妄想

あべせい

妄想



「これ、買って欲しいンだけれど……」

「待ってください。これは、ぼくがあなたの誕生日プレゼントにと、定価の半額でお売りしたものでしょう?」

「そうだった?」

「半額はぼくが負担して。全額負担でもよかったけれど、金額が多くなって、あなたの心の負担になったら、いけないと思ったのです」

「そんな気遣いはいらないけれど……。そうだったの」

「そうですよ。もう忘れたのですかッ。まだ1年もたっていない」

「だって、エンジンがかからないのよ。やってみてよ」

 2人の前には、真っ赤なバイクがサイドスタンドを支えに、斜めに立っている。

 塗装の具合からみて、まだまだ新車同然と言ってよい。

「エンジンがかからないって、そんなはずはないンですが……。この前、ぼくが乗ったときは快調だったンだから……」

 久嗣(ひさし)は、グース350にまたがり、スタンドを蹴り上げる。そして、手馴れた動作で、エンジンキーを回す。

 しかし、セルのモーター音はするが、確かにエンジンはかからない。

「でしょ? 壊れているのよ。だから、買って欲しいの」

「ちょっと、それは……。ぼくが自分のお金を出して、定価の半額で買ったバイクですよ。本当はぼくが欲しかったンです。そのバイクを、ぼくに売るというのは、論外でしょッ」

