終章.赤い鞘(2)

     ***


 城が敵の手に落ちるのも、最早時間の問題であろう。

 泰四郎は敵兵の眼を掻い潜り、戦と火災の混乱に紛れて城の程近くまで辿り着く。

 体力はまだ充分にあったが、右肩の傷が疼いた。

 満足な手当も出来ぬまま放っておいたせいか、塞がりかけた傷口は熱を持ち、解けかかった晒しにまたぞろ赤いものが滲んでいる。

 泰四郎は城を目前にして足を止め、数歩先に見えた学館の裏門へ滑り込んだ。

 学館の敷地内は静かで、人気もない。どうやらここはまだ、敵の手も火の手も及んでいないようだった。

 勿論、駆け抜けてきた城下の様子を思えば、ここもすぐに危うくなるのは必至だろうが。

 そうなる前に、緩んだ晒しを巻き直しておかねばなるまい。

「ちくしょう、腕が上がらん」

 学館を囲む塀と学舎の間に潜り、泰四郎は学舎の壁を背にして座り込む。

 上ノ内での戦闘から抜きっぱなしの刀を傍らに置き、手早く晒しをきつく絞り上げた。

 傷口が擦れ、炎症を起こして膿んだ内部の疼痛が鋭くなる。

 ずくずくと脈打つような痛みは、まるで肩に心臓があるかのような錯覚を呼ぶ。

 額に滲む汗は、緊張と疲労のせいばかりではない。肩の痛みから来る脂汗だ。

 塀の中にまで吹き込む風は、家々を焦がした匂いを泰四郎の鼻先に運んでくる。

 胸の悪くなる匂いだ。

 じきにこの学館も焼けてしまうだろうか。

 痛みで霞む視界の隅に、ふと見慣れた雪隠が見えた。

 敷地の少し奥まった場所にあるその雪隠は、学館に通っていた時分、余りに泰四郎を追いかけ回す悦蔵が、来るなと言うのにとうとうついてきてしまった場所でもある。

 今は昔のことになるが、その光景は今も――いや、今だからこそ、鮮明に思い出せる。

「馬鹿な奴だ、俺も、おまえも――」

 疼痛は激痛へと変わり、敵兵ももうすぐそこまで迫っているというのに、泰四郎は初めて、自分が不思議と穏やかな笑みを浮かべていることに気が付いた。

 笑顔は難しい。そう思っていたのに。

 よりによってこんな時に、それも悦蔵を思って笑顔を浮かべるとは。

 常に付き纏ってくる悦蔵を疎ましいと思っていたはずなのに。

 その飛躍的な進歩に、何時しか自らを追い落とすのではないかと恐れさえもした。

 同じ小野派一刀流の門人の中でも、泰四郎に並び立つに足る、唯一の人物が悦蔵だったのだ。

 体躯に優れ、剣術の腕も立つ。泰四郎は、自分というものに少なからず自信を持っていた。

 元々多少の頑固さ故に、周囲から距離を置かれていたことは自らも認めざるを得ない。

 そこに自尊の念が重なり、更に近付き難い雰囲気を纏っていたことも、今となっては自覚している。

 悦蔵とは違い、社交性にやや欠けているのもまた事実だったろう。

 泰四郎に足りないものは、悦蔵が持っていた。

 その悦蔵に慕われるのが嬉しくもあり、だがそれによって自らの弱点を見せ付けられているようで、酷く苛立ちもした。

 寧ろ、近頃では心穏やかでいられないことのほうが多かった。

 だが――。

 だからこそ、己もまた自らを磨き上げることに躍起になれたのではなかったか。

 悦蔵という、自らを追い上げてくる存在があったからこそ、己はここまで到達することが出来たのではないのか。

 到達出来た最後の場所が、結局は悦蔵と横並びの地点であったとしても。

 悦蔵がいる限り、更に高みへと登って行けた。

 前へ進むことをやめれば、必然的に悦蔵に追い付かれる。

 だから一足も二足も早く先へと進み、後から追いかけてくる悦蔵を引き離そうと努力した。

 追い付かれるのは癪だった。

 追い抜かれることは、もっと屈辱だった。

 引き離して、自分自身が安堵していたいだけだったのかもしれない。

 我ながら、嫌な奴だと思う。

 矜持を守ることで精一杯になっていた自分を、悦蔵がどんな思いで追いかけたか。今となっては、泰四郎にそれを知る術はない。

 上ノ内で、悦蔵と共に決死の覚悟で斬り込んだ。

 あの時はもう城下へは戻れないだろうと覚悟を決めもした。

 なのに、悦蔵が死に、自分だけが城下へと帰って来た。

 いや、帰ってきたと言えるのだろうか。

 この地で共に生き、共に学び、互いに追い、追い掛けた。

 その悦蔵がいない城下は、最早泰四郎の知る城下ではない。

 悦蔵がいた城下を踏み荒らす官賊どもを、斬れるだけ斬りつけてやろう。

 疲労と傷による熱のせいか、視界ばかりか思考までぼんやりと翳んでくる。

 ――な、泰四郎! 俺と泰四郎とどっちが多く敵を斬れるか、競ってみないか?

