蝙蝠のあたまと占星
ミヤマ
前篇
「アルマジロ?」
と問いかけて即座に否定されたので、少なくともそれではないことだけ辛うじて覚えている。
この動物にまつわる蘊蓄も、鉛筆を彫刻刀で削りながら美術室で聞いたが、もちろんそれらも忘れた。
柔かい椅子に腰うずめて、その名前の発掘作業に耽る。脳に酸素を行きわたらせようと、深く呼吸するたび鼻腔をうつアロマからふと前に、通販サイトをぶらつきながら見つけてその小壜のフォルムに惚れた香水の、そのラストノートとして記載されていたのもこんな匂いだろうかということが今度は気にかかる。
思い出そうとして果たせないまま、
海馬のシナプスどうしが連結して設計された神経回路網に灼きつけられているはずの、その残り香や犰狳のそっくりさんの記憶をもそもそと手繰りよせる。
加湿された室内の空気をウレタンマスク越しに吸う。冷たさと重みが感じられた。自分の体内には水の深々とたまった洋梨形の地底湖が、肺の代わりに肋骨に守られているのかなと、回路中を走査して忘却した名詞を探す意識がそんな想像へ
ジーンズのポケットからAndroidを取り出し起動する。LINEを開けば、部活グループからの通知が数件。受験の差し迫った
<冬休み中の美術室使用申請書提出だん>
<ありがとうございます>
<有難うございます>
<個人製作のほうは三月までに頑張って>
<共同制作の方は>
<進捗どうですか?>
<半分くらいです>
<僕は三組なので先輩方の協力できないっぽいです。すみません。>
<おkです。そっちは好きなやり方でやってもらってください>
三人のやり取りから眼を離せば摺り硝子越しに、たったいま相手を終えたらしい客から勘定をもらう占い師がみえる。
「おや、界くん」
外へ出ていく客に挨拶を済ませ、不織布マスクで顔の下から三分の二が覆われている占い師は、ミチルの坐っている椅子に目を向けた。
「ええと、三か月ぶり、来るのも三回目」
「占いがハズレたのもです。ゾロ目です」
「ありゃ。せっかくの東京旅行」
「なくなりました、ご愁傷さまでした」
「残念だ」
「むしろほっとしてます。東京、昨日は新規感染五百人超えてました。春の頃は皆、二百、三百で大騒ぎだったのに。八月に占ってもらったとき、なんて云ってたか覚えてますか」
「出たのは魔術師。月の
と噛まずに一息。ミチルに“THE MAGICIAN”と銘打たれたカードをタロットの山から一枚差し出す。カードに描かれている赤い衣を被さった人間が、両端の鋭い棒を片手に挙げており、わずか口角のつり上がった表情によって得られる印象は、数秒後にあやまって
いずれにしろ、自分という確固たる存在を世に知らしめるため生まれてきたという風。男の手前に置かれたテーブルにはやはり棒が一本、加えて
真正面の下段に茂る赤い薔薇と白い百合の彩りは、マジシャンの衣装と照応してミチルの目に鮮やか。頭上には
「タロットにも種類があってね、これはウェイト版と呼称されるものだ」
と、説明を受けたのをミチルは忘れている。大アルカナと小アルカナあわせて七十八枚すべての作画を請け負った画家、パメラ・コールマン・スミスは同時に聴覚と視覚の共感覚の持ち主でもあった。この小さな画面中に精霊の気配を充満させえた理由には、その特異なその官能をもって現実を、神話の原風景として受容していたことは絶対に大きいと、二度目の来訪のとき熱弁していたことも、むろんミチルは忘れている。
「行けるとはいってない、とでも」
「いや、当たらぬも八卦」
「易経読んだことあるんですか」
「高い城の男なら」
「まあ平気ですよ。コミケ中止の方が断然ショックです」
いやごめんごめんと占い師は頷く。
「それで、今日はなにを占いに。進路相談?」
「いえ、それならもう決めてます。来週から共同制作の方に取り掛かるんですが、それが上手くいくかを。タロットで」
「いいよ。いや、先にゾロ目の特典だ。通常二千五百円のところを特価五百円で夢占いしてあげよう」
「はあ。いいですよ。給付金まだあるから」
「他は何に使ったの」
「秘密です」
十分の九は家計だった。
「さいきん夢を見たかい」
