロープを握りしめ背を丸めるじいさんの姿があった。


「おい!なにしてんだじいさん!」

「……失敗しないようにと、丈夫なものを選んだのだがな」


 魔法の剣と魔法で切ったとは口が裂けても言えないのでごまかすための文句を考えていると、目の前のじいさんが見覚えのある人間だということに気がつきそんなことは忘れてしまっていた。


「お前、馬車のじいさん!?」


 顔はすっかり生気がねぇけど……確かに俺がラピスに来るときスフェーンと世話になったあの人で


「何やってんだこんなとこで……!」

「もう、無理なんじゃ。死なせてくれい」

「馬鹿言ってんじゃねぇ……」


 様子をうかがっているとじいさんはロープと一緒にあるものを握りしめていることに気がついた。

 表紙に嘆願書と書かれた分厚い紙。わざわざ死に場所に持ってくるくらいなのだからこれがじいさんの絶望に関わっているのだろう。


「何を願いに、王都にきたんだ?」


 じいさんは自分の身に起こったあることを告げた。

 領主にも、教会にも、相手にしてもらえなかったこと。

 自分の命を犠牲に王宮に直談判しようとしたけど、その権利すらも与えられなかったこと。

 終始暗い様子で語るじいさんの様子を見て、俺はあることを思いついた。

 

「いい考えがある。その件、俺に任せてくれないか」

「いま……なんと」

「俺、じいさんの願い事聞いてやるよ」



 自由になれないなら、自由になれない前にやるべきことをすればいい。

 ヘリオのおっさんの言っていたことがやっとわかった。

 俺はエメラダじゃない、エスティーなんだ。

 


 

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