第11話 根拠③ 勉強を教えてくれる和水さん②


 ――ボソッとした呟き。けれど僕の耳ははっきりとその声をとらえた。


 伊刈さんも目の前で笑顔のまま固まっている。まるで空気ごと凍り付いてしまったような気がした。


 訪れる一瞬の静寂が痛い。




「……それじゃ、宿題はよろしくね馬締君!」

「ぇ、ぁ、うん! 伊刈さんは予定大変そうだから身体に気を付けてね」

「うん、ありがと!」


一時はどうなることかと思ったけれど、幸いなことに先ほどの呟きは伊刈さんには聞こえていなかったらしい。


 伊刈さんは可愛らしく手を振ると、笑顔のまま離れて行った。


 伊刈さんが充分に離れてから僕はホッとして胸をなでおろした。


 あれが聞こえていたらどうなっていたかと考えると、今でも冷や汗が出てきそうだ。


 僕は呟きの発信源をチラリと横目で見てみた。


 隣の席の和水さんはいつものように窓の外を見ていた。気だるそうに頬杖をつき、重い大きな胸を机に載せて、机の下では大胆に足を組み、立派な太ももをさらけ出している。


 その姿は何らいつもと変わりない。


 周りに一切の関心を示さないその様子は本当にいつも通りすぎて、さっきの呟きがまるで僕の幻聴だったかもしれないとすら思えてくる。けれど、たしかに聞こえたのだ。


 確かに和水さんはいつも伊刈さんのことをクソチビビッチと言っているけれど、本人の前で言ってわざわざ自分から他人を関りにいくような人でもない。


 どうして和水さんは急にあんな挑発的なことを言ったのか、僕はそれなりに気になっていたけれど、和水さんのムチムチとした太ももをチラ見しているうちに、何を気にしていたのかすら忘れてしまった。




「くっ……僕は、僕はなんて役立たずなんだ!」


僕は今、自分自身に酷い憤りを感じていた。


 放課後、僕の他には誰もいない教室で頭を抱える。


 机には数学の教科書とノートを広げ、飲み物も買ってきて長時間勉強に取り組む準備もバッチリ整えた。


 そう、僕は帰る前に今日出された数学の宿題を片付けてしまうつもりだったのだ。


 どうして学校でやってしまおうと思ったかと言えば、伊刈さんのノートを家に持って帰るのが憚られたからだ。


 伊刈さんのノートはなんてことはない普通のノートだった。


 ごく普通のどこにでも売っていそうな物で、僕の持っているノートと比べてもメーカーが違うくらいで、他は何も変わらない普通のノート。


 だというのにそれが伊刈さんのものだと考えるだけで、僕の目には普通のノートには見えなくなったのだ。


 かるく開いてみると細々とした文字が書いてある。もうこの時点でノートが可愛らしく見えるわけだ。


 そして普段からこのノートを伊刈さんが触っているのかと思うと……僕は自然と生唾を飲み込んでいた。


 童貞なので仕方ないけれど我ながら気持ち悪かった。


 そんなわけで伊刈さんのノートを家にまで持って帰ってしまうと、自分の部屋に伊刈さんがいるような気がして緊張しそうだったから、学校で宿題を終わらせてしまおうと考えたわけである。


