ホットケーキ

伊野尾ちもず

ホットケーキ

 それは、まんまるのホットケーキみたいな月が僕らを見下ろしていた夜のことだった。

「K君さぁ、ホットケーキに何かける派?」

「なんだい、藪から棒に?」

「ふと、気になってさぁ」

 Qちゃんはそう言ってガラスの向こうの雨に濡れて黒い街を見やった。

「バターかな。Qちゃんは?」

 答えて聞き返す。大体これで話は繋がるものだが、Qちゃんは「バターか……マーガリンは?ショートニングは?」と一人でぶつぶつ言い始めてしまった。

 Qちゃんがそう言う人なのはずっと前から知っている。自分が興味関心を持った事をいきなり質問する癖に、肝心なことは何も教えてくれない。そして、相手の答えの部分しか聞かず会話にならない。僕がなんでバターが良いと答えたのか聞かないし、自分は何が好きなのかも言わない。ホットケーキに蜂蜜をかけたがる人が多い気がする理由についてだって聞いてくれない。

 たっぷりQちゃんは時間を使って自分の頭で考えた。結露していたドリンクから水滴が全て落ちてしまうほどの時間だった。

「えっとさ……あのね。もし、もしもだよ」

「うん」

「私が今ここで死んじゃったら、どう思う?」

 突拍子もない質問だと思った。僕は思わず笑ってしまった。

「なんだよそれ。変な冗談やめてよ」

「本当だよ!真剣!」

 声を荒げつつも冷静なQちゃんの顔を見て、今は本当のQちゃんだと理解した。Qちゃんはこんな顔をしながらふざけたりしない。いつも笑っていても目が笑っていないのだ。その証拠に僕の目は彼女の表情を捉えているのに、頭では彼女がどんな顔をしているかを認識できていなかった。

 だから「悲しいと思うけど……」と答えた僕に「そっかぁ」と言ったQちゃんの言葉もどこか遠く感じた。

「じゃあさ、私が死んだ時のために、一つお願いがあるんだけど」

「……内容による」

「大丈夫、簡単なことだよ」

 Qちゃんは微笑んだまま言った。

 僕はQちゃんのお願いを聞いて、できればやりたくないと思った。


* * *


 それから少ししてQちゃんは死んだ。病気や事故じゃない。自分がこの世界に必要とされていないことを自覚して消えたんだ。

 Qちゃんがいない毎日は僕にとって気の抜けた炭酸飲料みたいなものだ。飲めないわけでもないが、あまりに味気ない。ガラスの向こうの街は今日も黒く濡れていた。

「K君、ホットケーキにはバターなんだよね」

 そのQちゃんの声に僕は現実に引き戻された。部屋の中には温かいホットケーキの香りが充満している。

「あ、うん。いちごジャムがあるともっと良いよね」

「ジャム、ジャム……あ、いっけなーい!買ってくるの忘れてた!えっとぉ今から買いに行ったらえーっとぉ……」

「いいよ、Qちゃん。後で僕が買いに行っておくから」

「えー?K君にそんなにさせちゃ悪いなぁ……」

 Qちゃんの目には照れにも見える逡巡が浮かんでいた。

「買いに行っていたらホットケーキ冷めちゃうよ?ジャムはなくても良いし」

「うーん、K君が言うなら!」

 にこりと笑ったQちゃんはバターと蜂蜜だけホットケーキにかけると、食卓に運んできた。

「いっただーきまーす!」

「いただきます」

 ホットケーキを口に運びつつ、チラリとQちゃんを見ると一人できゃいきゃい言いながらパクついていた。奇妙な質問なんてしないし、一人でぶつぶつ言って考え込む事もない。ホットケーキが冷めて元気をなくす頃合いになるまで放っとく事なんてしないQちゃん。

