ガラクタ

藤村ミライ

ガラクタ

 教室には、一人の男子生徒がいた。

 昼下がりの教室は暖かかった。窓から差し込む陽光が、鈍く反射して教室全体を淡い光で包む光景はなんとも夢心地であった。開いた窓からは風が入ってくる。さほど強くない、優しい風だ。

 男子生徒の名前はハトと言う。ハトは問題集とノートを広げるだけで、何も手を付けていなかった。考え事をしていた。問題を解くか、解かずに問題集を閉じるか。いわゆる「葛藤」というやつである。

 ハトはぼうっと机上を見ていた。ノートはまだしも、問題集は厚さがある分、威厳があるように見えた。しかし、物が乱雑に置かれた机はどこか殺伐としていて、あまり好きじゃない。

 ハトの目元にはクマがあった。テストを控えているから、ずっと徹夜で勉強していたのだ。

 勉強は苦手だった。どんなにやっても全くうまくいかなかった。いつも平均点以下だ。そんなハトに両親は苛立った。そのたびに、ハトは「次は頑張る」と謝った。

 だからなんだという話でもない。

 今、ハトの前には問題集とノートがただ広がるだけ広がっていた。問題集には数式が書かれていた。ただ眺めているだけだから、どんなものを書いているのかよく分からない。2とかxとか見えるけど、果たしてこれはどのくらいの価値を持つのだろう。よく分からない。でも、やらなくちゃ。「次は頑張る」と言ったのは自分だから。そう、言ってしまったから。

 シャーペンを取った。ノートを書きやすいところに動かして、問題に目を落とす。読んでみると、数式は二次関数だった。全く意味の分からない問題だった。放物線が一体なんだと言うのだろう。ハトはため息をついて、シャーペンをくるりと回した。

 その時だった。

 風が吹いた。強い風だ。問題集もノートも紙がぴしりと立って、たちまちページがめくられていく。ノートは少し浮いて、教室の床に音をたてて落ちた。ハトは、スローモーションのようなそれを黙って見つめていた。

 今、心の内に、なにかが弾けた気がした。

 ノートが落ちた床に、光が忍び寄っているのに気がついた。光はベランダの方から来ているらしい。それから初めて、ハトは教室を見渡した。

 教室は電気がついていなかった。しかし明るかった。陽の光が反射してるからだ。蛍光灯の明るさとは違う、どこか神秘的な美しさを持つ光だ。

 ハトは、ノートを拾う。そして、なんとなく一番近い窓から外の景色を眺めた。

 グラウンドの向こうには、住宅が立ち並んでいる。住宅の向こうには、港が見える。港の向こうには、きっと海があるんだろう。ここが3階だからか、建物は皆少し小さく見えた。不思議と空が広く見えるのは、快晴だからだろうか。

 外は眩しかった。光は平等に降り注いで、確かに熱を持っている。風は颯爽と抜けて、光と混じって動き続けている。世界は広いのだと、漠然とそう感じた。

 再び、清廉な風が吹いてハトのうなじをすり抜けたとき、ハトは鼓動を感じた。

(…そうだ。さっきの)

 さっきの、ノートが落ちて床に叩きつけられた時の、あの感覚を。

(もう一回)

 ハトは笑った。

 初めてとも言える衝動が湧き上がっていた。無意識に口角を上げていた。それ以外のことは、もう考えられなかった。

 ハトは、机上の問題集をグシャリと掴んだ。紙が折れるなんて気にしなかった。破れてもいいとさえ思っていた。シャーペンも、筆箱に入れてチャックも閉めずに一緒に掴んだ。すると、机の上はきれいになった。

 ベランダに出る。陽光が暖かかった。ハトは、降り注ぐ光を感じながら、ゆっくりとベランダから下を覗き込んだ。花壇があった。何も植えられていない、茶色いだけの花壇だった。

 鼓動が鳴っていた。なぜかは分からない。しかし、その音は確かにハトを高揚させ、その腕をぱっと空中に押し出した。

 3つの影が、空中に放り出された。ハトは、それらをじっと見つめた。

 筆箱は中身をばら撒いた。問題集とノートはランダムにページを開く。そして、どれも等しく自由落下を始める。全てがスローモーションに見えた。筆箱から出た蛍光ペンは、相変わらず毒々しい色で、使い古した問題集とノートは薄汚れている。

 しかし、陽光は平等に降り注いでいる。空中に浮いた、混沌とした色合いですら鮮やかに飾り立てる。毒々しい蛍光色は、浄化されたようにどこか可愛らしい色になった。薄汚れた問題集とノートも、光が当たればその影を潜めた。

 陽光が僕らをきれいにしているんだ。ハトは、そう信じて疑わなかった。

 そしてハトは、それらがやがて下の花壇まで落ちていく様子をずっと見つめていた。その表情は、どこか恍惚とした笑みを浮かべていた。殺風景な花壇に散らばる、ガラクタみたいな影。

 彼らは、とても正常な姿に見えたのだ。

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