8 【最悪(あるいは、アイドルとしての破滅)】までのロードマップ

― 36 ―

 目を覚めすと、私の目の前には湊人君の顔があった。首からなめらかに続いていく、素肌の肩のライン。彼が何も着ていないことが分かる。もちろん、それは私も同じ。私は今、彼の部屋の、彼のベッドの中で、互いに一糸纏わぬ身のまま、彼と共にいる。昨晩何があったのか明白で、思い出すだけで恥ずかしくなってしまう。


「……んん」

「み、み、湊人君?」


 湊人君が身じろいだ。起きるのかな? と思ったけれど、少し体が動いてやがて穏やかな寝息が聞こえてくる。私のお腹のあたりに彼の腕が回り、きゅっと抱きしめられていた。


 一線を越えてしまった。だらりと私の額に汗が流れる。彼に求められるまま抱かれて、私も彼にすがってしまった。思い出したら、顔から火を噴くくらい恥ずかしくなっていく。穴があったら入りたい……そんな事を考えながら布団をかぶると、枕もとに置いてある湊人君のスマートフォンがけたたましく鳴り響いた。


「ひっ!」


 こんなに大きな音なのに、湊人君は全く目を開けようとしない。「うー」と唸って、私に回した腕の力を込める。


「み、湊人君、起きて、スマホ鳴ってる」


 私は湊人君の体を揺する。何度かそれを繰り返していると、ようやっと湊人君がゆっくりと目を開けた。


「……おはよ、穂花サン」


 そして、ふにゃりと笑った。


「スマホ、鳴ってるけど」

「あー、アラームだから大丈夫」


 その言葉と一緒に画面をタップする。アラームは止まり、寝室は少しだけ静かになった。


「……ところで穂花サン、体、大丈夫?」

「え? あ……」

「ほら、昨日結局無理させちゃったし?」


 また、ボンッと顔が熱くなっていく。恥ずかしさのあまりベッドから出ようとすると、湊人君は「だめー」と言ってぎゅっと抱き着いてきた。


「み、湊人君?! ちょっと!」

「えー、イチャイチャしようよぉ~」


 湊人君がそう言ってぎゅっと抱き着いて来る。肌同士が触れ合う。それも恥ずかしくて湊人君を引きはがそうとしても、彼には力ではかなわなかった。そんなの、昨日の晩にイヤっていうほど理解したはずなのに。


「湊人君、仕事は?!」

「あー、ちょっとくらいなら遅刻しても大丈夫」

「だめだよ! またKOTA君に怒られるよ!」

「ったく、ベッドの中で他の男の名前出すなって。……はぁ」


 湊人君はため息をつきながら起き上がる。カーテンの隙間から漏れる朝日が彼の引き締まった体を照らす。……昨晩はあまり見ることができなかったその姿に、胸が疼くのを感じていた。湊人君も私の視線に気づいたのか、にやりと笑う。


「そんなにまじまじ見ないでよ。穂花サンのエッチ」

「そ、そういうわけじゃ!」

「はいはい。昨日は電気消してたからね。今度ちゃんと見せてあげるから」

「もう!」


 むくれる私を見て、湊人君は楽しそうに笑っていた。彼が出る用意を始めると言うので、私も服を着て帰ることにした。


「もう少し一緒にいたかったのになぁ」


 湊人君は下着だけを身に着けて玄関まで見送りに来てくれた。その姿は今の私には毒にしかならないのに。


「ま、また今度ね!」

「うん、また今度」


 柔らかく笑っていたのに、何かひらめいたのか途端にいたずらめいた笑みに変わる。湊人君は靴を履き終えた私の腕を掴む。


「ねぇ、穂花サン。ちゅーして」

「えぇっ!?」

「ほっぺでいいから。ほら」


 湊人君は少ししゃがんで、顔を横に向ける。頬を指さして「ここに」と告げる。……しないと、腕を離してはくれなさそうだ。私は緊張しながら、少し背伸びをして顔を近づける。かするように、私の唇と彼の頬が触れた。ほっと息を漏らすと、湊人君は掴んでいる腕をぐっと引き寄せた。


「あっ……」


 気づいた時には、彼とまたキスをしていた。一瞬だけの触れ合い。私が驚いて目を大きく丸めていると、湊人君は楽しそうに笑う。


「またね」

「う、うん、また」


 ふわふわとした、まるで夢の中を歩いているような心地だった。私は部屋に戻って、熱くなった頭を冷やすためにぬるめのシャワーを浴びる。体にまとわりついていた汗が流れていく。それと一緒に、湊人君が残していったぬくもりもなくなってしまった。それを感じて、少しもったいないような気持になった。


 シャワーから上がって髪の毛を乾かしてからリビングに向かうと、振動音が響いているのが分かった。コートのポケットに入れっぱなしにしていたスマホを確認すると、優奈から電話がかかってきている。私は通話ボタンを押す、耳に当てるより前に、優奈の叫び声が聞こえてきた。


『バカ―!!!』

「ひっ!」

『あ、やっと出た。アンタ、何してんの!? あっちの弁護士から連絡来て、もうびっくりしちゃったんだけど!』

「ご、ごめんなさい!」

『もー! いや、そそのかした私も悪いけどさ……まさかあの男の前でキスするんて思わないじゃん。何やってんのよ、もう!』


 おっしゃる通りで、返す言葉もない。


『まあ、それのおかげであっちもアンタのところに行っていたっていうの認めたけど――二度と行かないようにって釘さしておいたから、安心して――まだ離婚済んでないのにそんな事するなんて……もう!』

「や、やっぱりまずいよね……?」

『ま、こっちはすでに婚姻関係は破綻している状態だから穂花が彼氏作ろうが何しようが勝手でしょっていう主張するだけだけど。あっちが何て言ってくるか……』


 優奈のため息が聞こえてくる。私は体を小さくして、何度も「ごめんね」と繰り返した。


『穂花一人が悪いわけじゃないでしょ? とりあえず、あの子には絶対外でそういうことするなって言っておいて。そもそもアイドルじゃん。パパラッチに撮られたらどうするつもりなのよ。穂花が言ってたみたいにファン減るかもしれないじゃん』

「言っておきます……」

『二人とも、慎重に行動すること。わかった? 頼んだよ!』


 電話が切れる。優奈の言うとおりだ。少し浮足立っていた私の気分は、一気に地の底まで落ちていく。そして、再び不安が渦巻き始めていた。



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