 ――泰四郎の後を追いかけるのは、もうやめだ。今度は追い抜いてやる

 出陣前に言っていた悦蔵の声が蘇る。

 今悦蔵が目の前にいたなら、愛想のない自分はまた懲りもせず虚勢を張ってみせるのだろう。

 武士としての最期は、とうとう悦蔵に先を越されてしまった。

 だが。

「まだ、終わっていない、よな」

 ――やっぱ泰四郎は強ぇなぁ

 もう、そう言って人懐こく笑う悦蔵の顔を今生で見ることは叶わない。

「今度は、俺があいつを追いかけてみるのも、悪くないか」

 無駄に死ぬつもりはない。

 悦蔵に追いつくのは、今生のこの戦で、出来うる限りの敵を斬り伏せてからだ。

 左手に握った大刀を括りつけるように腰布できつく縛りつけ、泰四郎は意を決して立ち上がった。

 そうして、黒煙と銃声の飛び交う戦場のただ中へ、駆けて行ったのだった。


     ***


「よし、今日の稽古はここまでだ!」

 低く覇気の強い声が小さな道場に響いた。

 まだあどけない気合の声と、竹刀を打ち合う音とがぴたりと止む。

 と同時に、少年たちは一斉に「ありがとうございました」と声を張った。

 その直後に稽古の後片付けに移る少年たちの顔は明るい。

 これからどこで遊ぼうか、などとはしゃぐ少年たちは、稽古を終えても尚、元気があり余っているようだった。

 その様子を一頻り眺め、泰四郎はふと笑みをこぼした。

 少年たちの声に混じって、やや弱まった蝉の声が届き、格子窓からは鰯雲の浮き始めた蒼天が覗く。

 今年もまた、夏が終わろうとしていた。

 まだ強い、しかし穏やかになりつつある陽射しの下へ、誘われるように表へと出る。

 高く、蒼く、どこまでも澄んだ空を仰ぐと、泰四郎は俄かに右肩の古傷が疼くのを感じた。

 ぐるりと右の肩を回し、息を吐く。

 あの日、上ノ内で負った傷だ。

 戊辰の戦禍をくぐり抜け、泰四郎はその後、瀬川村へと移り住んだ。二本松の城下からも、上ノ内からも、そう遠く離れてはいない山村である。

 二本松の城下に残ろうという気にはなれなかったし、いっそ名をも変えてしまおうかとも考えた。

 二本松の旧家中には、戦後に敗戦を恥じて名を変えた者も決して少なくはない。

 だが、改名が念頭に浮かんだものの、それも一瞬で掻き消えた。

 名を変えてしまうことは容易い。

 だがそれは、それまで「泰四郎」と呼ばれて生きてきた自分の何もかもを捨て去ってしまうことと同義なのではないかと思ったのだ。

 家族を除けば、その名を最も多く呼んでくれたのは誰であったか。

 今更、彼の知らぬ名を名乗ろうという気には、どうしてもなれなかった。

 失くした鞘も、あれきりどこかへ行ってしまった。

 当時は不本意だったものだが、あれが唯一、悦蔵と自分を繋ぐ物であったのに。

 結局、こうして生き恥を晒すことになった。

 もしも今の自分を悦蔵が見たなら、何と言うだろう――。

 あれから幾度、そんな自問を繰り返したか知れない。

 高い高い空の、その西を仰ぎ見て、泰四郎は目を細める。

 かつての死地、上ノ内の方角だ。

 何年経ようと、あの日の激戦の記憶は色褪せない。

 徳川幕府は倒れ、歴史は多くの犠牲を伴って新たな時を刻み始め、時代は明治となった。

 二本松藩は十万余石から五万石へ減封されたが、存続自体は許された。

