思い出の味は いたずらと共に

ちょこっと

第1話

 都内勤務。三十五歳、会社員。

 女だてらになんとか出世に喰らい付いて、数少ない女性管理職という立場にいる。


 阿賀野月音あかの つきねは、やっと一区切りついた残業のデスクを片付けて、思わずため息をこぼした。

 デスクには資料の山。一つ一つ引き出しに片付けて、パソコンの電源を落とした。


 低い身長を舐められない為の武器の一つ、高いヒールでオフィスを後にする。


 会社に入って、男性と肩を並べて必死に働こうとして、現実を知ったのはもう十年以上前の事。

 男女雇用機会均等法だの、男女平等だのと耳障りの良い事ばかり世間は口にするが、現実はどうだ?


 現実はこうだ。

 入社して、初めて一人で任された打ち合わせ。客先は同僚男性が、プロジェクトに関わる下請けさんは自分が、任された。

 いつもよりも気合を入れて、身嗜みも完璧。笑顔で小会議室へ入った途端、月音を迎えたのは、巌顔のおじさんが放つ罵声だった。


【なんだ! 俺の相手はこんな若い女一人だと? 女相手に仕事の話が出来るか! 男の上司を呼べ!】


 脳が情報を拒否して、数秒固まった。

 ハッとして、何か言わなければと口を開こうとすれば、更に怒鳴られた。

 何を言おうとしても、言わなくても、とにかく話にならんと追い出され、怒鳴り声が聞こえていた通りがかりの誰かが上司を呼んできた。


 すると、先程までの激高ぶりは何だったのかと言わんばかり。如何にも人当たりの良さそうな、仕事の出来る親父といった調子で、上司とあっさり話を済ませて帰って行った。


 最後の最後まで、月音を見る事は無く。上司が、チラリと失望の目で通り過ぎたのを、今でもよく覚えている。


 あれから、がむしゃらに働いて、プライベートは0。馬鹿みたいに残業して、残業して、仕事して寝るだけの日々。

 晩御飯はいつだってインスタントやカップ麺だ。買って帰るのもしんどくて、箱買いして置いてある。


 電気が殆ど消えて、暗い会社を出ると、終電間際のオフィス街は静かなものだ。

 少し歩いて駅に近い大通りまでくると、一気に明るく騒々しくなる。夜の駅前はいつだって若者が行き交っていた。


 さんざん遊んだ帰りの者、これから夜遊びに行く者、終電で帰ろうか近くの友人宅へ泊まろうかと話している者、もう終電も終わりに近いのに所在無さげにぶらついている者。

 色々だ。

 一人一人にドラマを感じられる、都会はいつだって何かで溢れているように、月音には思えた。


 そんな彼らを横目に改札を過ぎて、終電のシートへ体を預ける。座席がほんのりと暖かくて寝てしまいそうになるが、ダメだ。

 窓に頭をこつんともたれさせて、流れる電線と灯りを眺める。


 つかれたなぁ。


 そう、疲れたのだ。

 希望に満ちていた入社時、社会人一年生。思いっきり現実に打ん殴られて、鼻血ぶちまけながらノックアウトされた心。それでも、くやしさをバネになんとかここまで這い上がって来た。


 だけど、この頃、少し疲れてきた。

 気付けば、学生時代の友人たちはみな母親になっていた。

 進学や就職で上京した子達は、それでも三十代まで結婚しなかった子が殆どだ。それが三十五にもなれば、気付けば自分だけ。地元で就職した子達は二十代で結婚も出産も迎えていた。

 月音はなんとはなしに胸中で呟いた。


 ああ、都会の灯りは綺麗だなぁ。綺麗だけど、ひとりぼっちを突き付けられるなぁ。あの灯りにいる人達は、みんな大切な誰かと一緒に居るのかなぁ。


 車窓を過ぎていく街灯りに、暖かな家庭を想像してしまう。勿論、みんながみんな、そんな訳はない。むしろ月音と同じような一人暮らしの方が、今は多いだろう。


 けれど、家の灯りに、暖かな家族を感じて心寂しさが増した。


 電車が駅について、月音はヒールで痛む足を動かした。冷たい夜風が突き刺さる。


 ああ、もうすぐ年末、年越しだ。

 そう言えば、今年こそ帰ってこないかと、母親からメールが来ていた。


 いつも、仕事仕事で年末年始にすら帰省しない娘なのに、母親だけは見捨てもせずに必ず毎年聞いてくる。

 もう、友人たちさえ、ろくにメールもしてこなくなったのに。いや、彼女たちは今、必死に子育てしているから、余裕がないだけだ。経験していない月音には想像もつかない苦労があるんだろう。自分には、到底母親なんて無理だとしか思えない。


 カツンカツンと、静かな住宅街にヒールの音が響いて、夜に吸い込まれていった。


 一人暮らし用のワンルームマンションへ着くと、荷物を玄関にバサッと置き捨てる。コートとスーツだけ、皺にならないようにハンガーにかけて、手洗いうがい。

 それだけすると、ワイシャツの下にキャミソールとパンツとストッキングという、珍妙で恥も外聞も無い恰好で、炬燵へ潜り込んだ。

 スイッチを入れて、赤子のように丸くなる。炬燵の温もりが、月音を優しく包んだ。


 温まって来た体を、炬燵で伸ばす。ゴロンと天井を仰いで、月音は考えていた。


 今年は、正月実家に帰ろうか。いや、でもやっぱり仕事。みんなが休んでる時にこそ差をつけていかないと。

 地元のみんな、どうしてるかな。いや、みんな小さい子どもが居て、お正月の家族団らんで忙しいかな。義実家への挨拶とかもしてるんだろうなぁ。すごいなぁ。ちゃんとしてるなぁ。


