1話 エメラルドの契約
深い霧の中いる。
一寸先もみえないような所を馬鹿みたいに走っては転んで、だんだん汚れていく。
早く、早く見つけないと。
俺はそれまで絶対に諦めないから。
ぬかるみに足を取られ、肩からどさりと地に落ちる。
泥に濡れた掌で大地をつかみ、また立ち上がろうとするけれど、あまりにも汚れた自分の姿に一歩踏み出す勇気をくじかれる。
こんな俺でも君は会ってくれるのか。
こんなに汚くなってしまった俺を、君は受け入れてくれるのか。
考えれば考えるほど君が言うはずのない言葉たちが頭の中を駆け巡る。
どうか、どうか消えうせるようにと、浅い呼吸を繰り返し、ただただかぶりを振った。
もう何も考えたくない。何もわからないままでいい。
背を丸め俯く俺の視界に突然ゆらりと影が現れた。
弾かれた様に顔を上げる。
歪む視界と濃霧とで誰かを判別することはできなかったが、差し出された手に見覚えがあった。束の間、我を忘れ見入る。
細長くしなやかな、女のきれいな手。
手が俺の方に伸びてきたので正気に戻った。かぶりを振りながら後ずさる。
汚さないようにそうしたのに、きっと今も俺のことをみているはずなのに……彼女はまた手を伸ばし、そっと触れて、優しく撫でる。
あの日のままのそのしぐさに全身が甘く痺れた。
「……っ」
脳裏にこびりついていた躊躇いなどかなぐり捨て、彼女の胸に縋りついた。
「……ちゃん………にいちゃん」
だがなぜだろう。確かに彼女を抱きしめたはずなのに、遠く聞こえるその声はどうも低い。
「にいちゃんおぎでっが?」
「ん!?」
鼓膜に飛び込む老人の嗄れ声に飛び起き、反射的に後ずさった。バクバク暴れる心臓を服の上から押さえ、ようやく状況を確認する。
「でぇじょぶが?にいちゃん」
目の前にいたのは声の主であるいかにもな田舎訛りの農家のじいさん。心配そうな、困ったような瞳の中には目をかっぴらいて動揺している俺自身が映っている。
瞳の中の俺は黒髪のはずが茶髪に、軍服のはずがヤギ毛のボロ着になっている。
ようやくあのことを思い出した。とりあえず冷や汗滴る額を腕で拭い、呼吸を整える。
「す………すまん、寝ぼけていた」
「なんだぁ?かのじょだとでもおもったんが?」
「………そんな感じだな」
「おっといげねいげね、おらぁ用足してくっから藁っこどうまっこのこど頼むな~」
「あぁ、わかった」
小走りして行くじいさんを横目で見遣り、俺は伸びをして荷台に乗った藁に背を預けた。
異国の夏の慣れない暑さがあんな都合のいい悪夢を見せたのだろうか。
気がついたらあの国を出たのはもう三日前のことになる。
ブルート公国。
歴史的な功績からも、傭兵業が盛んなことからも、近隣諸国からは血でできた国、血のブルートとして恐れられる山岳地帯の小さな強国。
とある事件をきっかけに、歴代で最も冷酷と評される現ブルート公には直属の兵隊がいる。
極秘戦闘専門、隠語でアッシュ。
国内外の情報を握る諜報機関、隠語でサイファー。
暗殺専門、隠語でサングイン。
血のブルートに似合いの仄暗い業務を請け負う三機関だが、内部関係は意外も意外。極めて良好なのだ。
三機関は協力関係にあり、持ちつ持たれつ、属するブルート兵は仲間思いで、勤勉。多少贔屓目はあるかもしれないが言い過ぎではないだろう。
冷酷と言われるブルート公も実態は真逆。優しい公爵と有名だ。
俺はある時から
コードネームは深緑の瞳からエメラダと名付けられたが、本当の名はエスティー・ポードレッタ。苗字に持っているのは薄紅の貴石。
もう知っている者は片手で数えられる程しかいないけれど……いつか俺はこの名を取り戻すと心に決めている。
その時は突然訪れた。
三日前。秘密裏にブルート公から呼び出され、居城である山城に参上した。
執務室の扉を開けると出迎えたのは他でもない、現ブルート公、ルチル・ブルート陛下。
跪く俺の姿を紅の瞳にとらえると、椅子に座ったまま声をかける。
「やぁ、エメラダ。久しいね。顔をお上げ」
視線が交わると切れ長の目は柔らかく細められ、端正な顔が綻んだ。肩につかない程度に伸びた純粋の金髪も陽の光を背負い燦燦としている。
一枚の絵画を見ているような心地がして呆けてしまい、挨拶の言葉が少し遅れる。
