― 30 ―


「ごめんなさい、お母さんのことで」

「本当だよ」


 藤野さんはそう吐き捨てる。


「家の事何にもしないでほっつき歩いて。俺にどれだけ迷惑かけたか分かってんの?」

「……ごめんなさい」


 仕事もしばらく休んでしまった。早く復帰して、店長やみんなに藤野さんと結婚したことを伝えないと。そう考えていた時、藤野さんはとんでもない事を言い放った。


「お前さ、仕事辞めろよ」

「え? ど、どうして?」

「仕事なんてしてたら家の事やらなくなるだろ」


 絶対さぼったりなんてしないよ、そう言っても彼は頑なに首を横に振る。私の言うことをまるで信じてはくれなかった。


「明日店長に電話して辞めるって言え」

「でも、理由を聞かれたらどうするの? 私、辞めたくない……」

「いいから俺の言うとおりにしろって! なんか聞かれたら、人間関係が嫌になったって言えばいいんだよ!」


 この頃から、藤野さんは私と話すときは大声を出すようになった。例えば、少し外出をした時、帰ってきたら「遅い」と言って何時間も怒鳴りつける。確かに、今のまま仕事を続けていたら彼はそのことを不快に思うようになるだろう。私はその言葉に従う他なかった。


 急に仕事を辞めたから、仲良くしていた他のバイトや社員から連絡が来るようになった。その度に、私は藤野さんが言っていた通りの返事をする。藤野さんはお店で私の話になるたびに、話している相手に向かって「お前のことが嫌になったんだって」と言ったそうなので、信ぴょう性は増しただろう。私の元に誰かから連絡が来ることは無くなった。藤野さんも、誰からもメールや電話が来ないなら必要ないだろうって、私のスマートフォンに入っている連絡先すべてを消してしまっていた。それどころか、私のメールアドレスまで変えてしまって、誰とも連絡がつかなくなってしまった。


「どうしてこんなことするの?」


 空っぽになったスマートフォンを見ながら、私の目に涙が溜まる。それなのに、彼は涼しい顔でこう言った。


「だって、もう必要ないだろ」


 そんなことないよ、私にとって大事だよ。そう言い返そうとしても、嗚咽交じりの言葉は彼には響かない。それどころか、藤野さんはボロボロと涙を流す私を見て「漫画みたいな泣き方」と言って笑っていた。


 藤野さんは連絡先だけじゃ飽き足らず、私の物も勝手に捨ててしまうようになっていった。家が狭いという理由で、衣類や本、中学の卒業アルバムも。お母さんに貰った『お守り』と初任給で買ったオレンジのホーロー鍋だけはどうしても捨てられたくなかったから、私は台所の棚の奥に隠した。この家に来てから、彼は一度も台所には立っていない。棚を見ることもきっとない。絶好の隠し場所だった。


 自由に使えるお金もなくなっていった。彼はあまり生活費を出してくれないから、月末に足りなくなったら自分の貯金から捻出するしかない。そんな事を続けている内に私の口座はすっからかんになる。どうしても必要な時は、藤野さんに向かって頭を下げた。その度に彼は、私の髪の毛を強く引っ張りながらこう叫ぶ。


「お前は無駄遣いしすぎなんだよ」


 そう言われるたび私はレシートをかき集めて、無駄がないか少しずつチェックしていった。切り詰められる部分を見つけると、ほっと胸を撫でおろした。藤野さんは仕事に行かなきゃいけないし、人付き合いも多いから、こまめに美容室に行ったり服を買っている。けれど、私にはそういう関係はもうないからと自分自身をまるでこそげ落とすように。結婚してから買った服は彼に捨てられてしまって、もうボロボロの服しかもう残っていないけれど、できるだけ大事に着よう。髪なんて自分で切ればいいし、伸ばして結んでしまえば邪魔にならない。洗面所の鏡の前で、文房具用のハサミで髪を切っていると、酔って帰ってきた藤野さんは「へたくそ」と言って笑った。


「そんなことしなくていいからさ、ちょっとこっち来てよ」


 上機嫌になっている彼がこう言う時は、夜の誘いだった。


「きょ、今日は、できないの」

「あぁ? なんでだよ、お前これくらいしかできねーだろ」

「せ、生理がきてるから、できない」

「あーあ、つまんねーの。せっかく抱いてやろうと思ったのに」


 藤野さんとのセックスは、最初はちゃんと気持ちよかった。けれど結婚してからは次第に乱暴になっていき、今は苦痛でしかない。だから、生理の時はその相手をしなくてもいいから助かった。私はソファに座る彼の足元に座る。藤野さんの機嫌は戻り、ベルトを外してチャックを下ろした。口でする方が苦しいけれど、痛くない。セックスなんかよりずっと楽だった。