 月音だって、社会人として頑張っているのに、どうしても母親をしている友人たちに引け目を感じてしまう。

 心の底では、自分も家族を持ちたいと望んでいるのかもしれない。ただ、そのあまりのハードルの高さに、今の自分の生活とのかけ離れた世界に、恐れおののいて尻込みしてしまっているのかもしれない。


 体が温まってきた月音は、もぞもぞ炬燵から這い出て、スマホを取るとまた炬燵へ戻った。

 母親からのメールが来ている。開いてみれば、荷物を送ったという事と、今年はもう無理して帰ろうとしなくていいから、少しでものんびり体を休めてねと、月音の体調を気遣う内容だった。


 ギュッと、スマホを握る手に力がこもる。

 今まで、どんな時でも帰省を待ち望んでいる内容だったのに。

 もう三十代も折り返し、母親からも、気を遣った物言いをされる年になったという事なのか。なんだか泣けてきそうだ。


 ぬぎっぱなしの部屋着を着て部屋を出ると、郵便受けの不在票を手にして宅配ボックスを開ける。

 小さめの段ボール、思ったよりも軽いそれを手にして、部屋へ戻る。

 玄関で開けると、中身は母の手編み腹巻、地元大分の銘菓ざびえると瑠異沙の詰め合わせ、それに赤いきつね(西)が入っていた。


 赤いきつね、実は東西で味が違う。ずっと大分の味に慣れていた私は、上京したての頃、カップ麺なのに地域で味が違うのかと驚いた。

 子どもの頃から馴染んだ味は、疲れた体に染み渡る。


 早速、赤いきつねにポットのお湯を注ぐ。


 炬燵に置いて、待つこと暫し。

 待ちながら、ふと、子どもの頃の悪戯を思い出していた。


 あれは、年越しで親戚の子達が集まった時の事。


 両親は年越しの親戚揃って宴会で忙しく、子どもは子どもで集まって自由にしていた。


 年越しはやっぱ蕎麦だろうと、緑のたぬき派の子達。

 年越しは好きなように食べたいと、赤いきつね派の子達。


 どっちも美味しいんだから、どっちも好きな方を食べればいいのに。人が食べる物にケチつけようだなんて、みんな心に余裕がないのね。

 なんて、子どもらしくない事を思っていた私。

 みんなが段ボールにいっぱい入っている赤と緑を前に、宴会している大部屋の隣で子ども達もわいわいやっていた。


 田舎の家は広い。

 大部屋の隣の小部屋とはいえ、畳十畳はあった。真ん中に低い木の机があって、叔母さんがポットとお箸を盆に乗せてくれている。部屋の隅にはカップ麺の段ボール。

 小中学生たちなら、これでもう好きなように食べていいと置かれていたのだ。


 みんながどっちを食べるかわいわいやっている間に、私は兄と悪戯しかけてみる事にした。

 みんなの人数分、と言っても私と兄を入れて七人分、赤と緑のカップを開ける。

 お湯を注いで机に置いて、箸を並べて従兄妹たちに声をかけた。

 ジャンケンして勝った方のカップ麺を食べようとか、いや何回勝負だとか、こっちを見もしていなかった従兄妹たちは、人数分の箸で押さえられたそれぞれの蓋を見て、もういいやって食べにきた。


 もうお湯入れちゃったもんね。

 お湯入れちゃったなら、食べるしかないよ、うん。

 ぐだぐだいってると、麺がぐだぐだにのびちゃうもんね。


 蓋を開けて、みんなアッて声を上げた。

 だって、蓋の中身は赤と緑があべこべ逆だったから。


 お湯を入れる時に、カップの蓋だけ取り換えたんだ。

 みんなジャンケンと話すのに夢中で、カップの色と蓋が違うのに気付かなかった。まだ子どもだったしね。大人の今ならすぐ気付いたかも。


 それで、蓋を開けたら、ふわって美味しい匂いが立ち上るよね。

 みんな、わいわい騒いでお腹が空いてるところに、美味しい匂いがふわっときたら、どうする?

 食べるよね。だって、赤も緑もみんな好きなんだもん。

 ただ、大人が年越しは蕎麦だって、なんかそう言ってるから真似してみようとしてただけな所あったよね。


 一つだけ、端数で蓋を入れ替えて無いのがあったんだけど、それを引いた人はアタリ~ってなもんで、みんなでわいわいカップ麺食べたっけ。

 懐かしいな。


 そんな想い出に浸っていたら、いつの間にか五分たっていた。

 私は、炬燵で一人、カップの蓋を開けた。


 ふわっと、あの頃と同じ美味しい匂いが立ち上る。


 子どもの頃、田舎でみんなで集まって、畳みの大きな部屋でわいわい転げまわって遊んでた日々。


 あの頃と同じ、美味しい幸せに包まれて、今年の年末は実家へ帰ってみようかなと思った。

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