◆◆ 02. 道を行く

 死んだら河を渡ってあの世へ向かう、そんな言説を誰が言い出したのか。

 死後の旅路に河など無かった。


 視界を遮る物が見当たらない茫漠とした暗い平原。そこに一筋、白い直線が地平の彼方へと吸い込まれていく。

 背後を見ようとした俺へ、冷ややかな声が掛かった。


「行きなさい」


 いつの間にか、白い道の傍らに女が立つ。

 灰を被ったようなグレーの貫頭服は、背景に滲んで輪郭を見分けづらい。

 膝まで伸びた彼女の黒髪を目で追っていると、またさらに告げられた。


「道を果てまで行きなさい」


 あんたは何者だ――そう問い返しかけた言葉を、頭痛が押し止める。


「正しく生きた者なら、すぐに行き着く。あやまちを重ねてきたのなら、長き艱難かんなんにて償いなさい」

「……ここから動かなかったら?」

「愚かな選択には、痛みをあてがわれるだけ


 道の長さが罪の重さ、救われるまで歩くのみ。決して立ち止まらず、心の弱さを打ち払いひたすらに歩け。

 己のなすべきことを命じ終わると、女は消えた。


 ろくに質問もできなかったのは、頭の痛みが思考を奪ったからだ。

 爪先から痺れが立ち上り、腹の奥に溜まっていった。


 このままではマズい、そう感じて足を踏み出せば、一歩ごとに痛みの波は引く。

 自分が死んだことに疑いは無いが、こんな展開は想像していなかった。

 戸惑いから歩みが弱まると、また頭が、腹が、足が痛くなる。


“休めばいいのに”


 幼い猫撫で声が後頭部で囁いた。

 知らない声色だ。

 そんな甘言には耳を貸さず、道の先へ視線を上げて足を動かす。


“もう十分頑張ったじゃない。休みなよ”


 今度の声は若い女、高校の同級生を連想したものの、おそらく見当違いだろう。

 病床にせて一年、二度の手術では症状が改善しなかった。

 薬まみれで固形物は喉を通らず、二十五キロ近く減った体重は妻より軽い。


“ゆっくり寝た方がいい”


 しわがれた老人の声。

 言葉は優しくも、これまた死者へ課せられた報いだろうか。


 ともすれば怠惰を誘い、その言に乗れば道程は延びる。

 永劫の贖罪などたまったものではない。天国か涅槃か知らないが、道が終われば救いがあるはずだ。

 根拠など無くても、目標は強く信じられた。

 歩くべきだ。進まなければいけない。


“もういいのよ。先なんて無いもの”


 聞いちゃいけない、歩け。歩け。


“頑張っても無駄だよ。知ってるくせに”


 入院して一年が経ったある朝のこと。

 腹を捩り切られそうな痛みに、必死でナースコールを押した。唸っている間に緊急手術が決まり、すぐさま手術室へ運ばれる。

 自分の心拍を表す電子音が響く中、麻酔を注入されたのを最後に意識は飛んだ。


“失敗だったね。全部失敗”


「…………」


“親もいないし、見舞いにくる友人もいない”


「そんなことは……」


“失敗だけの人生だ。もう諦めよ?”


「うるさい」


“つらいんでしょ?”


「黙れ!」


 この道は、俺の人生そのもの。

 中学の時に親を亡くし、進学は諦めて黙々と働いた。

 飲みもせず、無駄口も利かず、休日はアパートで寝るだけ――それで友人ができるはずもなかろう。


 その先で待つ平穏を願って、ただただ手足を動かす。

 ほら、今の俺と同じだ。


“現実を見たまえ。せっかくの貯えも入院で消えたではないか”


 老人が偉そうに諭す。


「金なんて……もう済んだことだ」


“ははっ、過去から学ばなくちゃ。努力が報われるなんて幻想だよ”


 男児がわらう。

 好きに言えばいい。俺は前に進む。


“止まって”


 嫌だ。歩くんだ。


“行かないで”


 そんな声を出すな。


“起きて”


 やめろ。


“こっちを見て!”


 何度も耳にしてきた馴染みの声に、思わず来た道を振り返る。

 目に映ったのは平原ではなく、もっとずっと白い部屋の天井だった。


「ん……」

「ケイくん! 分かる!? 私、見えてる?」

「ああ……」


 俺の左手を握り、懸命に呼びかけてくる彼女へ向けて首を傾ける。

 入院が決まってから籍を入れると言い出した、奇特な俺の妻だ。

 彼女が呼び戻してくれたらしい。


 笑顔より、こんな泣き腫らした顔ばかりを見てきた。

 これじゃあダメだ。


 どう言葉を掛けたものか迷ううちに妻に釣られ、俺の目からもぽろぽろと涙が零れた。

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