 帰る前に終わらせれば、後は伊刈さんの机にいれておけばいい。そうすれば家に持ち帰らなくてもいいし、僕には完璧な作戦のように思えた。


 けれど僕はある決定的な見落としをしていたのだ。


 そのせいで、今僕はどうしようもない程の壁にぶつかってしまっていた。



「……全然、分からないッ」


そういえば僕は致命的に数学が苦手だったのだ。


 宿題で出された範囲の問題がまったく分からない。


 なぁにが全問正解で終わらせておきますだ。これじゃあ一問でも正解できるか怪しいレベルだ。


 下手をすれば逆に全問不正解もありえるし、なんなら答えを出すところまでいけない問題も多々ある。


 少し前に戻って、得意げになって引き受けていた自分を殴りつけてやりたい。


 それか恥ずかしいけれど、数学が苦手なことを伊刈さんに申告して、他の人に頼んでもらうか……。


 まぁ過去に戻ってもその度に舞い上がって引き受けてしまいそうな気がするから無意味かもしれない。


 今更後悔してももう遅いのだ。


 過去に戻ることなんてできないし、もう引き受けてしまったからには、僕に残された道は自分で頑張るしかない。


「……あ、これはなんか分かる気がする!」


気持ちを切り替えて集中したおかげか、僕はやっと一問解くことができた。


 嬉しかったけれど、一問にどれだけの時間を使ったか考えると先が思いやられた。宿題の範囲は広いのだから。


「それ間違ってるよ」

「え、ホントですか?」

「途中で計算ミスってるから」

「ど、どこだろ」

「ここ」

「……あぁ、ホントだぁ」


しかも自信を持って解いた問題すら不正解。


 本当にヤバイ事態だ。これでは明日、伊刈さんに幻滅されてしまうのが確定路線に入ってしまったようなものだ。何とかしなければ……


「……あれ?」

「どうしたの?」

「いや、あの、和水さん?」

「そうだけど」


いつからいたのだろうか。隣の席で和水さんがスマホをいじっていた。


 あまりにも自然に指摘されたから反応が遅れてしまったけれど、和水さんは当然のように隣に座っている。


 宿題を始めた時は確かにいなかったはずなのに、問題に集中するあまり和水さんの存在に気が付かなかったらしい。


 それだけ僕は切羽詰まっていたということなのだろう。


「あ、あの、どうしてここに?」

「私の席だから」

「いえそうではなくて、もう帰っていたはずじゃ?」

「まぁいいじゃん。それよりなんで残って宿題してんの?」

「え、あぁ、これは伊刈さんの分のなので、家に持ち帰らずにここで机に返しておこうかと」


「チッ……クソチビビッチのか」

「ひぇ」


伊刈さんの名前が出ると瞬間的に鬼のような形相になる和水さんは全然和んでない。僕は前から気になっていたことを恐る恐る聞いてみることにした。


「あの、伊刈さんとはその、仲が悪いのですか? 嫌いとか?」

「……別に。ただ自分の宿題を他人にやらせてるなんて最低だと思っただけ、絶対毎回人に押し付けて自分でやったことなさそう」

「は、はぁ、なるほど」


和水さんは別にと言うけれど、聞いている限りでは結構嫌いそうだと思った。


 誰が好きで誰が苦手とかは個々人の感情で、他人が口を出すことでもないけれど、和水さんと伊刈さんは、クラスでは僕なんかに話しかけてくれるたった二人だけの女の子だ。


 そんな二人があまり険悪なのもなんとなく居心地が悪い気がして、僕は少しだけ伊刈さんのフォローをしておくことにした。


「あの、一応なんですけど、伊刈さんに宿題を頼まれたのは今日が初めてですよ。たぶん、いつもは自分でやってるのではないかと思います、はい」

「……へぇ、そうなんだ」


それだけ言うと何やら考え込んでしまった和水さん。


 伊刈さんを庇ったから怒らせてしまったのだろうか。僕はハラハラして宿題がもう手に着かなくなってしまった。


 こういう時はとりあえず謝る。それが日陰者の作法だ。


「あの、すみませんでした!」

「何が? それより宿題進んでるの?」

「あ、いえ、実は僕、数学が終わってるレベルで苦手なので、今のところはまったく進んでません」

「そんなに数学苦手なんだ?」

「はい、もう何よりもどの教科よりも苦手です」

「そっか、なるほどね……わかった、手伝ってあげる」

「え、いいんですか?」


正直和水さんが何に納得したのか分からなかったけれど、今回は素直に嬉しかった。


 僕一人では終わらせることがほぼ不可能だったから、和水さんが教えてくれるというのなら渡りに船だ。


「わからないところ教えてあげるから」

「ホント助かります! ありがとうございます!」

「その代わり、あのクソチビビッチには私が教えたこと絶対に言わないで、それが条件」

「は、はぁ、まぁ教えてもらえるならそれくらい」


和水さんが出した条件の意味はよく分からないけど、もはや死活問題だった僕は深く考えることもなく飛びついた。


 正直、明日になったら伊刈さんに土下座を覚悟していたくらいだから、それを回避できるならどんな条件でもいい。


 むしろ伊刈さんのことが嫌いそうなのに、それでも教えてくれるなんて和水さんは根は優しい人なのかもしれないと思った。

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