80 断罪は訪れた

 覚醒と同時に目に入ってきたのは、ちょうど俺の大剣と同じくらいの大きさの氷の刃だった。


「ッ!」


 反射的に突き出した大剣に、氷の刃が激突した。そのまま砕け散る氷。剣柄を握る手に、ビリビリという衝撃が伝わってきた。

 危機一髪だ。あと少し目覚めが遅かったら、あと少しあの夢から抜け出すのが遅れていたら、死んでいた。


「……どうして諦めていない?」


 驚きを隠せていない声だった。ロゼッタは、信じられない、という表情でこちらを見つめてきていた。まるで、死んだはずの人間が化けて出てきたのを見てしまったような顔だ。


「あり得ない! 貴様は確かに自らの業に押し潰されて精神の死を迎えるはずだったのに、なぜ!?」

「ああ、確かにそのはずだったな」


 確かに俺は、あそこで死ぬはずだったのだろう。

 あの夢のことを思い出す。

 俺が死なせてしまった人たちの白骨に囲まれた時を、思い出す。俺の罪は、俺には背負いきれないほどに深くて、膨大だった。

 オスカーの憎悪に満ちた顔を、思い出す。俺の原点とも言える彼からの否定は、俺の根幹を揺さぶった。

 全部が正しくて、全部が俺を否定していた。


「でも、救いはあった」


 体が今までになく軽い。背負っていた重荷を降ろしたような開放感があった。今なら、なんでもできる気がした。

 ロゼッタは、ぽかんと口を開けて俺を見ていた。その目は、信じられない、信じたくない、と言っているようだった。


「……救い! 救いだと! 私と同じ目をしているお前の口からそんな言葉が出てくるとはな! そんなものがあるはずはない! そんなものが存在していいはずがない! ──だって、私にはそんなものなかった!」


 悲痛で切羽詰まった言葉と同時に繰り出された魔法は、激情を表すように真っ赤な炎だった。

 けれど、今の俺にとってそれは脅威には映らなかった。


「『水よ! 燃え盛る炎を鎮めたまえ!』」


 放出された水が、炎を瞬時に掻き消した。俺の精神が安定したことで、魔法の威力も戻ってきている。

 同時に、ロゼッタの魔法の威力に陰りがあるように思えた。精神の不安定さは、魔法の発動に悪い影響を及ぼす。ロゼッタ自身が指摘した通りだ。


「クソ、往生際の悪い……私が言ったことを忘れたわけではあるまい! 貴様の業は、怨霊という形で貴様に……」

「ああ、もしかしたらそうだったのかもしれない」


 思い出す。悪夢の中での出来事を。俺を凄まじい形相で罵ってきたオスカーの姿。あれはきっと、俺に向けられた悪感情の集積だ。あのオリヴィアは否定したが、俺はロゼッタの言っていることも全く見当違いではない気がしている。

 俺は過去の経験から知っている。ロゼッタの精神干渉とは、要するに見たくないものの可視化だ。忘れたい記憶。嫌な思い出。そんなものを増幅して責め立てるようなものだ。俺の負い目が、見たくないものが集積したもの。それはきっと、怨霊と言えるものだったのだろう。

 自罰の地獄。かつて彼女は自分の堕とす悪夢のことを、そう呼称していた。


「でも、もういいんだ。自分を無意味に責めるのは、もうやめた」

「なに?」


 今までの俺なら絶対に吐けなかったようなセリフを、しみじみと呟く。ああ、こんなことを言えたのも、彼女のおかげだ。本当に、彼女にはどれだけ感謝しても足りないほどだ。

 穏やかな心情のままで、俺はロゼッタに問いかける。ずっと過去に囚われ続けている、俺によく似た暗い瞳をしたダークエルフへと。


「なあ、ロゼッタ。お前には、今のお前を受け入れてくれる人はいなかったのか?」

「──ッ!」


 その言葉を聞いた途端、ロゼッタの怒気がかつてないほどに膨れ上がった。四百年溜め続けた憎悪を凝縮したような、凄まじい感情のうねりが、肌をビリビリと刺激した。

 感情の昂りを表すように、質量すら感じるほどの魔力が渦巻き、ロゼッタの周りには不穏な風が集まり始めた。嵐の前兆のような、恐ろしい光景だった。

 やがて、それは爆発した。


「私をッ! 憐れむなあああああああああああ!」


 激情は、そのまま叩きつけられる炎へと変わった。津波のように襲い掛かって来た炎は、先ほどまでの炎よりも一層熱く、激しかった。

 でも、もう遅い。俺の仲間たちが炎の龍を攻略してこちらの援護に向かってきているのは、先ほど確認済みだ。


「オリヴィア!」

「ッ! はいっ! 『聳え立つ岩壁よ! 彼の者を守りたまえ!』」


 オリヴィアの生み出した岩壁が、俺の目の前に一瞬で立ちはだかり、業火を遮断した。


「カレン! 俺に治癒を!」

「うん!」


 これまでに受けたていた傷が塞がっていく。

 オリヴィアの魔法の守りを。そしてカレンの治癒魔法を信じる。俺は岩壁の頂上へと跳躍して、中空へと身を躍らせた。重力の力を借りた俺は、ロゼッタへと一直線に近づいていく。

 一瞬で炎を攻略して迫ってくる俺の姿に、ロゼッタが顔を焦りに歪ませた。けれど右目の不気味な光は、衰える様子はない。


 先ほどまでとは一転、有利に立った俺だが、慢心はできない。かつての経験から、俺は知っている。本気を出し、魔眼を使用しているロゼッタは、魔法で相手の思考すら読み取れる。