「全く、お前って本当に使えないよな。あそこで働いてる時から思ってたけど、鈍くさいし、コミュニケーション能力ないし、いっつもタイミング悪いし」

「……」

「よかったなぁ、俺が結婚してやらなかったらずっと独り身だったぞ。お前のお母さんだって結婚するって言いに行った時喜んで泣いてただろ。親孝行したよな、俺」


 こういう時、彼は饒舌になる。


「あと、お前の悪い所って……あー、料理が下手だよな」


 それを言われるたびに、私の心は真っ黒の箱の中に押し込められていくような苦しさを感じていた。その箱は狭くて、叫んでも私の声なんて誰にも届かない。まるで棺のような箱。


「お前、よくキッチンで働いてたよな。あんなに下手くそなのに……よくクレーム入らなかったよ」


 気づけば、それは毎日言われるようになっていった。それだけで済めばいい方で、彼の舌に合わないと作った料理を生ごみとして捨ててしまう。食費が少なくなって食卓が少し質素になると、まるで雷のように怒り狂う。


「お前のマズイメシ食ってやってるだけありがたいと思えよ!」


 私は彼が残して行ったご飯を少しだけ食べた。本当だ、味が全くしない。ちゃんと記憶に残っているレシピの通り作っているはずなのに。一体何を作ったら、彼は満足してくれるのかな。


スーパーに向かう足取りも重かった。何を作ってもマズいなら、私は何をしたらいいのだろう? その問いに答えはないのに、私はそれについてずっと考えていた時私は、優奈に会った。


「……穂花? ねえ、穂花だよね?」


 優奈は私の腕を掴んで、頭のてっぺんから足まで何度も見渡した。ろくに美容室も行けていないから髪の毛はぼさぼさ。彼が太った女の人が嫌いだからダイエットにも成功して、結婚する前の姿と少し違うけれど、優奈はすぐに私だと気づいてくれた。


優奈の姿は私とは対照的で、きっちりまとめられた艶やかな髪に、下ろしたてみたいに綺麗なスーツ。胸には金色のバッジがついている。ちゃんと働いているその姿が、今の私には目が眩むくらい輝いて見えた。


「アンタ、結婚するって言ってから連絡つかなかったけど……大丈夫なの? 元気にしてるの?」

「う、うん……」

「とりあえず、どっか座って話そうよ。喫茶店でも行ってさ」


 私は慌てて首を振る。それに優奈は少し驚いたように目を見開いた。


「だ、だめ、行けない」

「どうして?」

「帰るのが遅くなったら怒られちゃうから」


 今日は仕事が休みの日だから、家で彼が待っている。早く帰らないと、と優奈に伝えると彼女は私をじっと睨んだ。そして細く長く息を吐いてから、今度は優しく微笑む。誰かが私を見て笑ってくれるなんて、久しぶりなような気がした。


「じゃあ、私、家まで送ってあげる。それならいいでしょ?」

「う、うん……」

「ほら、行こう。案内して」


 私が持っていた荷物を優奈が奪う。私はゆっくりと歩く優奈に歩調を合わせて自宅へ向かう。家に着くころにはすっかり日が暮れてしまっていた。きっと藤野さんは怒っているに違いない、私が急いで鍵を開けようとすると、先にドアが内側から開いた。顔をあげると、額に青筋を立て、怒りを隠さない彼が立っている。


「遅い、今までどこほっつき歩いてたんだ!」


 反射的に謝ろうとする私の前に、優奈が立った。見上げると、藤野さんもぽかんと口を開けている。優奈はバッジを見せつけるように胸を張っていた。


「……誰?」

「初めまして、私、穂花の友人です。たまたまそこで会ったので話しながら穂花を送って来たんです」

「あぁ……友達、弁護士さん?」

「はい。良くお分かりですね」


 優奈は胸元のバッジを指先で弄った。


「それじゃ、私行くから。元気でね、穂花」

「う、うん、会えてよかった」


 こんな偶然、二度もないだろう。きっと再び優奈に会うことはないと思う。そう思った時、優奈が私のジーンズのポケットに何かを入れた。


「またね」


 それはいつもの優奈の声よりも少しだけ低かった。家に入ると、藤野さんはイライラと貧乏ゆすりを始める。

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