「ええと、昨日の晩。雪が降ってました。外に立ってて、夕方で。……公園です。周りは誰もいなくて、雪が降っている公園。薄っすら積もってて、雑草がちょっとだけ見えてたかも。そこで、カメラを持ってて」
しかし現実だった。昨日みた夢の内容などろくに覚えていないので、代わりに忘れようのない三月二十九日の夕暮れを話していた。だけれどミチルは、その場にいたのは自分ではなく
二〇二〇年三月二十九日、乾燥気味の関東圏広域で降雪が観られた。ミチルの住む町でも。降り出したのは午後五時を三十分過ぎてからだ。
自部屋でミチルは、聞こえてくる母親の電話の応対を聴く。相手は恐らく、姉だ。休学は無理なの仕送りは、父さんの仕事次第なんだよそれで死んだら本末転倒じゃない若者は死なないかもしれんけど、後遺症もと否が応でも聞こえてくるしどんな内容なのかも否が応でも想像してしまう会話から少しでも遠ざかるために、居間に移ってテレビを付けた。
地方ニュースで、岐阜県のホームレスが大学生に殴り殺された事件を報じていた。話題は、いまここに降り注ぎはじめた雪のことに変わる。
画面が中継に切り替わる。映し出されるのは、駅から数百メートルに位置する自然公園。白がまばらで、かしこに雌日芝と烏麦の緑があらわの地面からは、四十と数年前に植林された牡丹桜が八分咲き。縁を薄紅色に染めた花弁に驟雪が積もっており。水気が多く、レポーターの履いているローファーはしゃくしゃくと音を立てる。
人は少ない。しかしミチルは中継カメラ越しに、一本の桜の下に突っ立っている同級生を、浅黒い赤干賑馬の貌を認める。真っ黒いPコートに身を包んだ姿だ。おもむろに、スマートフォンを取りだし、頭上に翳した。内蔵されたカメラのフレームに目の前の大木を収めるためか、2歩後ろへ下がった。すこしだけ、コートの裾がずり落ちて、顔と同じくらいに灼けた腕が覗いた。
カメラレンズが光る。
美しいものを、彼は撮っているのだと、画面に見入った。そのときの、テレビ越しの光景を、絵具で描けと命じられたら即座にミチルは取り掛られる。ただし、生来の凝り性ゆえに完成にはきっと数カ月はかかると確信している。
個人制作の絵も、スケッチでも油絵でも無関係に、毎回締切を一カ月過ぎてようやっと完成する始末。
完成させたと思ったら、気になる箇所が見つかる、そのサイクルに入り込むのではない。その正反対で、いつが完成と云える状態なのか、筆をおくべき潮時が分からず、終わらない耐久マラソンをするのがミチルの習性だった。
数少ない、はっきりとエピソード記憶としてのこっている三月の光景を早口で話すと、楽しくもなって、ないこともつい口から出走る。
「…クリスマスツリーを撮ってました。頂上部に大きな星の飾りが。」
「うーん、その星は? 落っこちたりした?」
「いえ」
「雪はどんな触感? べちょべちょ?」
「アキネイターみたい。そこまでは覚えてないです。積もっては……いたかも、そんなにじゃないですが、地肌が薄ら見えるくらいに」
「雪は浄化と変容のシンボル、溶けていることが変化への不安の解消を意味する。公園は新しい出会いを意味している。その場所で立ち止まって写真を撮っているのは、その歩みへの恐れかもしれない」
「つまり」
「星。進むべき方向を指し示してくれる。目標は確かに立脚しているから、きみはそのためのきっかけを無意識に求めている、てところかな。ところで」
誕生日は四月八日だったね、とミチルは尋ねられる。
「よくお覚えで」
「たった三か月前だ。少し待ってて。僕をスケッチしててもいいよ。そうだ、その夢を見たのは昨日?」
「ええ、夜中の十一時くらいに寝て」
マルマンのスケッチブックと布製のペンケースを鞄から取り出す。一方で目の前の男を観れば、縁には目盛りが刻まれ、十二分割された同心円の印刷された紙、それと『Your Secret Self: Illuminating the Mysteries of the Twelfth House』と題された黄色い表紙のペーパーバック片手に、手早く象形文字のような印をその目盛りに記していた。
「それなんですか」
「ホロスコープ。星占いには不可欠だ」
「夢占いでしょうやってるのは」
