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***


 

 どこか重たい気持ちのままバイト先に向かい、黙々と仕事をこなした。店長にはまた顔色が良くないと心配されたけれど、あいまいに笑ってやり過ごしていた。少し暗くなった帰り道、ビクビクしながら歩いていく。優奈は二度と藤野さんが私のところまで来ないように言ったと話していたけれど、あの人の事だから、その話をすんなり聞くとは思えない。私は周りを警戒しながら、近所のスーパーに向かう。


「晩ご飯、何にしようかな」


 思わず独り言が漏れる。幸いなことに、誰にも聞こえなかったみたいだ。スーパーの中を一周し、私は鮮魚コーナーで足を止めた。鮭が安くなっている。


(……久しぶりにちゃんちゃん焼きでもつくろうかな)


 きっと、昨晩藤野さんが自分の親について話をしていたから思い出したに違いない。ちゃんちゃん焼きは、お義母さんが教えてくれた料理だった。


 結婚生活中、藤野さんの両親に会う機会はあまり多くなかった。きっと会ったら私の異変に気付くだろうから、藤野さんがあえて遠ざけていたのだと思う。お義母さんはとても優しい人だった。私の母が亡くなったとき、お葬式の会場で私に寄り添い続け、私の背中を撫でて「自分の事をお母さんだと思って、頼っていいからね」と言ってくれた。


結婚生活の中で数少ないいい思い出の一つが、この料理を教えてくれたときのことだった。藤野さんが私の料理を食べてくれなくなって悩んでいる時に教えてくれた、お義母さんの故郷の郷土料理。藤野さんも好きだと言っていたけれど、結局、私が作ったものはマズいと言って捨てられてしまった。でも、私は懲りることなく何度か作った。お義母さんが教えてくれたというのが嬉しかったから。


 私が家を出たことと離婚することを、彼はもう話したのだろうか? きっと心配しているに違いない。最後にちゃんと挨拶をしたいけれど、それもきっと出来ないだろう。私は鮭のパックを手に、小さく息を吐いた。


(……湊人君、来るかな)


 あいにく、今日は木曜日じゃない。けれど、【あんなこと】があった次の日だもん。もしかしたら来るかも……そんな期待を抱きながら、私はカゴに鮭のパックを入れた。残りの材料を買い、スーパーを出る。急いで帰ろうと少し早歩きになったとき、私の目の前でタクシーが止まった。降りてくるのは、ニット帽をかぶってサングラスをかけた……あれは十中八九、湊人君に間違いない。


「穂花サン!」


 手をあげて大きな声で私の事を呼ぶから、目立って仕方ない。周囲の視線を感じながら、私は湊人君に駆け寄る。


「ダメじゃん、こんな時間にうろついたら」

「そ、そっちこそ! 目立ってるよ!」

「大丈夫、バレないバレない。荷物持ってあげる」


 私が持っていたエコバックを彼はするりと奪っていく。そして、空いた手を彼は握った。


「っ!?」


 ぎゅっと握られてしまった手を、私は振りほどいた。湊人君は「えー!」と明らかに不満そうだ。


「そ、外でこういうこと、しないで欲しいの」

「いいじゃん、これくらい」

「誰かに見られたら困るの。優奈に迷惑かけるから……」

「ユウナって、穂花サンの友達の、弁護士のオネーサン?」


 頷くと、湊人君は「ふーん」と声を漏らす。理解してくれたみたいで、手をつなぐことはなかった。少し寂しかったけれど、自分たちを守るためには我慢するしかない。


「あの、晩ごはん、俺の分ってあったりする?」

「う、うん。あるよ」

「やったー! さすが穂花サン。今日は何かな~」


 ニコニコと笑う湊人君。その隣で歩くと、ごく普通のカップルみたいだった。私がまだ既婚者であることを除けば。


(離婚する前にこんなことばっかりしていたら、やっぱり湊人君にも迷惑だよね)


 彼の負担になることだけは避けたかった。私は意を決するように頷く。


マンションのエントランスに着いた瞬間、湊人君は私の手を取った。普通につなぐんじゃなくて、俗にいう恋人つなぎで。


「み、湊人君……っ!」

「外じゃなきゃいいんでしょ?」

「あの、えっと……」


 言い返す言葉を探しているうちに、エレベーターは急上昇していった。当たり前のように私の部屋にやって来て、冷蔵庫に買ったものを仕舞ってくれる。私はエプロンを身に着ける前に、ちゃんと彼と話をしたかった。


「湊人君、あのね、ちょっと話があって……」

「ん? いいよ」


 テーブルを挟んで向かい合う。私は彼が買ってくれた座布団に座る。大きく息を吸ってから、彼を見つめた。


「こういうの、困るの」


 私が口を開くと、湊人君はきょとんと首を傾げた。


「こういうのって?」

「だから、付き合ってるみたいな……」

「えっ?!」


 彼の大きな声が狭いリビングに響く。


「俺ら付き合ってないの? あんな事までしておいて?」

「湊人君だって、付き合ってない女の子部屋に連れてきてたじゃない! 色々してたんじゃないの? 昨日みたいなこととか!」

「そっ! それはそうだけど……」


 湊人君は何だかバツが悪そうだ。私も、何ムキになって言い返してるんだろう? 気持ちを落ち着かせるために、ひとつ咳ばらいをする。


「それに、私、まだ離婚できてないし……」

「それなら、離婚できたら俺と付き合ってくれる?」


 思わず言葉が詰まってしまった。私の頭に駆け巡るのは、湊人君の【アイドルとしての立場】だった。黙ってうつむいてしまう私を見て、湊人君は頭を掻きながら大きく息を吐いた。


「建前とかどうでもいいから、穂花サンがどうしたいのか考えてよ」

「……私、が?」

「そう。もう誰かの言うことを聞いたり、支配されることもない。穂花サンはもっと自由に、自分のことを決めていいんだよ。……アンタの事だから、俺の立場とか色々考えてドンドンネガティブな事考えてるんだろけどさ」

「……」


 図星だった。私は口を真一文字に閉じて、その場で小さくなっていく。


「ま、ここまで来たら待ってやるか。……その代わり、キスもえっちも、我慢しないから」

「こ、困るよ! 誰かに見られたら……」

「室内でやればいいじゃん。 あれ? それとも、穂花サンはお外でするのが好み?」

「バカ!」


 私は席を立って台所に向かう。恥ずかしさと怒りで耳が熱くなっている。私は体を冷ますために大きく息を吐いた。

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