後篇

「高校生のお客様とは珍しい、北高かい」

「北です」

「いやなんだ、前はここの通りにそこの制服の子供たちよく通ってたからさ」

「暇だったので、とにかく」


 男子高校生がひとりで占いの店のドアを開けたその理由には、家にいても窮屈だったから外へ、と続くはずだったが、やめた。結局休学を選択して家にいる姉と、母親との口喧嘩にも興味なく、本当は中学生の時から非正規雇用なんだと知っている父親が居間で檸檬堂を飲む場に同席して付き合わされるのも嫌で外へ出た。

 ようやく休業申請の撤回された五月の中旬、しかし学校は六月まで休校中だった。

 時間を潰せそうな場所。人の混んでいそうなところは避けたい。父親が入院費を払えるとも思えない。なると駅前はだめだし、近所の古本屋もあまり冷やかすと小言を言われる。図書館。最寄りでも、電車で市の中央へ移動する必要があるから却下した。

 歩きながら、そんな一人議論を続けて、商店街の方までぶらつけば、シャッターは上がって、そぞろながら人々も歩いている。通りでは、“転売品ではございません”と印刷されたコピー用紙の張られた長机が広げられ、マスクが五〇枚四九〇〇円で売られている。売り子の男をよくみれば、少し前にミチルの家に回線の確認をプロバイダはなにをうちの光プランでさらに高速にみなさんこの書類に名前を書いてもらってましてとまくし立ててセールスに来たのと、瓜二つ。

 歩行を止めてふと見上げれば、”Balthazar”と丸いゴシック体で書かれた看板が飾られている。ガラスドアで隔たった入口の脇にはポスタースタンドが立てかけられ、”占い タロット千五百円 夢占い二千円”と同じゴシック文字で書かれていた。

 ここに入ろうと決めたのも、非日常とは名ばかりの、ただ部屋で無聊をかこつ生活から可能なかぎり遥か遠くの距離を隔てたいからだった。


「それと、なんというか、取材」

「新聞部?」

「いえ、美術部。毎年一つ、個人製作の絵を描くんですけど、何にするか決めあぐねてて。占い師でも描こうかと、なんとなく」


 といいながら、この咄嗟の支離滅裂な出まかせも悪くはないんじゃないかと思い始める。ほんとうに個人製作の主題は決まっていないし、いっそ占い師でも描こうかと思いつく。薄紫のローブか変ちくりんな三角帽子をかぶって、水晶玉を見つめている紋切型よりも、何度か目の前の彼を観察して実際の占い師を描いてみようと、そう心中で決めた。


「じゃあモデル料も取ろうかな」

「何回かここ来ます。まじです」 

「じゃあ学割も考えようか。占ってほしいことは」

「タロット占いで。これからの学校生活を」

「もうちょい具体的に」

「元通りに授業とかできるのかを。あ、スケッチしながら聞いてもいいですか」

「もちろん」


 肝心の、占ってもらうことを何にするか考えていなかったミチルはだから、そんな本心ではどうでもよいことの占いを要求した。それにどうせ、これからそれがどうなるかは自明じゃないかと思いつつ、占い師の指示に従って二十一枚の大アルカナから成る山札から三枚を引く。

 スリーカード・スプレッド。テーブルに横並びで置かれたおのおのがどういう意味を持つのかをきいていたけれど意識は鉛筆の芯へと集中して、その三枚はなにを意味していたのか当然ミチルは覚えていない。占い師が矢継ぎ早に三枚を捲ると、


 ***


 運命の輪と星と皇帝が目の前にある。神聖四文字יהוהの彫られた車輪の四隅陣取るテトラモルフたち。輪の回転運動に否応なく巻き込まれる巨人と蛇を、その運動つかさどるスフィンクスが見下している横で、橙色に輝く北斗七星。泉で水を汲む女を眺めるのは朱鷺ときか、あるいは伽藍鳥ペリカンか。その隣では赤い甲冑に身を包み、アンク十字を象った王笏片手に孤独な皇帝が鎮座しており。羊の頭部あしらわれた玉座に。


