均衡(二)
指から離れた矢は、シードゥスの頭と同じ高さを保ったまま真っ直ぐに空を切った。
アウロラは自由になった上体を捩って肘を思い切り相手の鳩尾に突く。男が姿勢を崩し苦痛に顔を歪めたところへ追い討ちで肩に下げていた鞄をぶち当てた。顔を押さえながら男の体が傾ぎかけたと思ったら、今度は駆けつけたシードゥスがその脇腹を蹴り飛ばす。
床に倒れた男に追加の一撃を加えて気絶させると、シードゥスはアウロラの元に駆け戻った。
「姫様、大丈夫ですか!?」
へたり込んだアウロラは、ややぼうっとしながらもすぐに脇の壁を見上げた。自分の頭よりぎりぎり高い位置に一本の矢が刺さっている。
「——大丈夫、ありがとう。見事ね、ロスも褒めるわよ」
「いえ、
「助かったのだから同じよ。本当にありがとう」
差し出された手を借りて立ち上がると、足元にひと束ほどの茶の髪の毛がはらはらと落ちた。その周りの床にも幾らか同じ色の髪が落ちているのに気がつく。シードゥスが床からアウロラの方へ顔を上げると、一つに結んだアウロラの綺麗な長い髪が、結び目から半分ほどの位置で一部、短くなっている。男の短剣が髪を持つのと同じ手にあったため、身を振り放した時に切られたのだろう。
「あ……すみません、狙うとしたら奴の手の位置しか思いつかなくて」
もとより殺す気はなかった。ただアウロラを安全に解放するのなら、アウロラの首を絞めている腕ではなく頭上しかないと思ったのだ。
「別に髪なんてすぐ伸びるからいいわよ。それに」
シードゥスが実にすまない気持ちでしょげているのとは逆に、アウロラはさっぱりと言って床に落ちた短剣を拾い上げる。そして結び目を緩めて髪束をぐっと掴むと、それを不揃いになった位置でばっさり切った。
「しばらくこのくらい短くしておいた方が、シードゥスの目にも毒じゃないわよね?」
切り離された髪の毛と短剣が床に投げ捨てられる。シードゥスが唖然として固まったのに対し、アウロラは髪を払ってにっこりと笑った。そしてすぐに真顔に戻り扉の前へ進むと、右の耳飾りを外して白木に頭を下げる。
「シレア国第二子第一王女アウロラ、シレアをお守りくださる精霊にお赦しを願います。国の一大事です。慣例に背く責を負い、この命に代えても必ず国を護ると約束します」
鐘の
扉が完全に止まるのを待って、アウロラは自分の鞄の中から短剣を取り出した。鞘をずらして刀身を少し出して刃の状態を確かめ、シャキンと音を立ててしまう。
「もう少しできっとシューザリーンから後援が来るから、シードゥスはここで待っていて」
「え、そんな姫様、俺も行きます」
「駄目よ、この人たちまた起きちゃうかもしれないでしょう。動けないようにしておいてもらわないと」
「でも一人でなんてそんな」
当然二人で行くと思っていたシードゥスは、困惑して踵を返したアウロラに続こうとした。しかし後を追おうと足を踏み出した瞬間にアウロラが勢いよく振り返り、目を釣り上げてシードゥスに迫る。
「分からない人ね、この中は何が起こってもおかしくないのよ」
「だから俺も一緒に」
「黙りなさい! 貴方に何かあったらスピカはどうするって言うの!」
アウロラの喝は室内の空気を震撼させ壁に木霊し、痛みを覚えた鼓膜に残響がへばりつく。何秒かののちようやくまた元の沈黙が戻っても、アウロラはまだ黙ったままシードゥスの眼をじっと見つめ、それから肩を落として嘆息した。
「私は平気よ。中にはお兄様もロスも入っているから」
先程の剣幕はもはや消え失せ打って変わって穏やかに微笑み、ちょっと考える素振りを見せてから、アウロラは扉を開けた耳飾りをシードゥスの眼前に突き出した。
「これを預けるわ」
「姫様」
「シューザリーンの人達が来て、満月が沈んでも何も起こらなかったら、皆と一緒に来て」
耳飾りの留め具の下で、碧の石と珊瑚色の粒が妙なる輝きを放って見る者の目を釘付けにする。それがふっと視界から消え、次の時にはシードゥスの手の内に二色の宝玉が握らされていた。
「それから」
シードゥスの指を折らせて耳飾りをしっかり収めてから、アウロラは持っていた鞄を押し付ける。
「これも邪魔だから持っていて」
「え、あの」
「だーいじょうぶよ、絶対戻るから。その中、まだ私の分の料理長のおやつ、残ってるんだからね。食べたら承知しないわよ」
芝居がかって鞄を指差すと、アウロラは再びくるりと背中を見せて一歩踏み出した。しかしふと、「そうだ」と首だけ振り向く。
「さっきのは、千年の恋も冷めないくらいかっこ良かったと思うわよ」
アウロラは紅葉の瞳を光らせ、流し目を送ってにやりと笑う。ところがすぐにその表情は消え、「それじゃシードゥス」、といつもの明るい笑顔になった。
「あとよろしく」
元気よく手を振って勢いよく廊下へ駆け出す。ぱたぱたと軽い足音が薄暗い空間の向こうへ遠のいていき、その響きが聞こえなくなったころ、扉が滑らかに動き出し、再び空間が閉ざされた。
シードゥスは呆然とその場に立ち尽くし、白木の向こうが見えなくなってなおも扉を見つめ続けていた。
皆が無事に戻ってきたとき、アウロラの髪を切らせた自らの身の危険を案じられるほどに彼の理性が正常に戻ったのは、しばらく経ってからのことだった。
——やばい……俺、殺されるかも……
気づいてしまったが最後、賊を前にしても感じなかった怖気がじわじわと全身を侵食していく。
このままでは何もできない。アウロラはともかく、周囲の激怒について今は考えるまい。取り敢えず転がった輩を片付けて忘れることに努めるほかなかった。
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