第57話 僕だけの和水さん②


 昨日は鼻血を出して倒れたけど、和水さんのおかげで最終的にはいい一日だった。


 今日も、寝不足の僕を励ましてくれるような朝日を見て、きっといい日になるんだと、そう思えたはずだったのに……。


 トイレに行こうと教室を出た僕は、すぐに自分の行動を後悔する事になった。


 何故なら、


「よぉ! 昨日は悪かったな、もう鼻血は止まったのか?」


 昨日僕の顔面にボールをぶつけてきた隣のクラスのピッチャーが、満面の笑みで僕を待ち構えていたからだ。




 薄ら笑いを浮かべているピッチャーが馴れ馴れしく近づいてくる。


 ちなみに、僕は当然のごとく彼とまともに会話をした事もないし、名前を直接聞いた事すらない。


 クラスメイトの男子ともまったく会話をした事がないから、違うクラスの彼と会話をした事がないのはある意味僕にとっては当然の事だと言えるだろう。


 多分、というか絶対に彼も僕の名前は知らないはずだ。


 つまりは僕と彼の接点を上げるとすれば、体育の授業で少し顔を合わせる程度。


 そして、当然これまでの授業で会話をした事は一度もない。


 昨日の体育の時のように、あからさまにバカにされているのはこれまでも感じていた。


 けれど、こうして直接声をかけられるのは初めての経験だった。


 彼がどうして急に声をかけてきたのか、僕にはまったく見当もつかない。


 普通に考えるなら、昨日顔面にボールを当ててしまった事を心配してやって来たという事なのかもしれないけれど、にやにやと小馬鹿にしたような笑みを浮かべている彼からは、とても心配とか謝るといったような謙虚な雰囲気は感じられなかった。


「もう鼻にティッシュ突っ込んでないのか? あれ結構似合ってたぞ」


 どうやら僕の見立ては当たっていたらしい。


 見た感じの態度がもう心配している人のものではなかったけれど、今の言葉で彼が謝罪をしに来たわけではないという事がはっきりした。


 鼻血が出ていたのは昨日だ。今日になってもティッシュを突っ込んだままでいるわけがない。


 それくらい考えなくても普通に分かる事だろう。


 それが分からないっていう事は、高校生としての頭脳を持ち合わせているとはとても言えないという事。


 つまりは、おバカさんだと自ら言いふらしているようなものだ。


 随分と可哀そうな脳をお持ちなんですね……なんて言えたら大した度胸の持ち主だと言えるだろう。


 もちろん僕にはそんな度胸なんて欠片もない。


 チビで変態の童貞だから当然だ。


「あは、はは、流石にもう止まったから」


 完璧にバカにされている事が分かっていながらも、こうして当たり障りのない返答しかできないのが陰キャの悲しい性。


 当然のように相手の目を見る事なんてできるわけがない。


 床に視線をおとした僕の視界には、相手の足だけしか見えていない。


 それでも、僕には彼がどんな表情をしているのかが手に取るように分かる気がした。


 きっと何も言い返せず俯くことしかできない僕を嘲笑っているのだろう。


 別に悔しくはない。


 こんな事はもう慣れっこだから。いちいち気にしていたらキリがない事くらいもう充分に学んでいる。


 だから僕はいくらバカにされても気にしない。


 へこへこと下手に出て、笑って聞き流していればいつかは終わる事だ。


 そう自分に言い聞かせ、僕は必死に愛想笑いを継続する。


「いやぁ、マジで似合ってたからもったいないなぁ」

「そ、そうかな……あ、じゃあ僕はこれで」

「おっと、まぁ待てよ鼻血君」


 早々と会話を切り上げて逃げようとしたけれど、脇を通り抜ける前に捕まえられてしまった。


 どうやらただ単にバカにしに来たわけではなく、すぐに解放してくれる気はないらしい。


「俺はさぁ、昨日の事悪かったなぁって思って心配してさ、こうしてわざわざ来てやったんだ。もうちょっと付き合ってくれてもいいだろ、な?」


 馴れ馴れしく肩を組まれ、遠慮なく肩を叩かれる。普通に痛かった。


 パーソナルスペースを知らないのかと、加減もできないバカなのかと、妄想の中だけで睨みつけた。


 もちろん現実の僕は情けない愛想笑いを続けている。


 意気地なしだと言われても仕方ない。けれど、これが一番穏便に済む方法だという事は今までの経験で知っている。


 自分からわざわざ危ない道を進む程僕はバカじゃないから、少しバカにされたくらいじゃ怒る必要もない。


 そう、僕はこのバカとは違うのだから。


「えっと、どうもありがとう。でも、もう鼻血も止まったし気にしないで」

「そう言うなよ。言ったろ、わざわざ来てやったんだって。ちょっとくらい時間くれよ」

「あの、でも僕これからトイレに行こうと思って急いでて」

「お、マジ!? 丁度いいじゃん。俺もさぁトイレ行こうと思ってたんだよね。せっかくだし一緒に行こうぜ、な?」


 そう言うと、彼は僕の返事も待たずに歩きだした。


 結構ガタイのいい身体をしている相手に、チビの僕はまったく抵抗する事も出来ず、引きずられるようにして一緒に歩き出すしかなかった。


 内心すぐにでも離れて欲しかった。


 男に肩を組まれても何も嬉しくない。


 これが和水さんだったら、あの大きな胸の感触を感じられて幸せだったのに……そんな現実逃避をしている間に、気付けばもう近場の男子トイレに連れ込まれていた。


「お~い、連れてきたぜ」


 そんな言葉を不審に思って顔を上げれば、トイレには数人の男子がたむろしていた。


 全員が見た事のある顔。どこで見たかと言われたら、それはもちろん体育の授業。


 つまりは、僕をここに無理やり連れて来た彼のクラスメイト達が、トイレで僕を待っていた。


 脳内で五月蠅いほどに警鐘が鳴り響く。


 すぐにここから出なければ、何か大変な事に巻き込まれてしまう。


 そんな事は分かっているけれど、がっちりと肩を組む彼が僕を離してくれそうになかった。


 僕は今、きっと青ざめた顔をしているに違いない。


 そんな僕とは反対に、待ち構えていた彼らは何やら上機嫌な様子だった。


 にやにやと笑う彼らが何を考えているのかは分からないけれど、その様子を見てますます嫌な予感が高まって来る。


 そして、僕の予感は残念な事に外れてはくれなかった。



「なぁ鼻血君。どうやってあの和水さんと仲良くなったのか、俺らにも教えてくれよ」


 気持ち悪い笑みを浮かべて覗き込んでくる彼は、まるで悪魔のように醜悪だった。

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