「君から見て左から過去、現在、未来を表しているね。ところで個人製作の方は」

「ぼちぼちです」

「恰好良く頼む。文化祭が開かれたら観に行くよ」

「それも中止です」

「来年見に行くよ。部員みんなで作るのもあるって言ってなかったっけ」

「それもこの前やっとテーマが決まって。ピエタです」


 それを提案したのは幸次郎だった。十一月の第三土曜日、ミチルのandroidから通知音が鳴る。


 <ピエタにせんか。今年の共同制作>

 <ピエタ #とは>

 <ピエタ(イタリア語:Pietà、哀れみ・慈悲などの意)とは、聖母子像のうち、死んで十字架から降ろされたキリストを抱く母マリア(聖母マリア)の彫刻や絵の事を指す[1]。>

 <コピペ禁止>

 <そもそもどんな絵>


 と質問して送られてきたのは、中央に聖母マリアと斃れて抱かれるキリスト、左右には悲嘆にくれた表情の老人が三人。右隣り、盃を持っているのはヨハネとおぼしき青年。生きている人間の頭上にはみな、光輪が浮かび、背景では暗雲を貫いて、光が円盤型UFOを裏返した形状をとり放射されている。


 <これ最低二人モデルいるけど>

 <どう描く。まぶせ君奇数組だから自分らと登校日違うでしょ>

 <ありゃ>


 と幸次郎の失念を彼らしくないと思いながら、数分考えこみ、メッセージを送信した。


 <交代制は>

 <どっちかが最初キリストのモデル描いてさ。>

 <終わったらそれ描いたやつが今度は聖母役で>

 <いいね。採用>


 その三十秒後。


 <いややっぱ却下。めちゃめちゃミチル時間かかるじゃん完成まで。モデルやる俺の体力も締切も持たないとおもわれ>

 <じゃあ自分やるよ。キリストと>

 <聖母>


「マスクもします。普通にしたら密になるけど、どっちも自分だったら三密回避でしょ」

「まあ確かに」

「で、占いの結果は」

「過去のカード、運命の輪。好調なときも逆境に煽られていた時期も経験してきたのかな。現在。星。そのシンボルは端的にいって、希望だ。広い大地でしゃがんでいる裸の女性は精神の象徴でもあり、大きく浮かぶ狼星に照らされる生命力でもある。つまり君は内から湧く光に導かれ己が望徳とする方向へと歩みだしている」

「良いことづくめだ」

「ただし辿り着けるとは限らない。未来のカード。教皇。照応する惑星は火星。白羊宮の守護星。ミチル君の星座だ。牡羊座だろ? そのキーフレーズは『I , am』。直訳すれば、私は存在している。背景に聳える岩山はこれから君を待ち受ける現実の暗喩」

「つまりどうするのが良いと」

「君が何になろうと、何だろうと、黙々と事を進めていくのが吉」

「抽象的だ。」


 ふう、と占い師はため息をついた。他にあるかい?占ってほしいことは、とミチルに尋ねる。


「それはないですが。一つだけ聞きたかったことを」

「なんだろう」

「個人製作の参考で。なぜ、今も占いなんか信じている人がいるとお思いで」

「なんかって。そうだな」


 と、少し考えこんだ。


「無論個々人によって要因はまちまちだろうが、その最大公約数が何かと言えば、それは、安心したいから、という懇願だ。とても切実な」

「はあ」

「安心と言っても別に、明日のレースで勝つ馬だとか恋愛の行く末だとか持ち株の売り時だとか、そんなのを知りたいわけじゃない。安心というのは、自分をはるかに大きく超えたなにかと結ばれている、とそう思うことで得られる安心だ」