 僕は戻しそうになるホットケーキを無理やり飲み込んだ。

 前のQちゃんは、この都市型シェルターの中では異端児だった。大人の話を聞いて自分なりの意見を作り出し、規則と呼ばれるものにことごとく何故を問い続けた。

 疑問を持つ事は悪くなかった。だけれども、Qちゃんの疑問は派閥を作るような分裂の色が強かったので睨まれる事になったのだ。降り続く黒い雨を止める方法や物理法則にでも疑問を持っていれば放っておかれたはずだった。

 Qちゃんは様々な検査や矯正を受ける中で数度“精神処置”をされ、複数の人格を生み出したがQちゃん自身の意識も思想も消える事は無かった。それらの人格たちは変わる変わるQちゃんの身体を予告なしで借りていったし、Qちゃん自身もコントロールできていなかったので、周りの大人達は常に混乱していた。

 本当のQちゃんは誰なのか大人たちは必死で分析して答えを見つけたけど、僕にはすぐにわかった。笑顔を貼り付けて冷静な思考をするなんて芸当は本当のQちゃんにしかできないからだ。僕が見抜いた事に本当のQちゃんも直ぐに気がついたからなのか、一緒にいる時の3割くらいは本当のQちゃんだった。

 まぁそんな事は大人たちには関係が無かった。優良な市民にならないなら、無理やりにでも思考を変えるしかない。子供は宝物なので、何があっても死なせてはいけないからだ。

 「今ここで死んだら」とQちゃんが言った翌週、彼女には外科的で不可逆な精神処置が施された。その処置によって彼女は消えた。もしくは、この世界に愛想を尽かして出て行ったのかもしれない。兎も角、考え深くて風変わりなあの子は消されて、代わりに無害でお人好しで少し軽薄な感じの性格だけが残されたのだった。

 Qちゃんが最後に僕に託した願い。それは「本物になった仮面を愛してほしい」だった。彼女が言うには「器が同じだから簡単だよ。そのうち慣れるからさぁ」との事だったが、事はそう単純では無い。

 僕は人の話を聞かないQちゃんが好きだったし、振り回されるのだって嫌ではなかった。Qちゃんを全部理解していた自信はないけど、いつだって受け皿でいたかった。決してQちゃんの見た目だけを好きになった覚えはない。

「私の人格が消えた時、明け渡す人格の子がちょっと抜けてる子でさ。K君になら預けられるなって思って」

 明るく言うのにQちゃんの声はどこか挑戦的で。そんな言われ方したら僕が後に引けないのを知っている狡い言い方だった。

「死は眠りみたいなものだって言う人も居るから、長く一緒にいてくれたら、また表に出てこられるかもしれないね」

 希望を持たせる言い訳をしたQちゃんの目は笑っていなかった。そんな奇跡を微塵も信じていないのは僕もQちゃんも同じだった。でも僕はQちゃんに騙されたフリをした。QちゃんにはQちゃんでいて欲しかったけれど、これまでどれだけの重荷を背負って彼女が必死で生きていたかを知っているから、最期の外科手術の前に一つでも安心させたかったんだ。Qちゃんの味方であると証明するにはこれしかないように思えたんだ。

 “精神処置”が終わったQちゃんに会って、僕は改めてあのQちゃんの覚悟を知った。新しいQちゃんは僕がホットケーキにバターを乗せたい人だと知っていた。本当のQちゃんしか知らないはずの事だから、死ぬ前提できちんと記憶を申し送りしてくれたのだろう。

 しっかり申し送りされた所為で、今のQちゃんも僕の幼少期のことを知っている。まだあの時Qちゃんの心は分裂していなかったはずなのに。気がついた時少し寒気がした。でも、Qちゃんの最期の願いを聞いたからには無視も出来なかった。

 そんな訳で、今僕は好きになって良いのかわからない女の彼氏役を演じている。幸い、今のQちゃんは気が付いていない。多分。

 甘ったるい今のQちゃんに戸惑いながら「K君、ホットケーキはふわふわとしっかりどっち派?」と聞いて考え始めるQちゃんを、今日も僕は待っている。





 

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ホットケーキ 伊野尾ちもず @chimozu_novel

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