ターコイズの指輪 💍

上月くるを

第1話 ターコイズの指輪 💍 VOL.1



 夜半にパラパラと屋根を打つ音がしたが、隣家の柿の葉だったのだろうか。

 玄関前の道路には濡れた形跡もなく、都会の住宅街らしく乾ききっている。


 ――父ちゃん、行ってらっしゃい。


 リガルを抱いてシンを見送ったスズは、半開きにしたドアを急いで閉めた。


 よかった、今朝はだれにも見られなかった。(@^^)/~~~

 子どもを学校へ送り出す奥さん連中の、けたたましい笑い声も聞こえなかったし、いつも2階から監視している(笑)らしい老女の窓もまだカーテンが閉まっている。

 

 ドアの施錠をたしかめたスズは、そこまでの朝のルーティンですでに過呼吸発作を起こしそうな自分に呆れ、「困った母ちゃんだね」腕のなかのリガルに語りかけた。


      *


 群馬との県境峠に放置されているところを保護団体にレスキューされたリガルは、いくつかの種が混ざった女子のミックスで、体長30センチ、体重6キロの小さな身体に現世の悲しみを背負いながら、いつも明るく笑っている。犬に笑顔などおかしいと言われても、実際そうなのだから仕方がない。まさに犬の姿をしたエンジェル。💒


 どんな悪魔の仕業か、背骨がズタズタに砕かれていて、下半身に感覚がないので、家のなかでは前足2本で移動し、筋トレを兼ねた散歩には専用の車いすで出かける。


 もの珍しいのかジロジロ見られたり、ときには心ない言葉を投げつけられることもあるが、ひどく腹を立てて無言で足を速めるのは父ちゃんと母ちゃんだけで、リガル本人(犬)は、どんなときも、だれに対しても、朗らかな笑顔を惜しもうとしない。そんなリガルが健気で、夫婦は車いすごと抱き上げてやらずにいられないのだった。



      ****



 いまどきの専業主婦は肩身が狭い。

 子どもがいなければ、ことさらに。


 共働きが当たり前のマジョリティから、暗黙裡に半人前扱いされている。

 屈辱に反駁はんばくできない悔しさに偲び泣いた時代は過去のものになっていた。


 無神経な言葉や、棘を含む、好奇心に富んだ視線を浴びせられたくない。

 そのための自衛策として家に籠もるようになって相当の時間が経過した。



     ****


 

 当たり前だが、そんなスズにも人並みに大志を抱いた青春時代があった……。🏫


 僭越ながら、社会的弱者(皮肉にも、いまの自分がまさにその立場にある💦)を救いたいと法の道を志し、寝食を忘れた猛勉強で難関の国家資格に合格したものの、さあこれからというときに、何の前触れもなく、思ってもみなかった病を発症した。


 鋭い刃物で突き刺されるような激しい頭痛。

 目がチカチカして、眼窩がんかがキリキリ痛む。

 四六時中の眩暈めまいと嘔吐、咽喉からの出血。

 呼吸法が分からなくなる、過呼吸発作……。


 心配したシンに付き添われ、都内の、いわゆる病院ショッピングを重ねたが、MRIほかの精密検査で異常は見つからず、どこでも「原因不明の偏頭痛」と診断された。


 ようやく巡り合った専門医の説明によると、残念ながら女性患者の場合、ホルモンバランスが安定する閉経期まで完治は見こめず、せいぜいが薬(ほとんど効かない)で症状を抑えながら、騙しだましの時間稼ぎをするしか治療法はないとのこと。😢


 ――人生のもっともいい時期を痛みとの闘いに明け暮れる……残酷ですよね。(';')


 自身も偏頭痛持ちの男性医師は「まあ、あれですけどね、頭脳が繊細で感覚が鋭敏な証しでもあるんですけどね」自嘲気味に付け加えてくれたが、気圧や気温に過敏に反応し、生理前後はとりわけ症状が重くなるスズには、何の慰めにもならなかった。


      *


 こんな状況ではとうてい無理だろう。

 夫婦で話し合って、子どもは諦めた。


 理系の頭脳&温和にして高潔な人格……。

 シンの子を、どれほど欲しかっただろう。

 無念を思うと、いまも錯乱がちになる。💦


 文庫本持参でのひとときを楽しみにしていたカフェから足が遠のいたのも(幼稚園の迎え待ちの若い母親たちの、独身女性や子のいない夫婦への批判に耐えられず)、マイノリティへの配慮のかけらもないテレビを観なくなったのも、「少子高齢化」や「一億総活躍」の呪文が禍々まがまがしい活字で踊る新聞の購読をやめたのも同じ理由で、結果として、一般社会との距離感、疎外感、孤独感は、ますます強まっていった。




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