「お久しぶりです陛下………よ、陽光輝かしいぃこんにち……」
「いいよ、君がお世辞を言えない子だっていうのは知ってるから。いつも通り君の言葉を使うといい」
残念ながら使うことがなかった上司お手製のカンニングペーパーを胸の内ポケットに突っ込んでいると、ルチル様は椅子を離れ白装束をたなびかせながら俺の目の前に佇んだ。
黒髪を掬い、頭をなでる。
その手が離れた瞬間、場の空気が緊張感で満たされた。
真剣な声音が頭上から降り注ぐ。
「いよいよ君に、行動してもらうときが来た。僕らと交わした契約を覚えているね?」
「………はい」
組織の人間が最初に結ぶ契約。
その内容は各個人で違うらしいが、俺が交わしたものは異例中の異例。
ある一つの任務の達成、そのためだけに俺はサングインに育てられた。
「出立は今日の夜、君の最初で最後の任務だ」
ルチル様はそう言って三つ折りにされた一枚の書状を握らせた。
ある人物の暗殺を許可するという旨の書状を……
計画に沿って俺は、夜にブルートを出立し山を越え国境を越え、目的地へ向かうため農民に成りすまして、じいさんの荷馬車に乗せてもらっていた、ということなのだ。
目指すは隣国、ラピス王国、王都リンディン。
何年もこの日を考えていたけれど、行動に移すとあっけない。
目的地はすぐそこまで迫っていた。
(………俺は、このためにいるんだ。成功、させるんだ…)
改めて自分にそう言い聞かせるが、本番を意識すればするほど胸は不快にざわついて……落ち着かない気持ちを紛らわせようと勢いよく起き上がり、じいさんの馬の背を二三軽く触る。
………
…………
………………それにしてもじいさんが遅い
(いや、遅いとか思ったら失礼だよな?じいさんも馬車に乗ってる間我慢してたんだし、野糞くらい気長に待つか)
辺りを見回しじいさんを探してはみたが、視界いっぱいに広がる麦畑と、遠くにかすむ青い山々しか見えない。人っ子一人見当たらん。
空には雨粒を落としそうな雲がぼちぼち見受けられる……あんまりのんびりしてるとじいさんの売り物がダメになっちまうんだが……
そういえば、じいさんも遅いがあいつも遅い。
ブルートを出立する前、ルチル様は言っていた。
『ラピスにもう一人刺客を送る。彼はまた別件だが、前情報はその子から聞くといい。大丈夫、君がよく知る
メンバー非公開のサイファーで俺が知ってる奴なんて一人しかいない。
俺の同期で、本名を知る数少ないブルート兵だ。サイファーになってからは会っていないから、今回久々の再会になるというわけだ。
道中合流させるという話だったのに、まだあいつは来ない。都はすぐそこだってのに。
そう思っていたらじいさんの馬が耳を動かして俺の背後の方向をじーっと見つめ始めた。
やっと終わったんだなと一先ず胸をなでおろし、何気なく振り返ると
「いや~助かったわい。急いで紙を忘れるとはうっかりしとった」
「急ぐと色々忘れちゃうよね~」
……なぜかすがすがしい顔のじいさんと例のあいつが一緒にいて、話に花を咲かせつつ歩いてくる。
俺の心中など露知らずじいさんは満面の笑みで
「にいちゃん、待たせてすまんのぅ。このにいちゃんも都までいくみてぇだからうしろで仲良くやっとくれ」
「………お、おう」
「いや~馬車で相席だなんて僕はじめてです~お兄さんよろしくお願いしますね~」
やたらニヤニヤしながらすっとぼけるこいつは一旦スルーして……俺たちは干し藁の後ろに並んで腰かけた。
馬車が動き始めたのと、じいさんの耳が遠いのを確認して、あいつは口を開く。
「久しぶり~茶髪も似合ってるじゃないか。ホントに農家にいそうだぞ」
「くすくす笑ってんじゃねぇか、小突くぞ。だいたいなにがよろしくお願いしますだ。だれがお兄さんだ」
「うん、そうだよな……どっちかっていうと俺がおまえのお兄さんだよな?」
「貴様のような兄はいらん…!」
「えー!なんでだよぉ!おまえの頼れるスフェーン兄さんだぞ!優秀だぞ!」
出頭から軽口が止まらんこのちゃらんぽらんが、同期のスフェーン。
黄色が強い金髪の奥から覗く、緑がかった灰色の目はこの茶化しに対する俺の反応を観察している。
同期で唯一サイファーに入った人間、離れていても噂は聞こえていたが……確か、情報を手に入れるためなら手段を選ばない特に冷酷なサイファーみたいな内容だった気がするので、俺は全く信じていない。
