91 雨天決行
天上から巨大なバケツをひっくり返したようだった。雨粒が、視界を白に染めるほどに細かく打ち付けている。五感の内、視覚、聴覚、嗅覚を制限するほどの、雨。この環境の中では、どれだけ優れた感覚を持つ者でも、背後から迫りくる影に気付くことは難しいだろう。
ここマルス渓谷においても、悪天候は例外ではない。
「静かにだぞ……静かに……静かに……」
木々の間を歩くたびに、緊張が増していくようだった。森の中を身を屈めて歩く四人の影。俺の声は、ひょっとしたら仲間たちには聞こえていないのかもしれない。けれど俺は、呟き続けていた。
体が重たい。それは、ぐっしょり濡れた雨のせいでも大剣とは別に背中に背負っている聖剣のレプリカのせいでもなく、多分気持ちの問題なのだろう。
これから向かう先に、過去最も強い敵がいる。何度も負けた、因縁の相手だ。
「──待て」
俺が手をあげると、仲間たちはピタリと動きを止めた。大きな雨粒に白く遮られる視線でも、確認できた。渓谷の中、河原に佇む長身の女。けれど、纏うオーラは人間のそれではない。間違いない。俺たちが倒すべき相手、魔王だ。
手はず通り、準備を始める。手始めに、オリヴィアの魔力が静かに高まる。魔王に気づいた様子はない。
俺とオスカーが前へとそろりそろりと歩く。一歩一歩と近づくごとに、俺とオスカーの緊張感は高まっていくようだった。勢い良く打ち付ける雨粒すら気にならないほどに、視線の先の敵に集中する。
やがて、オリヴィアの準備が整ったことを悟った俺は、大きく手を上げ、勢い良く振り下げた。
いけっ! 最高の一撃を叩き込め!
雨中の先に微かに聞こえるオリヴィアの詠唱。やがて、極大の氷が、砲弾の如く飛び出した。
同時に俺とオスカーは駆け出す。魔法と、聖剣を持った二人による奇襲。魔王が勢い良く振り返る。その美しい顔に、動揺はなかった。
「『──壊れろ』」
魔王の静かな詠唱が、雨音の先に聞こえた。同時に、オリヴィアの魔法で創られた氷が破壊される。けれど、俺たちの剣先が届く。
「オオオオオオ!」
豪雨にも負けないように雄たけびを上げ、俺は大剣を振り下ろした。
返ってきたのは、硬い金属の感触だった。渾身の力を込めて振り下ろした大剣は、禍々しい形をした長剣、魔剣に防がれていた。
「オスカー!」
「ハアアアアア!」
続けて、オスカーの聖剣が魔王の首元めがけて振り下ろされた。けれど、当たらない。魔王は素早く俺の剣を弾き返すと、オスカーの攻撃を身を捩って避けた。
「ッ! クソッ!」
初撃は失敗だ。仕切り直し。俺とオスカーは一度下がる。けれど、魔王の側はそれを許さない構えだ。
バックステップを刻む俺の目の前に黒い刀身。凄まじい勢いで迫る魔剣を見た俺は、思考するよりも早く、右に飛んだ。
地面に叩きつけられた魔剣が、轟音を立てた。傍らで聞いているだけでも寒気がするような一撃に、肝を冷やす。
「オスカー、絶対に俺と呼吸を合わせろよ! 一人で戦うな!」
「メメこそ! はやらないでよ!」
叫び合い、再び魔王へと肉薄する。前後から同時に剣を突き出す、挟撃。けれど、魔王の反応は早かった。
体を捩ると同時に、俺の方へと魔剣が飛んでくる。砲台から飛び出してきたような、凄まじい勢いの突きだった。辛うじて大剣を合わせ、魔剣の軌道を変える。腕に魔剣が掠り、鋭い痛みが走った。流石の反撃。けれど、背中はがら空きだ。
「ハアアアア!」
気合を入れたオスカーの手元で、聖剣が光り出す。権限の解放。詠唱はないので、効果は半減だが、手痛い一撃になることには間違いないだろう。完璧なタイミングでの背後からの攻撃。オスカーの今まで積み上げてきた経験の活きた、最高の一撃だった。
俺はオスカーの攻撃の成功を確信していた。仕留めるところまでいかなくとも、ダメージを与えるはずだと思っていた。
だから、俺は次の展開を全く予想していなかった。
魔王の体が一瞬で翻り、長い脚が目にも止まらぬ早さで突き出される。それは、伝統的な舞踊のように洗練された動きだった。
蹴りは踏み出しつつあるオスカーの無防備な体へと吸い込まれていって、彼の体をぼろきれの如く吹き飛ばした。明らかに普通ではない威力。一瞬で魔法で強化したのか。
「オスカー!」
オスカーの尋常ではない吹き飛び方に、俺は反射的に彼に駆け付けようとする。彼がここまでの激しい攻撃を受けたのは、初めてのはずだ。
しかしすぐに、目の前にいる強者の存在を思い返す。
「ハッ!」
脚を振りぬいたままの魔王へと、再び大剣を振り下ろす。今回は反撃はなかった。大剣は魔剣に受け止められる。
「よくもやってくれたな、傲慢なクソ野郎……!」
恨みを籠めて大剣を押し付けるが、相手の魔剣はびくともしなかった。やはり、勇者ではなくなった俺には、魔王との力比べは分が悪いらしい。しかし引くわけにはいかない。俺は一層足に力を籠めた。
「貴様は……」
ふいに、魔王が口を開いた。何度も聞いた、女にしては低い声。その裏には、深い深い疑念が籠っているようだった。