 落城と共に自尽した、家老・丹羽一学をはじめとする三名の重臣の死をもって、敗戦の責任者とし、それを新政府に認められたのである。

 藩主についてもその責任を問われたのは言うまでもないが、これも、二本松藩軍事総裁を務めた家老座上・丹羽丹波らの働きによって赦されたと聞く。

 焦土と化した城下にも人が戻り、徐々に復興を遂げていったが、生き延びた旧士族の多くは困窮を極めることとなったのである。

 ある者は帰農し、ある者は農地の開墾事業へ携わった。教職や行政職に就く者も多かったが、中には鯉魚の養殖を生業として新たな生活を送る者もいた。

 泰四郎や悦蔵を率いた樽井は、人伝に聞くところによれば、その後やはり二本松の地を離れ、小学で教鞭を執っているらしい。

 あの年の戦で、一体何を守れたのだろう。

 身分を失い、友を失い、郷土をも守り切れなかった。

 この身に残されたのは唯一つ、剣術のみだ。

 悔いることも、恥じることも、多分に残る。

 それは恐らく、この先もこの胸中から消え去ることはないだろう。

「父さま! 遊びに行ってきても良いですか!?」

 そんな呼び声と、ぱたぱたと忙しなく駆け寄る小さな足音が背後に聞こえ、泰四郎は声を辿って振り返る。

 知らずと物思いに耽ってしまっていたことに気付き、泰四郎は苦笑した。

「ああ、すまん。なんだ?」

「みんなが虫捕りに行くというのです、一緒に行っても良いでしょう?」

 泰四郎を見上げて、わくわくと楽しそうに尋ねる笑顔に、ほんのわずか、はっと息を飲んだ。

 自分によく似ているはずの息子が、幼少時分の悦蔵の笑顔と重なって見えた気がしたのだ。

「? 父さま? どうかしたのですか」

「いや、何でもない。そうだな、行ってくると良い」

 その表情につられて、泰四郎は思わず笑った。

 泰四郎が許可すると、無邪気に笑って礼を言い、飛び跳ねるような足取りで駆け出していく息子。

 その背を目で追って、泰四郎はまた小さく笑い、独りごちた。

「俺も、少しはおまえに近付けただろうか」

 ――なあ、悦蔵。

 初秋の風は、そう呟いた泰四郎の声を攫って蒼穹へと吹き抜けていった。


     ***


 戦後、薩摩第四番川村与十郎隊に属していた日高壮之丞は、後に上之内での戦いについて語り残している。

「頃は夜の将に明けんとする時なりき。直ちに不意打をなせば、二本松勢は殆ど全滅せり。然し二本松勢も可なり強かりき、殊に年二十二、三許りにして赤鞘の大小を帯びたるが最も勇戦せり。そは何人なりしか――」と。

 そしてこの談話を切っ掛けに、それが青山泰四郎と和田悦蔵であると判明する。

 戦後長らく語られることなく、誰に知られることもなかった勇士の姿は、奇しくも敵方であった日高の回顧談話によって今に伝えられることとなった。

 青山泰四郎、和田悦蔵両氏の名は、現在も彼らの郷里・二本松で「赤鞘の二壮士」と称され、その壮烈にして勇敢な奮戦を讃えられている。

 泰四郎が戦場で失くした鞘は、その後長い時を経て、白河へと移住していた泰四郎の兄・平八の子孫の元へと返されたという。

 しかし、泰四郎自身が再び赤い鞘との再会を果たしたかどうかは、定かではない。

 

 

【了】

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