そんなわけがないだろう。昔っからこいつはこんなやつなんだから。
「顔を合わせりゃボケと冗談のオンパレード……どうしてお前みたいなちゃらんぽらんが冷酷だとか有能だとか言われてんだよ……おかしいだろ!ブルートは強国じゃなかったのか!?」
「いやいやいや……俺はどう見ても冷酷有能だろ~」
「……偽りにまみれたお前の言葉より語尾の間抜けな後味のほうが多くを語ってるんだよ」
「ツンデレな弟か~……うーん嫌いじゃない。むしろイイまである!からかい甲斐があるなんて最高っ!!」
「だぁぁもう!何言っても最高に帰結させるのやめろ!」
いくらあしらっても驚異の生命力で粘りついてくるスフェーンのボケにしびれを切らした俺は、無理くり話を変えた。
「情報だ、情報!仕事が基本だろーが!」
「おいおい、いくらご老人が耳遠いったってそれ以上の大声は聞こえちゃうよ?」
「わかったっつの……さっさと仕事の話に移ろうぜ」
「へいへ~い、わかりましたよ~……で、エメラダってラピスのことどれぐらい知ってるの?」
「へ」
実を言うと、全く知らない。
医学や化学や地学には明るい俺だが……昔から政治歴史は耳が滑るのでいくら聞いても覚えられない。
チビのころからの知り合いのスフェーンはもちろん承知しているが、年月を経ても弱点を克服していないと知られるのは……一流サイファーになってるらしいこいつに知られるのはなんか嫌だ……!
「ラピスは…その~、あれだろ?……王国ぅ……だよな!」
ないところからひねり出した答えを口にした瞬間、視界の端に映るのは小刻みに揺れるスフェーンの肩。
「おい……お前笑ってんだろ?」
「っふ……エメってば……変わってなさすぎ(笑)」
「わ~ら~う~な!……王国だってこととあと~…ブルートにとっては因縁の相手で~……」
「は~いはい。意地悪して悪かったよ~もう降参する?」
「き、今日のところは勘弁しといてやる!でも、お前が知ってる頃より俺も歴史政治覚えられるようになったし」
……嘘だが。
「お前の話にもついていけるから?存分にぶちまけてどうぞ?」
「あ~……そう?じゃ、遠慮なく………ラピスっていうのはね?
歴史ある国で初代ラピス王からラピス7世までは順当に王位が受け継がれたんだけどその子供4人からが大切でラピス8世が王位継承順位3位のサンティエ家にクーデターを起こされて失脚してからサンティエ家が台頭する時代が来るんだけど(ここまで一息)」
「おぉぉぉぉぉぉあちょっっっと待て!」
「ん~?なぁに~?」
両肩を鷲掴み慌ててスフェーンを止めると、あいつはガキの頃と変わらぬしたり顔で俺の二の句を待っている。
スフェーンは必ず俺の嘘を見破り本音を喋らせる。
成長した今回も例に漏れず、いつも通り観念するしかないのだ。
「……簡単にいえ。専門用語をなるべく使わず」
「そうそう、それでいいんだよ~……じゃ、超絶簡単に言うと
……ラピスはここ何十年か内乱ばかりしていたんだ」
「内乱…」
「兄弟の家同士でどちらが王になるかの醜い争いが始まった。長男と次男の家を滅ぼした三男と残された四男の家でね」
「内乱は、どうなったんだ……」
その質問を投げかけた瞬間、スフェーンのまとう空気が変わった。
あいつの苦い顔を見て、俺は腹に重いもん押し当てられたみたいな、不快極まりない苦しさが喉元までせりあがってくる心地がして、胸がざわつく。
スフェーンは頭の回転が速いから、会話のテンポが速い。だけどあいつは少しの間、何か言いかけては口を閉ざすことを繰り返した。
相当言葉を選んだのだろう。だが、語られた事の顛末は……内乱の残酷さを隠しきれない実に酷いものだった。
「終わったよ。四男の家が断絶してやっと争いが終わったんだ」
「三男は、兄弟全員を殺したってことだよな……」
「それだけじゃないよ……民の犠牲は計り知れない。貴族たちの分断だって今でも続いてる。
でもねエメ、これで終わりじゃないんだ」
そう告げる声は一際粒だって聞こえて、さっきよりも張り詰めた緊張感に俺は嫌な予感を察知する。そして…
「今回の暗殺のターゲットだけど、このお姫様はね……最後の内乱の生き残りと囁かれるいわくつきの姫君なんだ」
