― 31 ―
「アイツ、なに?」
「中学の友達……ばったり会ったの」
「ふーん」
「遅くなってごめんなさい、急いで夕食の支度するから」
「あー、いらね。外で食う」
「……え?」
「どうせ今日もマズいんだろ?」
「ま、待ってよ、今日こそ頑張るから」
「うるせぇって!」
彼は縋り付く私を強い力で突き飛ばす。背中が壁にぶつかり、強い痛みを感じた。
そのまま彼は出て行ってしまった。私はぽつんと家の中に取り残される。どうして何も食べてくれないんだろう……そんな事を考えていても仕方ないから、私は買ったものを冷蔵庫に仕舞い始めた。使わない安売りのお肉は冷凍庫に入れようとしゃがんだとき、お尻に何か違和感を覚える。そういえば、優奈は何を入れたんだろう……? ポケットからそれを取りだした。
それは、名刺だった。
『離婚•相続、親族トラブルのご相談はお任せください
鈴木弁護士事務所
弁護士
鈴木 優奈』
それを見た瞬間、頭をガンッと殴りつけられるような衝撃を感じた。
「離婚……?」
頭の中に広がるモヤが一気に晴れていく。その時、私は久しぶりに母がくれた【お守り】の事を思い出し、私は台所の奥に眠る鍋を取り出した。これに触れるのは本当に久しぶり、私はゆっくりと蓋を開け、布袋から箱を取り出す。その中には通帳とキャッシュカードと印鑑、そして、母のメモが入っていた。母のメモは数字4桁、きっとこの通帳の暗証番号だろう。私がそれを開くと、事細かく記帳されていた。ひと月に一回……これ、私が今までお母さんに渡していた金額と同じだ。高校でバイトを始めてから、結婚するまで。お母さんは毎月使うことなく、貯めていてくれたんだ。
そのお金さえあれば、なんだってできるような気がした。私は鍋にそれらを仕舞って、それを抱えて走り出していた。優奈が働く弁護士事務所に着いたのは夜遅かったけれど、まだ明かりがついているのが外から見ても分かった。恐る恐るドアをノックすると、勢いよくドアが開く。
「穂花!」
まるで待っていたと言わんばかりに、優奈は私に飛びついてきた。そしてそのまま抱きしめられる。温かい、どこも痛くない、優しい。そんなハグだった。
「今までよく頑張ったね、偉かったね」
優奈は頭を撫でながらそう繰り返す。それを聞いている内に、まるでダムが決壊するみたいに涙が溢れ出していた。
「あ、あ……ぅ、うぅ、うあぁああ!」
力が入らなくてしゃがみ込んでも、優奈はずっと私を抱きしめてくれた。私は彼女に縋り付き、鍋を抱きしめながら泣きじゃくった。まるで子どもみたいに。今までため込んでいたものがどんどん溢れ出していく。離れたい、あの人と別れたい。私の頭に占めるのはそれだけになっていた。
「離婚するでいいのね」
私が泣き止み落ち着いた頃、弁護士事務所のソファに座って、優奈がそう聞いてきた。私は頷く。
「分かった。私も全力出すから」
「……穂花ちゃん、少しいいかな」
横から優奈のお父さんが口を挟む。手には小さな古い携帯電話みたいな機械と、ノートがあった。
「穂花ちゃんに有利に離婚を進めるために、少しでも証拠が欲しいんだ」
「……ショウコ」
「もちろん、無理にとは言わない。けれど、多ければ多いほどいい。これ、レコーダーとノート。レコーダーには夫の暴言を録音して、ノートには録音できなかったことを日付と合わせて書き込んで欲しい」
「ちょっとお父さん! 穂花に戻れっていうの?」
「だから、穂花ちゃんにできる範囲で構わないから。もちろん、もう戻りたくないって言うならここにいても構わない。けれど、今は証拠が少なすぎる。相手が上手なら不利になりかねない」
「それが増えたら、離婚できますか?」
優奈も優奈のお父さんも、頷いた。
「……がんばる」
「大丈夫? 無理しなくていいんだよ?」
「大丈夫……大丈夫だから」
その言葉は、私自身に言い聞かせる言葉だった。私は鍋と通帳の代わりにそれを持って家に帰った。早く証拠を貯めて、早く別れるために。
そして十分な証拠が溜まった頃、私は逃げるようにその家をあとにしていた。
***
頬に伝う涙をぬぐったのは、目の前に座る湊人君だった。
「ごめん、俺、また変なコト言ったね」
「ううん、違うの」
辛い思い出を封じ込め、私は届いたばかりのオムライスを口に入れた。卵のほんのりとした甘さが、とてもおいしい。良かった、何かを美味しいと思う気持ちがまだ残っている。
「……楽しみにしてるね、湊人君」
「うん! 任せて!」
そう言って満面の笑みを浮かべる湊人君の姿に、私こそ安らぎを覚えていた。アイドルとしてステージに上がるMINATOを見ている時よりもずっと心地良かった。湊人君は大きな口でハンバーグを食べていく。美味しそうに食べていくその姿を見ているだけなのに、私の胸は喜びでいっぱいになっていくのを感じていた。
しかし、その次の木曜日、げんなりとした顔の湊人君がやってきた。