「なぜ、馴れ合っている? 私と同じ諦観と破滅願望を有した人間ではないのか? 勇者パーティーのメメとやらよ」
「お前も、ロゼッタと同じようなことを言うんだな」
「ふむ、私とあのダークエルフでは視点が違うな。まあ、人類の不幸を願っているという点においては私とあいつは同志だったがな。お前も、そうではないのか」
「決めつけんな。諦めて、勝手に裁定を下す気になっているお前とは違う」
「裁定とは言い得て妙だな。もしかして、どこかで会ったことがあったか?」
「ああ、お前の記憶の外でな!」
再びの、激突。鍔迫り合いはやはりこちらは不利か。けれど、俺も無策で突っ込んだわけではない。
「『雨粒よ! 大事に恵みを齎す希望の雨よ! あらゆるものを穿つ剣となれ!』」
オリヴィアの詠唱と共に、凄まじい量の魔力が一体に迸る。はたして、その効果はすぐに現れた。
「雨が……氷柱に……?」
魔王の頭上に降り注ぐ雨が、一瞬にしても氷柱へと姿を変える。天高くから落ちてきた雨だった氷は、落下のエネルギーを使い存分に加速している。俺は素早く魔王から離れると、魔法の効果を窺った。
無数の氷柱が魔王の体に直撃し、白い霧が立つ。魔法の効果が終わったのを見計らった俺は、再び魔王へと肉薄した。オリヴィアの魔法の完成度は高かったが、これで仕留められたと慢心できる相手ではない。オスカーが離脱した今、俺が追撃をしなければ。
「オオオオオオ!」
最大の威力を叩き込むために、大上段に大剣を構える。助走の勢いを活かして、全力の一撃。しかし、返ってきたのは硬い感触だった。
「そんな甘い攻撃をするために、お前は人間と馴れ合っているのか?」
白い霧の先で、魔剣がギリギリと音を立てて俺の剣を防いでいた。
「メメさん!」
オリヴィアの鋭い警句が聞こえた直後、俺の上体は横殴りにされていた。
「ガッ……」
鳥が飛ぶような勢いで、吹き飛ばされる。その間、不思議なことに景色はスローに見えていた。降りしきる雨粒すら止まって見える。自分の吐き出した血が空中に止まっている。遠くで地べたに倒れ込んだオスカーを、カレンが必死に治療している。
そして、魔王は。ゆっくりと、だが確実に、魔法を放った直後のオリヴィアの元へと歩んでいた。
「──ッ」
その光景に、かつての光景がフラッシュバックする。血に塗れたオリヴィアの姿。死に別れた、恋人だった君。最悪の記憶。
「まだああああああ!」
空中で無理やり体を捻る。肋骨のあたりに、鋭い痛みが走った。でも、この程度で止まるわけにはいかない。
「『氷よ!』」
最短の詠唱で、最低限足場にするのに必要な氷を空中に形成する。それを踏みしめると、俺は空中で大きく軌道を変えた。
「ッ、アアアアア!」
もう一度、大剣を握りしめて突貫する。その先には、先ほど俺を吹き飛ばした魔王が堂々たる佇まいで俺を待ち構えていた。
「無理するな、小娘」
突き出した左手からは、真っ黒な光が爛々と輝いていた。
「『全てを飲み込む闇よ、外敵を吹き飛ばせ』」
一度魔術を使い、無防備に突っ込んでいた俺には、迫りくる黒い光を防ぐ手立てはなかった。闇と衝突すると同時に、俺の体には先ほどと同じような力がかかる。痛みと共に訪れる浮遊感。
まずい。このままでは、空高くまで打ち上げられてしまう。オリヴィアが、死んでしまう。
けれど、彼女はその状況を正しく認識していた。
「『草木よ、彼の者を捕らえたまえ』」
オリヴィアの足元から飛び出た蔦が伸びると、俺の体に巻き付いた。そのまま、俺の体はゆっくりと地面に降ろされた。
安堵の息を吐く。間一髪。あのまま魔法で吹き飛ばされていたら、今度こそオリヴィアが殺されていた。
「助かったよ、オリヴィア」
「いえ、当然のことをしたまでですから」
短く言葉を交わし、二人で魔王の次の行動を観察する。次はどんな攻撃を仕掛けてくるのか、予兆を見逃さないように観察していた。けれど、魔王はその場に立ち止まったままだった。
「ふふ……」
魔王は、肩を震わして笑っているようだった。
「ハッ……ハッハハハハ!」
やがて、それは哄笑へと変わった。
「助け合い! ああ、なんて滑稽なんだ、人間! 己が不完全な存在であるばかりに他人に頼るばかりで、しかもその弱点を美徳とまで捉えている。どうして自分たちが無能であることに気づけない? どうしてそれを恥じもせず生きている?」
魔王は、俺たちの行動はおかしくてたまらないようだった。
「人でもないアナタに何が……」
「オリヴィア」
憤慨する彼女の肩を、そっと支える。
「あいつは元人間だ」
「え⁉」
驚愕したオリヴィアが振り返る。
そして魔王は、俺の言葉がひどく気に入らないようだった。
「なぜ、貴様は私のことをそんなにも知っている。私の過去を知る者など、もはやいないはずだが」
「ハッ! 知っているとも。百年以上追い求めた相手だからな。小さな手がかりから全部見つけたとも。なあ、無口で不気味な変わり者の孤児、エマ」
俺が彼女の名前を呼ぶと、魔王は不快そうに顔を歪めた。
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