蒲焼の缶(ノベルバー2021)

伴美砂都

蒲焼の缶

 これから帰ると有季乃ゆきのからメールがあったとき、時刻は既に21時を過ぎていた。慌てて電話を掛けると、駅だろうか、ざわざわした音と同時に、はい、と少し急くような声が応える。


「どうしたの、隆則たかのりくんと喧嘩でもしたの」


 こちらも少し焦るような気持ちで問うと、やだあ、と雑音が途切れ、突然はっきりした声になった。もう最寄り駅から、こちらに向かっているのかもしれない。


「なんでそうなるの、喧嘩してないし、タカにも連絡済みだし」

「でも」

「近くで仕事あって直帰だからさ、明日休みだし、たまに一晩泊まったって、いいでしょ?」

「それは、いいけど……」


 この時間まで仕事だったということは、夕飯はまだだろう、と考える。子どもが二人とも自立してから、常備菜の量もさすがに減った。豚汁は多めに作ったから、少しあるけれど。ご飯は炊いたほうが良いのか、食べるか聞けばよかった、と思っているうちに、チャイムが鳴った。


「ただいま」


 入ってきた有季乃はパンツスーツ姿だった。まだ独身でここに住んでいたときは、スカートが多かった気がするのだけれど。近くで仕事と言っていたし、外回りが増えたのかもしれない。

 有季乃が帰ってくるのは、そういえば久しぶりだ。寂しい気持ちはあったが、そういうものだろうと思っていた。思えば私も結婚してから数年は、数えるほどしか実家に帰らなかった。子どもができればまた違うのだろうけれど、今のところ、そういう話も聞かれない。


 つかれたあ、と言いながら、コンビニのビニール袋を食卓の上に置く。さほど度数の強くない、甘そうなお酒の缶が透けて見えた。エコバッグぐらい持ち歩きなさい、と言いそうになって、やめた。嫁いだといっても向こうの両親と一緒に暮らしているわけではないのに、あまり馴れ馴れしく口を出せないような気持ちになるのは、やはり私はもう古い時代の人間なのだろう。



 シャワーから上がってきた有季乃は化粧も落としていて、そうすると幼いころの顔とまったく変わらない。けれど側を通ったときほんのりと知らない香りがして、ああ、大人になったのだと何度でも思う。


「突然だったから何もなくて、ご飯も炊いてないのよ」

「いいよ、夜遅いし、炭水化物は」

「豚汁はあるけど」

「ううん、それもいい」


 言いながら冷蔵庫と隣の棚をそっと開け閉めし、戻ってきた有季乃は手に、イワシ蒲焼、と書かれた缶を持っていた。


「これ食べる」

「え」


 ずいぶん前に非常用のつもりで買って、仕舞いっぱなしにしていたものだった。賞味期限が切れていることは、さすがにないと思うけれど。


「そんなの食べるの?なにかお魚でも焼いたげようか?アジの開きも塩サバもあるけど」


 一瞬の沈黙に、あ、と、ふっと心が陰るような気がした。けれど、いいよ、と返した娘の声は、想像よりずっと、軽かった。


「ねえ、お母さん」

「なに」

「お母さん、さ、共働きだったけど、なんでも作ってくれたでしょ」

「え、……うん、まあ、そうかもね」

「夜遅くまで何か煮たりしてたし、お弁当もぜんぶ手作りだった」

「そう……だったね」

「わたしもそうしなきゃいけないって思って、ちょっとだけしんどいときあった」

「え、」

「ごめんね」

「……、」


 はっとした。

 有季乃の反抗期はひどかった。四つ上の俊平のときがさほどでもなかったから、ちょっとした会話だったはずがどこからこんなエネルギーが湧いてくるのだろうという勢いで激怒され、皿が飛び、机が壊れ、包丁まで持ち出された時には、どうやったらこの子を許せるだろう、と思った日もあった。

 けれど、と、あれから十数年も経って、今、初めて気が付いた。あのころ、きっと、有季乃も私を許すのに、必死だったのだ。もしかしたら、もっと幼いときから今まで、ずっと。

 スカートは、私の趣味だった。


「タカはさ、なんでもいいって言うの」

「……、」

「ごはん炊き忘れたら、サトウのごはんにすれば?って言うし、仕事で遅くなるときは、ファミレスで待ち合わせするかスーパーでお惣菜買おうよって言うし、なんならカップ麺食べ比べしようぜって、いろんな種類買い込んでくるような人なの」

「……そう、」

「わたし、タカと結婚してよかった」

「……、うん」

「でも、……でもね、わたし、お母さんのごはんも、好きなんだよ」

「……」

「それは、本当」

「そう、……ありがと」

「うん、……ううん、あのね、」


 有季乃が次に口を開くまえに、ねえ、と私は言った。もしかしたら、こうやって彼女の言葉を、何度も塞いできてしまったのかもしれない。けれど、今、次に有季乃の口から出る言葉は、きっとごめんなさいという言葉で、その言葉を私は、もう、これ以上、言ってもらってはいけない。


「飲もうかな、それ、私も」

「……、え、飲む?お母さん、飲めたっけ?」

「たくさんは飲めないけど、ちょっとだけ」


 いいよ、と言ってグラスを取り、桃ハイと書かれたピンク色の缶から注いでくれた。器用に、箸も一膳持ってきている。かぱっと有季乃が蒲焼の缶を開けると、どこか懐かしいような醤油の匂いがした。


「有季乃、」

「ねえ、乾杯しようよ」


 ごめんねと言う前に、有季乃はそう言って笑った。そうしてくれたのだと思った。乾杯、と言った声が重なり、蒲焼の缶の上で、グラスがかちんと澄んだ音を立てた。


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蒲焼の缶(ノベルバー2021) 伴美砂都 @misatovan

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