「どうしたの? 風邪ひいた? 顔色悪いけど……」
「いや、ちがう……ちょっと俺んち来て」
湊人君に手を引かれ、私は彼の部屋に入っていく。湊人君は台所の前で立ち止まった。
「……失敗しちゃった」
そう言って、彼はフライパンを指さす。中にはチキンライスがあるけれど……少しべちゃっとしている。
「味は悪くないんだけど、なんか食感も見た目も悪くて……穂花サンに食べてもらう訳にはいかないし、でも約束したし……」
湊人君の手元に視線を落とすと、彼の左手にはいくつも絆創膏が巻かれている。私の視線に気づいたのか、彼はその手をさっと後ろに隠してしまった。湊人君が私のために頑張ってくれた。その事実が、体が熱くなるくらい嬉しかった。
「だ、大丈夫だよ、湊人君」
私が彼に「卵ある?」と聞くと、彼は買ったばかりの卵パックを冷蔵庫から取り出した。私はそれを見て頷き、自宅に戻ってフライパンとボウルを手に再び湊人君の部屋に向かう。
「オムライスは綺麗に包んじゃえばいいんだよ」
ボウルに卵を2個割り、牛乳を大匙1くらい、塩を一つまみだけ加える。白身と黄身が完全に混ざるまで溶き、温めたフライパンに流し込んだ。卵は半熟状になってきたらそこに湊人君が作ってくれたチキンライスを入れて、フライパンを手前に傾けた。
「おぉ! すげぇ!」
「ふふ。これでもずっとファミレスで働いてたからね。これくらいはまだできるよ」
フライパンの持ち手をトントンと叩いて、チキンライスを卵で包んでいく。綺麗な黄色に包まれたそれをお皿に乗せると、湊人君は感嘆の声をあげる。
「すげー……穂花サン、魔法使いみたい」
「あははっ!」
「そんな大声で笑わなくたっていいじゃん」
そう拗ねたように言う湊人君の表情は、言葉とは裏腹になんだかとても優しげだった。
「……私も、お母さんに同じことを言ったなって思い出して」
「へぇー」
「私が生まれて初めて作った料理もオムライスでね、同じ失敗したの」
あれはまだ私が小学1年生の頃。お父さん大好きなオムライスを父の日に作ってあげたいと言った幼い私の初めての料理。お母さんから作り方をちゃんと聞いたのに、私はある間違いをしてしまった。本来ならが具材を炒めている最中にケチャップを加える予定だったのに、焦ってしまった私は間違えて先にご飯を入れてしまった。慌ててケチャップを入れたらその量が多すぎて……なんだか見た目の悪い、べちゃっとしたチキンライスが出来てしまった。フライパンの前でがっくりと肩を落とす私に、お母さんがやって来てそっと寄り添った。
『大丈夫、お母さんに任せなさい』
お母さんがそれを丁寧に卵に包み込んでいく。
『すごーい。お母さん、上手だね! 魔法みたい!』
失敗したことも忘れて私はお母さんにそう声をかける。その時、お母さんはこう言ったのだ。
「『失敗しても隠しちゃえばいいのがオムライスなの』って……。中身が見えなくなっちゃえば、何とか食べられるようになるからって」
「確かに、その通りだね」
両親とオムライスを食べながら、お母さんは「これから上手になればいい」と言っていたのを思い出す。きっとあの頃の私に今の私の姿を見せたらびっくりするに違いない。だって、あの時のお母さんの魔法を自分自身が使っているのだから。隣で目を輝かせている湊人君は、まるで幼かったころの私みたいに見えた。
私がもう一つ包んでいる間に、湊人君が食べ始める用意をしていた。一緒に鍋を囲んだテーブルにケチャップとスプーンを置いて、出来上がったオムライスを運んでくれた。
「……ありがとう、湊人君」
「ううん、俺の方こそ。穂花サン、元気出た?」
「……うん」
「良かった」
目の前の湊人君が、もう一度優しく微笑んでくれる。
「あ、そうだ! 忘れてた」
湊人君がケチャップを手に取ったと思うと、私のお皿を自分の近くまで引き寄せた。そして、ケチャップをかけていく。それは、ある形になっていった。
「ハートマーク?」
「オムライスって言ったらこれでしょ?」
湊人君は私の分のお皿を戻し、自分のオムライスにはでたらめにケチャップをかけていく。私はスプーンを持った。ハートマークのオムライスを見ていると、何だか頬が緩んでしまう。これを食べちゃうのは、何だかもったいない。
「ありがとう、嬉しい」
「よかった。あのさ、穂花サン。これ、俺の気持ちだから?」
ん? どういうこと? 私はそれを口に出さずに首を傾げる。湊人君は大きく深呼吸をしたと思ったら、私を射るように見つめる。
「……俺、穂花サンの事が好きだ」
私のスプーンを持つ手が動きを止める。初めは冗談だと思った。しかし、湊人君の表情と続く言葉が冗談ではない、真剣なものであると告げる。
「穂花サンのこと、側で守りたいって思った。だから、もしよかったら、俺と付き合ってくれませんか?」
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