「まあ、確定事項の未来を知ったところでどうしようもできませんから」

「祈りと言い換えてもいい。タロットも、夢も星占いと関係あるって、さっき君は言ったろ。カギはそこだ」

「というと」

「さっき、信じている人、と言ったね」

「はい。昔から亀の甲羅のひび割れやら手相やら風水やら、信じてきたわけでしょう。でもいまはそんなのより論拠のある方法で多少の未来は知れるし」

「昔から、というのは少し違うな。太古の人々は占いを信じてはいなかった、生きる上での手段として用いてきたというのが僕の一見解だ。いま、君や僕が非科学的な魔術、魔法、オカルトだと目しているものは、そのとき彼らにとっちゃ立派な科学だったし、一日の生活リズムさえそれらが規定してくれた」

「例えば」

「たとえば、北極星は砂漠で迷う旅人に方角を指してくれるし、恒星のシリウスは川の氾濫時季やいつ大麦と黍の種を地面に蒔けばよいのかを教えてくれる。太陽が昇る方角は吉とされ、沈みゆく方向には死者が住んでいる、そういう世界に生きていた。けど、都市構造も社会システムもずっと複雑になって、自然の何物も、そこで生きる上で必然生じる無数の選択の責任を担保してくれなくなった」


 熱弁が始まったな、とミチルはマルマンのスケッチブックに、占い師のその眼玉のかがやきを特に念入りに素描する。


「だからだよ。いまも、占いを信じる人がいるのは。いま、自分が直面している分岐点や境遇が、じつは太陽や北極星の回転運動によって決められていたことなんだとおもえたり、時刻表や目覚まし時計で等分される時間じゃなくてホロスコープみたいな目盛りが刻まれた時間を一瞬で良いから生きてみたい、そんなことで得られる安心を求めているんだといっても、いいすぎじゃないだろう。アマビエだって、マスクや手洗い嗽いも除菌スプレーだってある意味そうだ。それは安心を得たいという祈りからみな産まれたものだから」

「でもマスクには科学的根拠があるでしょう」

「占いも多少ひとに心理的な安静を与えてくれるさ。意味のない祈りなんてないよ」

「じゃあ最後に」

「何だい」

「この職業を選んだのも、そういう理由なんですか。つまり、人々と星々との関係をかりそめでも甦らせて、安心させたい、というような」


 いやちがう、と占い師は云う。


「美しいからだよ。占いは。顔のつくりが左右非対称な人にもシンメトリな人にも、万人に、みな誇り高く在れと告げるから美しい」


 ***



穿山甲せんざんこう

「それだ」


 聖母の段階は今日で終了し、聖母の服装のまま、名前を忘れた動物の名を幸次郎に訊ねて呆れられた。マスクを付けながらのモデルは苦しいが、キリストのときほどでもない。

 どうせつけるならと、二人の服装も時代がかったものでなくて現代装にすることにした。キリストの現代装は、とミチルにとっては難題だったが、幸次郎にとっては暗記でどうにかなる試験と同じくらいに易しかったのか、白いワイシャツとズボンだけでいい、と即答。こっちで用意するからと、もってきたワイシャツをミチルが着れば、幸次郎は水性の赤い絵具を襟元から彼の鎖骨のラインに沿って、指で広げた。

 命果てたそのポーズを何種類かミチルに取らせてみて、違うなと独りごつ。共同制作初日はそのぶつぶつでお開き。

 それから明後日。幸次郎は学生鞄から柘榴を取り出した。

 八百屋で買ってきた。ギリギリ季節だった、あぶねと云うから、食べていいのかとミチルが尋ねる。バカ、ザクロは死と再生を意味するんだからモデル中ずっと持ってろと云うから、つい吹きだしてしまう。ポージングしてくれと、それがまた難事。

 足は胡坐で、上半身は四十五度で、と上体起こしを途中でやめたような体勢を要求する。両腕は虚空で手は半開き、片手で柘榴を掴んだまま。十分どころか三十秒も持たないからと、購買でもらった大きいビニール袋に学生鞄と体育袋を入れて口を結び、即席のクッションを作った。そうだな……後ろでマリアも坐って屍軀を支えるポーズで……顔はキリストの片腕の隣になるように……と微調整をおこなう。