 ロゼッタの輝く目、魔眼は神謹製のものだ。その効果は、人間如きが及びものではない。接近戦を挑めば、魔眼に思考が全て読み取られてしまう。だから、剣は見切られて簡単には当たらない。──でも、同じ神の道具を持てばその限りではない。

 チャンスは一度きり。そして、ロゼッタが動揺している今が、最大の好機だ。


 はるか後方、負傷した足を引きずりこちらに近づいてきているオスカーに、叫ぶ。


「オスカー! 聖剣を! 俺に!」

「う、うん!」


 逡巡の後、俺の切羽詰まった声に背中を押されたオスカーは、俺に向かって聖剣を放り投げた。


「おおおおお!」


 俺は、手元にダイレクトに飛んできた聖剣を掴む。瞬間、手に信じられないほどの熱を感じた。聖剣の拒否反応。勇者の残滓である俺は、聖剣の正当な持ち主ではない。それでも。


「お前を殺すには、これで十分だああああああ!」


 詠唱すら唱えず、慣れ親しんだ聖剣の権能を行使する。使うのは断罪の権能。魔に属するものを悉く滅する、神の刃だ。

 俺の手の内収まった聖剣が、黄金色の輝きを増していく。神に造られ人の世に堕とされた道具が、神の位階へと戻っていく。その神々しく美しい光の前には、この世のあらゆるものが無価値にすら感じられた。

 そんな黄金色の輝きに相対したロゼッタが、眩しそうに目を細めた。


 その目には、もう憎悪は映っていないように見えた。


「せめて、死がお前の復讐の終着であるように」

「──あ」


 驚くほどにすんなりと、刃はロゼッタの首を両断した。疑う余地もない致命傷。

 落ちた首が地面をコロコロと転がり、俺の足に軽くぶつかった。それを見下ろす。ロゼッタの表情は、殺された者のものとは思えないほどに穏やかだった。

 ──終わった。ロゼッタを、倒したんだ。


 かくして、叛逆神に従い罪人となったダークエルフは、正義の女神の刃の元に、その400年の命に幕を下ろした。

 やがて俺の手から、聖剣がポトリと落ちた。聖剣の拒否反応で焼け爛れた手では、もう剣を持つことはできなかった。

 散々戦ってきた強敵との最期の別れに、俺は静かに言葉を紡いだ。


「……お別れだ。俺とよく似た復讐者。お前は確かに人間に復讐する権利があったかもしれない」


 ロゼッタの過去を知ってしまった俺には、その思考を否定することはできなかった。きっと故郷を追われ、母親を無惨に殺されたロゼッタには、人間を断罪する権利があった。そのこと自体は否定しない。


「──でも、未来は、未来を向いている者のものだ」


 今までの俺と同じく、ロゼッタは過去に囚われ続けていた。復讐に四百年も拘泥していた。そんなロゼッタに、まだ見ぬ未来を楽しみに日々を過ごす人間の可能性を閉ざさせるわけにはいなかった。


 くるりと振り返ると、驚いたような顔をした仲間たちの姿があった。


 晴れ晴れしい気持ちで、俺は言った。


「帰ろう」



 ◇



 迫りくる聖剣の神々しいまでの光を見た瞬間、ロゼッタは自分の死を直感的に悟った。ああ、きっと復讐という間違った道を進んだ私は、あの正しすぎる光に裁かれるのだ、と。


 死を悟ると、迫りくる刃が急激にゆっくりに見えてきた。同時に、ロゼッタの脳内には過去の記憶が走馬灯のように駆け巡った。


 母との楽しい日々の記憶。幸福だった村での暮らし。

 それがたったの一日で奪われたしまった日の記憶。

 復讐の日々の記憶。人間を殺すたびに、ロゼッタはいつも高笑いをしたが、本当に楽しかったのか、今となってはもう分からなかった。

 そして、今代の魔王との出会い。魔族の内でも恐れられていた強者であるロゼッタを、あっさりと平伏させた圧倒的実力者。けれどその瞳は、ロゼッタと同じく暗く冷たかった。──思えばあれは、ロゼッタと同じ復讐者の目だったのかもしれない。

 最後に、ロゼッタの秘術を打ち破り、今まさに聖剣を振り下ろそうとしている、メメと言う名の少女。その魂には勇者としての記憶が宿り、その力の残滓を振るい、ロゼッタを追い詰めた。

 最初にその目を見た瞬間、ロゼッタは鏡でも見ているような気分だった。暗く沈んだ目。己を仇として、捨て身の攻撃をしてくる苛烈な姿。その姿は、人間に復讐するロゼッタの姿によく似ていた。無意識のうちに、ロゼッタは少女に親近感にも似たものを覚えていたのかもしれない。


 だからこそ、許容できなかった。そんな少女が夢から覚めた時、過去のしがらみから解放されたような顔をしていたこと。穏やかな表情で、救いは存在したと語ったこと。

 だってそれは、ロゼッタはどれだけ望んでも得られなかったものだ。自分によく似た少女だけが、それを手にした。赦せなかった。思えば、1人の人間にあそこまで大きな感情を抱いたのは初めてだったかもしれない。


 刃がゆっくりと迫る。死をもたらす断罪の剣が、ついにロゼッタの首に触れた。

 最後にロゼッタが思い出したのは、故郷や母のこと、復讐のことではなく、魔王のことだった。──思えば、ロゼッタは魔王にもまた親近感に似た感情を覚えていたのかもしれない。復讐者の、過去に囚われた者の目をした魔王に。

 四百年の生が終わる瞬間、ロゼッタは魔王への警句を浮かべていた。


 ああ、我らの美しくも恐ろしい王よ、気を付けろ。──勇者は、二人いる。

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