第49話 僕なんかの家にいる和水さん⑭
「お待たせ~」
そんな軽い口調の和水さんとは反対に、僕はといえば緊張が上限を突破して少し吐きそうだった。
たぶん今の僕は興奮のしすぎで、かなり血圧が上がっているだろう。
高血圧の人もびっくりさせるくらいに高まっている自信はある。
どくっ、どくっ、とおでこの辺りの血管が脈打つ感覚が分かるのだ。
このまま興奮状態が続けば、間違いなく頭痛がしてくるに違いない。
それは嫌だからなんとか冷静になって落ち着きたいとは思うけれど、それは到底無理な相談だった。
だって、だって、今僕の後ろには、たぶん裸の和水さんがいらっしゃるに違いないからだ。
この狭い浴室にクラスメイトの女の子と二人きり。
もっと正確にいえば、裸の和水さんと二人きり。
それで童貞の僕にどうやって落ち着けというのだろうか。
どう考えても無理だ。無理なものは無理だ。
「……何してるのそれ?」
すぐ後ろから和水さんの怪訝そうな声が聞こえてくる。
声が聞こえたのは本当にすぐ後ろだ。
間近に裸の和水さんがいると意識した僕の心臓は、さらに激しく鼓動を早める。
「え、そ、それとは?」
「顔。なんでタオル巻いてんの?」
「ぁあ、え、これはあれです。な、和水さんのお身体を見てしまわないように、僕なりに考えた結果といいますか」
というか、そんな事を説明させないで欲しい。
むしろ何で和水さんは不思議そうな声なのだろうか。
僕が冴えわたる機転でこうして顔を覆っていなければ、今頃はその豊満なお身体を僕に見られているという事を理解していないのだろうか。
まぁ顔全体をタオルで隠す必要はなかったかもしれないけれど、そんなふうに言われてしまうと、むしろ見ていいんですかと聞きたくなってしまうというのに。
「苦しくないの?」
「苦しくは……まぁ大丈夫です。鼻がつまってるような感覚ですけど」
「そうなんだ。じゃあまずは髪から洗っていくから」
「あ、はい、お願いします……」
「え~と、シャンプーは、これね」
「…………ん?」
そこで僕はとんでもない違和感に気が付いた。
何か今、僕はサラッとすごい会話を和水さんとしてしまわなかっただろうか。
僕の妄想や聞き間違いでなければ、和水さんは今、僕の髪を洗ってくれると、そう言わなかっただろうか。
「あ、あの、和水さん?」
「ん、なに~?」
「いえ、え? 僕の髪を洗うんですか?」
「うん。じゃあシャワー出すね」
「あ、あ、あ、ちょ、ちょっと待って――」
僕の言葉は、流れ落ちる水音でかき消された。
足元を温めのお湯が流れていくのを感じる。
きっとはじめのうちはまだ身体に当たらないように和水さんが気を遣ってくれているのだろう。
その心遣いにぜひ高評価を送りたい。
「あったかくなったし、流すよ」
「いや和水さんちょっと待ってください! どうしてそんな、僕の髪を洗おうとしてるんですか!?」
「何でって、さっきも言ったじゃん。今日は一人だと危ないから一緒に入ってあげるって」
「それは聞きましたよ! でも、髪まで洗ってもらうのは悪いというか、そこまでしてもらう必要はないといいますか! むしろ今になって思えば、一緒に入らなくても近くで見守りとかでいい気がしてきたんですけど!」
「何言ってんの? そうやって油断してるとさぁ……死ぬよ?」
「いや死にませんよ! 何で今日はやたらとそれで脅してくるんですか!?」
「はい、じゃあ流しますね~。シャワー熱かったら声をかけてくださいね~」
「あぁん! 聞いてない!」
躊躇なく浴びせられるシャワー。
女の子に頭から熱いお湯をかけられるだなんて、なかなかに悪くないシチュエーションなのかもしれない。
すぐに頭皮に気持ちいい刺激が走る。
この刺激の元は、和水さんのお手てだろう。
何の躊躇もなく、和水さんは僕の髪を本当に洗ってくれているらしい。
和水さんの指が僕の髪をかきわけ、頭皮の上を細かく動き回る。
それのなんと気持ちよいことだろうか。
ヘッドスパ、とは違うか、まぁ僕はやった事はないけれど、ああいうのに何度も通う人の気持ちが分かったような気がする。
人に髪を洗ってもらうのがこんなにも気持ちのいいものだったとは、僕の人生で一番の発見だ。
いや、この気持ちよさは和水さんだからこそなのかもしれない。
和水さんの繊細な手つきで、僕の頭皮の血行が促進され、溜まった老廃物が流れ落ちていく。
あまりにも気持ちよいこの刺激に、僕は眠りにでも落ちてしまいそうだった。
「痒いところがあったら言ってくださいねぇ~」
心なしか和水さんの声も少し弾んでいるように聞こえる。
なんだか楽しそうな和水さんに、僕はもう少し左を、と図々しくも頼もうとして――
「――んん!?」
――大変な事に気が付いた。
「痒くない? じゃあシャンプーするねぇ」
「む、ぅ、む、ぅ」
息が出来ないのだ。
しかもうまく喋れない。
さっきまでは鼻づまり程度の息苦しさだったのに、今はあの頃が比にならない程息苦しさを感じる。
顔に巻いていたタオルが水を吸って張り付き、空気を通しにくくなっていたのだ。
「ぅんむぅ、ぁあ」
「はいはいシャンプーですよぉ。気持ちいいですかぁ?」
「あっぷぁ、んん!」
「アッハハハ! 全然ない言ってるか分かんないって」
「んぅんん! むぁんんん!」
僕は慌てて口元のタオルをめくった。
その、つもりだった。
けれど、慌てていた僕はどうやら少しだけタオルをめくりすぎてしまったらしい。
いや、決してわざとではないんです。
生命の危機にさらされて、心底慌てていただけなんです。
だから、僕が目元までタオルをめくってしまったのも仕方のないことですし、そのおかげで目の前にある鏡が見えたのだって、言ってしまえばただの偶然なのです。
喩えその鏡に、裸の和水さんが映っていたとしても……事故という事で、許されはしないでしょうか?
「はぁい、流すよ~」
頭から流れて来るお湯で、めくれていたタオルが下がり、視界が塞がれる。
鏡が見えていたのは、本当に一瞬だった。
しかも、悔しい事に鏡は湯気で曇ってしまっていた。
僕がはっきりと見えたのは、和水さんの顔と、首元、それから胸の付け根あたりまで。
肝心な部分を見れなかった悔しさと、見てしまわなかった安心感を同時に味わった僕は、しばらくは頭皮に感じる気持ちのいい刺激に身を任せていた。
これからもっと不味い事が起きるとも知らずにだ。
「じゃあ次は身体ね」
「…………は!?」
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