 顔は。死んだ聖人の貌はどんなだろうと、目を閉じてミチルは悩む。悩みに悩みぬいて、挙句、そのいましている顔つきこそそれだと、艱難を続行させることに決めた。結局キリストのパートは六日かかった。途中、聖母マリアの服をミチルが迷いに迷ってメルカリで買った時間も含めれば七日。

 聖母マリアに扮する場合。青と赤が必要だった。宗教画の中の彼女が常に身につけている服の色。

 青は、海の青だ。有機物と熱エネルギーで原始生命を生んだ海の青。わだつみで魚を漁る者らに正しい方角を導くこぐま座α星と重ね合わさり産まれた聖母への敬称は海の星stella marisであり、聖母の慈愛を意味する赤色の衣との対照が際立つ。

 青も赤も、絵画の中の彼女にならって全身で纏えるもの、と考え必然的に丈の長いものになる。すると今度は上に何を着るか、議論になる。純潔を意味する白が基調のを、幸次郎は云う。だが、シャツと被る、とミチルは黒を提案したところ、そうか、黒衣聖母、と珍しく納得して引き下がった。

 結果、ベルトの付いたチェスターコートと、ミモレ丈のティアード・スカード、丈長なペプラム・カットソーの三着とストレートのウィッグを買う。お金は二人で出し合い、ミチルの定額給付金残高はついにゼロ。

 五日前、衣装が届き、着た。聖母装の一日目。青は、画面越しで確認したよりも若干淡い気がした。ウィッグの位置調整に苦戦していると、やってるね、と蠣野明美が美術室へ入ってきた。瞬発的に、顔をうつむけたミチルに、


「メイクしてあげよっか」


 とつぶやいた。本当ですか、とおもわず声が高ぶりそうになるのを抑えた。


「そんな本格的なのはできないけどさ。アイメイクと眉だけ」


 そういいながら鞄にしまってあったポーチから櫛を取り出し、静電気によってアダムスキー型UFOに今まさに連れ去られそうな形になったウィッグを梳いて整える。


「綺麗」


 と、化粧を終えたミチルに云う。その暗示のおかげで、すんなりと聖母の顔つきを保てた。

 キリストの背後で、彼の片手首と脇を支える形で、しかし、着飾った衣装も見えるよう、横向きに虚空見つめるキリストと違って画布の方に軀を向けて。コートのボタンは閉じずに。


「どんな動物か覚えてる?」

「COVID-19の自然宿主」

「外れ。COVID-19は病名だし正しいウイルス名はSARS-CoV-2。それとこいつは中間宿主。自然宿主は菊頭蝙蝠きくがしらこうもり。まあ全部谷村先生が喋ってたことの受け売りだけど」

「何て言うんだっけ、ほら、ウイルスが宿主のからだに侵入するための鍵穴」

「レセプター。菊頭蝙蝠はもともと肺でつくられる酵素がそれだったはずなのに、変異を遂げて人の鍵穴にもさせるようになっちゃったて訳」

「コージローはさ、それに意味とか、理由があってほしいとか、おもう?」

「なんで。まったく。ウイルスにしてみたら、鍵が合うかが重要な訳で、その鍵穴がなんなのかなんてどうでもいいだろ」

「じゃあ占いとかは信じない? 血液型とか」

「当たり前。着替えなくていいのか」

「いや、もうすこしこのままで」


 ***



 美術部員の、個人作品及び共同制作作品は一階美術室の外廊下に飾られた。奥の体育館からは、絵を描いていると、バスケットボールやバレーボールの弾む音、どこかの監督の怒号が聞こえてくる。

 ただしミチルの個人作品は飾られていない。案の定、締め切りは過ぎていた。早く完成させようと、美術室へ向かう。壁を曲がる間際、ミチルは、忘れようのない褐色の腕を見る。腕は上方へ突き出され、手にしているスマートフォンは、共同制作作品の、聖母の頭と同じ高さだった。

 パシャリ、と乾いた音は、向こうの体育館で撥ねる球たちにすぐかき消される。けれど、ミチルには聞こえた。少しだけ立ち止まった後、来た道へと振り返り、一番近いトイレの個室へ向かう。歩いた。

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