信長の娘の手紙

@michiseason

プロローグ 信長の娘

元和二年四月十六日、徳川家康は織田信長の長女徳姫が京の寺で危篤であるという報告を受けた。

家康は、彼女を恨み続けていた。

しかし彼女か危篤だと聞いた時、懐かしさと死なないでくれという感情しかわかなかった。彼女が亡くなると、自分が最も愛した嫁と息子をよく知ってる身内がいなくなるという寂しさしか感じなかった。

家康は彼女が危篤になったと聞いて自分は最愛の息子の嫁を許し、いとおしく思っていたことを思い知らされた。

彼女はあの事件の被害者で、自分と同じく二人を失った哀しみと後悔で懺悔の日々を送っていた。

どうして今まで徳姫を無視し、いたわりの言葉ひとつもかけてやらなかったのか後悔の気持ちしかなかったのは自分でも意外だった。

彼は徳姫に何人もの名医を診させ、決して死なせないように命じるのだった。

徳姫は、家康自慢の息子の嫁だった。彼女は利発で美しく、信長の愛妾吉乃が産んだ信長の長女で性格も信長によく似ていた。しかも彼女の名は徳川の徳の字が入り、まさに徳川家の繁栄のために嫁いできた女性だった。

事実徳川家は、徳姫によってすくわれ勢力を増すことができた。徳姫が嫁ぐ以前は、まだ徳川家は三河の全部を統一できずにいた。

吉良家や桜川松平家など対立したり服従せず、中立を保っている国衆や同族が多数存在していたからだ。

織田信長の長女が息子に嫁いできたということで、徳川は織田という力強い後援が同盟という形だけでなく人質という実体として岡崎に入ったのだ。

それは徳川にとって何よりの後ろ楯となり、三河国衆たちの信用に繋がった。家康はそれを最大限に利用して、三河を統一することに成功した。

徳川家が自立できたのも、徳姫のおかげといっても過言ではない。

家康はそれだけでも徳姫に感謝し、足をむけて寝られないほどの大恩ある女性であった。しかも徳姫は、信長の血を子供の中で一番濃く受け継いだ美しく聡明な女性で息子の嫁として勿体ないほどの魅力を兼ね備えていた。

このような素晴らしい愛娘を息子に嫁がせた信長

に深く感謝した。彼女は三河武士にも羨望の眼差しで見られており、それが徳川の権威を強めることにも繋がった。

息子の信康も美しい徳姫にぞっこんで、徳姫の父信長を信康は敬愛するようになった。

信康は行動力に富み感性鋭い信長を真似るようになり、信長が若い頃にしていたようにお気に入りの

近習を引き連れ武芸に励み、実態をこの目でみて回るようになった。

しかし、信康はこの行為によって信長に殺された。最も頼りにし、最も尊敬している嫁の父に。

よって命を断たされた息子、その最愛の息子を殺す決断を下した自分、その息子を愛していた嫁の徳姫とその原因となった徳姫の手紙。

家康は徳姫も信康を愛していたことも知っており、仲むつまじい二人を微笑ましい気持ちで見守ってきた。彼は、そんな徳姫を恨む権利は全くないと自覚はしていた。徳姫には幸せになってもらいたかったが、若くして後家となった徳姫はついに死ぬまで独身を貫いた。多くの戦国大名の娘は、夫が死ねばまた他家に嫁ぐのが当然の時代である。家康ですら次女督姫や孫娘千姫にも再婚させ、母の於大も再婚し、二代将軍秀忠の嫁のお江は再々婚、信長の妹お市の方も再婚と容赦なく政略結婚させられた戦国時代である。

徳姫の行為は、ある意味異常な行為であった。それには、徳姫の父信長や義父家康の特別な配慮がなければできない行為であった。

美しい徳姫には、良縁は幾つもあり選びたい放題だった。再婚は当然で普通の権利だったはずなのに、徳姫が一人で居続けのには訳があった。彼女は彼女なりに、苦しみ続けた筈である。

家康はその彼女の気持ちを尊重し、敢えてなにもしなかった。

しかし、家康は気づいていた。

彼女が、なにに苦しめられているのかを。

それは、あの忌まわしい事件に関連するものだということを分からない家康ではなかった。

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