第58話 僕だけの和水さん③


「なぁ鼻血君。どうやってあの和水さんと仲良くなったのか、俺らにも教えてくれよ」


 そう言われた時、僕は心の底から教室を出てしまった事を後悔していた。


 いや、もう廊下で待ち構えられていた段階で既に後悔はしていたけれど、今はそれに輪をかけて陰鬱な気分にならざるを得ない状況だ。


 後悔してもしきれないとはこの事なのだろう。


 恐る恐る顔を上げれば、ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべている奴らが僕を取り囲んでいた。


 まるでトイレを占拠しているかのようなその様子を見れば、どう考えても僕が連れて来られるのを待ち構えていたという事なのだろう。


 横目で出口を確認すると、既にトイレのドアの前にも一人立ちふさがっていた。


 つまり、僕はもう逃げ道を塞がれてしまったという事。


 これだけ動きが徹底しているという事は、きっと突発的な行動というわけではなく、ある程度の作戦の元に動いていると思っていいだろう。


 そして、もう僕は相手のテリトリーに連れ込まれてしまった後だ。


 ここから逃げ出せる確率は絶望的に低いと言っても過言ではない。


 気分はまるで、潜入捜査中に見つかってしまったエージェントだ。


 凄腕エージェントでもない僕には、この状況から逃げ出せるような力や技術は何もない。


 しかもだ。最悪なのは僕をここに連れて来たピッチャー君が言った言葉だ。


 彼は今、どうやって和水さんと仲良くなったのかと、そう聞いてきた。


 よりにもよって出て来たのが、あの和水さんなのだ。


 彼が知りたいのは、和水さんとどうやって仲良くなったのか。


 つまりは、彼の目的は初めから和水さんだったのだ。


 さらに言えば、ここに居る他の連中の目的もたぶん同じなのだろう。


 全員が和水さんを狙っていて、そのために僕をここに連れ込んだという事。


 この状況は僕が極限までネガティブ思考よりになって考える中でも、他の追随を許さない程の最悪シナリオだった。


 僕は初め、廊下で彼が待ち構えていたのは、昨日僕が和水さんに保健室へ連れて行ってもらった事を羨んでの事だと思っていた。


 結果的にはそれも間違いではないのかもしれないけれど、僕はそこからを見誤っていたのだ。


 僕は単に、彼が和水さんに構ってもらえた僕に嫉妬してやって来たと思ったのだ。


 だからトイレに連れて行かれて調子に乗るなよ、とか凄まれるか、もう少し酷ければ暴力をちらつかせて、和水さんに近づくなと脅されるのかと思っていた。


 今になって考えれば、それだけならどれほどよかった事だろうか。


 怖いのはその時だけ我慢すればそれでいい。これまでの人生で僕はそういう目に何度かあった。


 その度になるべく早く解放してもらえるように、ただ下手に出て地面に這いつくばっていた。


 今更プライドなんてない。喩えトイレの床でも気にしない。


 僕は当然のように今回もそうするつもりだった。


 けれど、事はそんなに単純なものではなかったのだ。


 相手の目的は僕をボコる事じゃなく、和水さんに近づく事だったのだから。


 最悪だ。


 考えうる限り本当に最悪の展開だった。


「おい、何黙ってんだよ? 耳聞こえねぇのか、あぁ?」

「ビビってんだろ、あんま脅かしてやるなよ」

「そうだぞ、顔青くして可哀そうじゃねぇか。なぁ安心しろって、別に何もしねぇからよ」

「あぁそうだぞ。俺たちは和水さんと仲良くなりたいだけだからな」


 固まったままの僕に痺れを切らしたのか連中が騒ぎ出す。


 確かに僕はこの状況にビビっている。


 そこは潔く認めるけれど、黙っていたのはただビビっていたからではない。


 こんな連中を和水さんに近づけたくなくて、どうにかして逃げ出せないか考えていたからだ。


 といっても、相変わらず肩を組まれたままで、トイレの出口も塞がれているからにはどうしようもなかった。


 僕は訓練を積んだエージェントでもなければ、助けてくれる凄腕のオペレーターもいないのだから。


「というわけでさ、俺たち皆和水さんと仲良くなりたくてよ。鼻血君にどうすれば仲良くなれるのか聞きたいだけなんだよ。教えてくれたらすぐ教室に戻っていいからさ、サクッと話しちゃってくれないか?」


 ピッチャーの、名前は相変わらず分からない彼が馴れ馴れしく顔を寄せて来る。


 息が臭くて僕は思わず鼻をつまみそうになったけれど、そこは鋼の意志で我慢した。


 この状況で相手を煽ってもいい事はないからだ。


 顔が近い彼は一見にこやかな笑顔を浮かべている。


 けれど、その表情の裏側では完全に僕を見下しているのだろう。


 こんな奴らを和水さんに近づけたくはない。


 大方、昨日和水さんが僕を保健室に連れて行ってくれたから、それを見ただけでこんな事をしているのだろう。


 それだけなら何とでも言い逃れられるはずだ。


 そう考えた僕は、適当にしらばっくれてこの場を逃れる事にした。


「な、和水さんって、あの不愛想で怖いギャルの、あの和水さんですか?」

「おぅそうだよ。他にいないだろ和水なんて名前の子」

「あは、ははは、あの、じゃあ僕なんかに聞かれても分かるわけないじゃないですか」

「ん? なんでだよ?」

「だって僕は、その、チビでクラスでも目立たない陰キャですよ? そんな僕が和水さんと仲いいわけないですよ」

「そういうのいいからさぁ、昨日もわざわざ保健室に連れて行ってもらってたろ?」

「あれは単に和水さんが保健委員だからですよ」


 このまま適当に言い訳を続けていれば、きっとそのうち期待外れだと解放してくれるはず。



 そう思っていたのに。


 そんな僕の考えは、どうしようもなく、甘いものだったのだ。


「そうかそうか…………とぼけてんじゃねぇぞオイ」


 今まで表面上だけは友好的に振舞おうとしていた彼ら。


 けれど、その瞬間にトイレの空気がガラリと変わった。


 もはや気持ち悪い笑みを浮かべている人は一人もいない。


 全員が眉間に皺をよせて、僕をこれでもかと睨みつけて来る。


 他クラスの男子に囲まれて睨みつけられる圧力といったら、もう少しでぺちゃんこに潰れてしまいそうな気がする程だった。


「と、とぼけてなんか、ないですよ」


 僕が言えたのはそれだけ。


 むしろ下手な事は言わないように口を開くのは最低限だ。


 いくら凄まれても、今ある事実は保健委員に保健室に連れて行ってもらった事だけ。


 僕が和水さんに仲良くしてもらっている証拠は何もないのだから、このまま白を切れるはずだ。


 そのはずだった。けれど、



「俺たちな、昨日見たんだよ。お前が和水さんと手を繋いで帰って行くところをな」


 その言葉は、僕にとって事実上の死刑宣告と同義だった。

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