「最後の内乱……まさか、三男の家の中で……」
「そう、四男の家が断絶して終わったはずだった内乱は終わってなどいなかった。
十年前、当時亡くなった王の息子二人……つまり王子達が、戴冠式の前日、式典準備のために滞在していたドラート塔から姿を消した」
それが最後の内乱を指すってことは、これも王位継承に関係する争い……
姿を消した王子は、王位を継ぐ直前に姿を消した。そして弟にあたる王子も一緒に消えた……二人は王位継承順位第一位と第二位。
つまり……
「暗殺か……!」
十中八九、首謀者はその次の順位の人間。
目で合図すると俺の考えはあっていたようで、スフェーンはこくりと頷いた。
「そう……首謀者とされたのは甥の公爵。王位継承順第三位。
罪なき王子を手にかけたとされ、死体が見つからなかったにも関わらず、議会の決定で一族諸共処刑になった…
今はもう一人の甥が国の政治を動かしてるみたいだけど、跡継ぎ問題やらでなかなかピリついてるらしい」
今までの話を踏まえて、今回の俺の任務は……内乱の生き残りの姫君。
「そして事件当時は名門貴族の家に預けられていた二人の王子の妹、それが今回のエメのターゲットだ」
「……いわくつきって言ったよな。あれはどういう意味だ……内乱の生き残りってだけじゃなさそうだが」
「彼女は政治の場から退き、少し離れた修道院で神官になっているらしい。
目にすればわかるけど明らかに普通じゃないんだ。
……精神を病んでるって噂」
凄惨なこの国の歴史の
かぶりを振って心の中で繰り返す。
俺は命じられたことを確実にこなす。
そして自由になる。
そのために……そいつを殺す。
黙る俺を見かねた様子のスフェーンは何度か肩をたたく。
「初任務が女殺しなんて、ルチル様はエメに厳しいな」
「……関係ない。俺たちはブルート兵だ。決まってたことなんだから……従うのが道理だろ」
他の建物よりひときわ高い都の目印、王子たちが消えた要塞ドラート塔がすぐそばに迫っている。
出立の時を悟って俺は黒のマントに身を包む。同じく隣で準備をしながら、スフェーンは
「ラピスの城にはもう一人サイファーがいる。
正式なコードネームじゃないけど、ジェントルと呼ばれる男だ。窮地に陥った場合はエメを助けるように言ってある」
「余計なことしなくていい」
馬車を降りたその時
「……エスティー。生きて帰ってこい」
いつになくまじめな声で、コードネームでも愛称でもなくて、俺の本当の名前を口にして、スフェーンはそんなことを言った。
「当然だ」
振り返らずに短く、そう返事をして俺たちは別れた。
王宮に向かう道は一本道だった。
行き交う馬車の音も、薄ら寒い笑いを浮かべる貴族の声も、貧しさに喘ぐ民たちの声も、俺の耳には一切入ってこなかった。
ただひとつ。それだけを考えていた。
十年前、交わした契約を。
契約が終わったその後のことを。
それだけを考えていれば、俺はどんなことでもできるような気がしたから。
……どんなことをしても許される気がしたから。
『君の話はわかった。でも……自由にしてあげるわけにはいかないよ。君がそんなだから。
契約だエスティー・ポードレッタ。
もしブルートから出たいのであれば、ラピス王家に伝わる青い秘宝と赤い秘宝を奪っておいで』
『それはなんだ』
『大昔、ラピスが殺した魔女ジーヌ・ダチュラから奪った我が国のご神体だよ』
『それを手に入れれば、俺を自由にしてくれるのか』
『あぁ、君が本当にやりたいことをしていい』
『わかった……お望み通り泥棒業やってやるよ』
『泥棒で済めば、よかったんだけどね。石は心を持っている。持ち主の命あり続ける限り離れることはない』
『……人殺しになれってのか』
『気が変わったかい?』
『できなければ、俺はどうなる』
『……ブルートから出られない』
『気は変わらない……お前の言うとおりにする』
『……君は今日からエメラダ。
もうすぐ、自由になれる。会いに行けるよ。
……だけどそのために、俺は、俺の手を鮮血で汚さないといけないんだ。
だからこんな俺のことは受け入れなくていい。
ただ、君が生きていてくれれば……それでいいんだ。
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