「両者の関係は密接だよ、昔から。タロット占いもね。たとえば、ミチル君の見た夢に色濃く表れるのは自然、大地、そして星。豊穣と地母神のシンボルだ。占星術では月に照応する」
「はあ」
「そして、その月は君のホロスコープでは第七ハウスにある。ハウスってのはこのあわせて十二個の部屋の単位だ。」
「その月はどういう意味を持ってて」
「夢を見た日のホロスコープじゃ、この月は時計回りにほぼ百八十度移動している。オポジション。一方出生日のアセンダントに位置する太陽は、夢を見た日には九十度反時計回りに移動している。月は潜在能力のシンボルだから、つまりはそれが活性化する吉兆だ。ただし、太陽は反時計回りに直角移動している。からだの調子に気を付けたがいい」
「そりゃあ今はみんな気を付けてますよ」
ホロスコープのかしこを指差しまくし立てる占い師の、その指や藍色のマニキュアの塗られた爪を凝っと見つめながらさらさらと鉛筆を滑らせて笑う。占い師の諸手は大きく、市販のトランプよりもひと回り大きいタロットカードを優に包み込めそうだ。
「じゃあタロットの方を」
***
前の晩に見て、そして忘れた夢だ。
すてきもない青空と暑さのただなかに放られている。素足で浜辺にたちながら、その理由は、と自問して、無人島に一つだけなにか持って行けるとしたら何を頼む? と幸次郎から訊ねられたからだとミチルは解決する。カンカンと日差しが照りつけ、さざ波。陽気。ただし、空からはパット・メセニーの『Zero tolerance For Silence』がたれ流されてミチルの耳を暴れる。せめて、このアルバムの隣に並べてある、『Wals and Bridges』じゃないんだと、クラウス・フォアマンのベースを懇願する。いちばん好きな『Whatever Gets You Though The Night』をあたまの中で流そうとするも出来ない。彼が装画した『Revolver』のジャケットの、足下まで及べる絵を描ければそれで死んでもよいとミチルは常々思っている。
傍らには、五年前に老衰で死んだティムがいる。きっちり二メートルの間隔を空けて。肉球は四本とも砂と接地しており、ハアハアと呼吸している。ときおりヴゥと唸る。目元まで完全に覆い隠している縮れた灰色の毛は、本心ではうざったいと思っているはずなのに一向にその素振りは魅せない。健気だ。だがチベタン・テリアの幽霊を頼んだ覚えもない。勝手についてきたのだろうと合点したところで
「おい、ミチル」
と後ろから声をかけられる。
駆けてくる学生服姿の赤干賑馬だった。ウクレレ片手に。相も変わらず浅黒い肌。わあ、とミチルも大声を上げそうになった。走りそうになった。だが自制した。赤干もとまった、きっちり二メートルの間隔。
ティムがワンとひと吠え。
「おまえのおかげで、ほら、俺のウクレレが」
と放り投げた楽器に弦はない。
「Ram Onが演奏できない」
「どうしよう」
「俺は唄いたい」
「どうしよう」
「弦を張ってくれよ」
「魚ならもってるよ」
と砂浜に埋められていたメバルをほじくり返した。すでに体表は溶けている、茶に変色し砂にまみれた
「器用だなおまえ」
と赤干に褒められ、ミチルは顔が赤くなったのを悟られぬよう俯いた。四本とも巻き終えて、唄った。
「僕の犬には蚤がいる」とティムも唄う。
誰も聞いてはいまいと大声を張り上げた。沈黙をとがめるように張り上げた。大空からは、代わりにジャコ・パストリアスの『Word of Mouth』が流れ出す。楽園の音楽だと、ミチルは感心した。金属音。海の向こうから鳥が五匹、飛来する。金属音。船もやってくる。大きな大きなクルーズ船だ。煙突装置に刺さった旗をはためかせて。幼いころ図書館で読んだ『ツバメ号とアマゾン号』に出てきたのと同じ、警告色の検疫船旗だ。そしてそれは今は、”ただちに停船されよ”を意味する国際信号旗であることもミチルは知っている。
金属音。
デジャブの聴覚版はなんというのだろうとその造語を考えながら、頭に衝突する燕たちを待つ。ブルーインパルスの音だ。夢の中ではたと気付く。
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