 久嗣は、グースにまたがったまま、恋人の真咲(まさき)を見つめる。

 真咲は、28歳。久嗣より1つ上だ。

 久嗣はバイクショップで働いている。

 真咲はそこに来たお客で、昨年の秋に、久嗣と知り合った。知り合ったが、つきあいとしては、まだ手も握ったことがない。

 真咲はクリニックに勤務している。しかし、久嗣は実際に真咲の仕事ぶりを見たことはない。2人は、まだその程度の仲だ。

 久嗣はプレゼント攻勢でハートを射止めようとしているが、プレゼントの数はふえても、真咲の色よい返事は、一向に増えない。

「ここは、あなたのマンションの玄関前です。ここではまずいから、これから店に行って、修理に出します」

「久嗣が直してくれるの?」

「それはわかりません。テクニカルスタッフは、ぼくのほかに6名いますが、だれが扱うかはローテーション次第です」

「だったら、修理代、とられるじゃない」

「それは仕方ないでしょ。所有者が負担するのが、世の中の……」

 と、真咲が遮るように、

「久嗣……」

「エッ?」

「わたし、いま、手元不如意なの」

「不如意? お金がないということですか」

「余り大きな声を出さないで。だから、バイクを手放そうと決心したのよ。まだ、わからないの?」

「エ?」

「このグース、久嗣が乗りたいと言っていたじゃない。だから……」

「自分のバイクにしろ、っていうのでしょ。あなたの考えは、はなからわかっていました。いいでしょ……」

 その途端、真咲の眉が吊りあがる。柳眉を逆立てる、というやつだ。

「久嗣ッ、あなた、わたしをバカする気ッ! わかっていて、無駄話をさせたのね!」

 久嗣は慌てた。ふだんは温厚な真咲だが、一度怒らせると手がつけられなくなる。

「ごめんなさい。真咲さん、ぼくは、決して……」

「決して、なにヨ!」

「決して、あなたを不幸にはいたしません!」

「だったら、このバイク、買ってくれるのでしょう……」

 真咲の目が急に柔らかくなる。

「勿論です。ぼくが修理して使います」

「いいわ。これで交渉成立ね。でも、このグース、動かないのをどうやってあなたの家まで運ぶの? キャリアカー、あるの?」

「このまま押していきます」

「重いわよ」

「平気です」

「そうだわ。試しに2人で、押し掛けしてみない?」

「そうですね。では、重いですが、お願いします」

 久嗣がハンドルを握り、ギアを3速に入れる。真咲が後ろに回り、リアシートに手を掛ける。

「じゃ、走ります」

「いいわよ」

 グースが次第に勢いを増し、走行する。

 久嗣がクラッチをつないだ。急に制動がかかるが、2人はそこを懸命に堪えて押し続ける。

 と、数秒後、グースがうなりをあげた。

「やっターッ!」

「かかったじゃない」

 久嗣は、クラッチをニュートラルにしてバイクから降りると、サイドスタンドを立てた。

「真咲さん。バッテリーが劣化していただけのような気がする。売るのはやめますか?」

 真咲は、ちょっと首を傾げたが、すぐに、

「やっぱり、このグースは久嗣が乗るべきよ。あなたが勧めてくれたのだけれど、本当はあなたが、乗りたかったのでしょ」

「でも、真咲さん、バイクがなかったら、困りませんか?」

「そういうときは……」

 真咲は、久嗣を見つめながら体を寄せ、

「久嗣から借りる。いいでしょ?」

 と言いながら、人差し指で久嗣の胸を軽く小突いた。

「い、いいけど……」

 そのとき久嗣は、真咲とのこれまでのつきあいのなかで、体の接触が全くなかったことに気づかされた。

 すると、胸の鳩尾辺りを押している真咲の細い指の感触が、得も言われぬ快感となり、急速に全身を駆け巡った。

「ぼくは帰ります。何かあったら、電話をしてください」

 久嗣は、再びグースにまたがるとアクセルをふかせて、真咲のもとを去った。

「久嗣、寄っていかないのー?」

 真咲の声が追ってきたが、久嗣は振り向きもせず、「このままがいいンだ」とつぶやいていた。


 真咲には、もう一人、気になる男がいた。久嗣よりもつきあいは長い。

 町医に勤務している看護師の真咲は、そのマスクとボディで、さまざまな男性患者のハートを射止めているが、彼女が目下気にかけているのは、患者ではない。クリニックの医師、55才になる柳井恭二(やないきょうじ)だ。

 柳井は、掲げている「内科」以外に、求められれば、外科をはじめ、皮膚科、耳鼻科、眼科まで、扱う。診療科目が多いだけでなく、腕もいいから、クリニックの評判はすこぶるいい。加えて、真咲に引き寄せられて若い男性患者がやって来る。真咲ひとりでは、とても手が足りないが、いまのところ柳井は、ひとをふやそうとは考えていない。

 柳井は妻を2年前に亡くした。それまで、彼の妻が独りで、医院の受付け業務をしていたが、妻の死後、柳井は求人募集に真っ先に応募してきた真咲を、面談即決で雇い入れた。

 真咲には看護師の経験はない。介護の専門学校を出て、これまで3ヶ所の介護施設を渡り歩いてきたが、職場の人間関係に嫌気がさしていた。そんなとき、ふと「柳井医院」のドアに貼ってあった「急募」の文字を見て、履歴書も持たずに飛び込んだ。

 拒否されると思っての面接だったが、柳井は貼り紙にあった「経験、年齢不問」の通り、

「いつからできますか?」

 と、5分足らずのうちに尋ねた。

 柳井にとっては、だれでもよかった。看護師でも看護助手でも、名目はなんであれ、患者の受付、治療費の受け取り、処方箋の差し出しなどをこなしてくれればいい、という考えだった。

 妻を亡くした淋しさを紛らわすには、仕事に没頭するのがいちばんとの考えから、柳井は妻の葬儀を終えた翌週から、診療を再開した。

 真咲は、いまの仕事に満足していた。慣れない仕事だったが、難しい用件はすべて柳井が、診療室から受付窓口に出てきて、指示してくれた。

 真咲は、土日祝日を除き、あさは9時から正午、午後は2時から6時まで勤務している。

 柳井は診療を終えると、自宅兼診療所から決まって外出した。

 真咲は、勤務後、彼の姿を目撃したことが何度かある。

 柳井医院は、最寄り駅から、徒歩8分。

 その日、仕事帰りの真咲が駅前商店街で買い物をして、駅に向かっていると、道を横切り、目の前を歩く女性の肩に触れ、彼女と一緒にすぐ近くのビルに入った男がいた。

 それが柳井だった。

 3階建てのそのビルは、居酒屋など飲食店が入っている。真咲は、柳井の連れの女性に見覚えがあった。

 数ヶ月前に一度クリニックにやってきた患者だ。年齢は35歳。真咲は、美形の女性については、保険証から、すぐに年齢をチェックする癖がある。風邪気味という訴えだったが、この調子では、本当かどうだか。

 彼女の名前は、桜木。下の名前は覚えていないが、真咲と同じ、木の苗字だったことから、記憶に残っていた。因みに、真咲は、桐原真咲。

 柳井恭二は妻に死なれ、現在まで独身だ。好きな女性ができて、当然だろう。しかし、真咲は初めて柳井の私生活を覗き見て、ちょっぴり寂しい気分に陥った。

 柳井に対して、なんとなく、憧れに似た気持ちがあったからだ。年齢は一回り以上離れていて、恋愛の対象にすべきではないと思っているが、それでも気になる存在だった。

 いいわよ。わたしには久嗣がいるもの。

 真咲がそう気をとり直して、再び歩きだした。

 そのとき、聞き覚えのあるクラクションが鳴った。

「久嗣、どうしたの?」

 真咲は、急にうれしくなって、車道に駆け寄る。

 車道の脇に真っ赤なグースが停止し、久嗣がヘルメットのフェイスカバーを上げた。

「近くまで来たら、真咲さんが見えましたから」

「じゃ、これから飲みに行かない?」

「でも、おれ、バイクだし……」

「バイクは医院においてくればいいじゃない」 

 柳井医院には、2台分のスペースだが、駐車場がある。真咲が承知していれば、柳井は許してくれるだろう。

「そうですね。じゃ、ちょっと行って来ます」

 

「ねえ、いまのひと、知っているの?」

 居酒屋のテーブル席に久嗣と向かい合わせに腰を降ろすと、真咲は真っ先に尋ねた。

 この居酒屋は、一度、柳井に連れられてきたことがあった。勤務を初めて1ヵ月ほど経った頃だから、もう2年近く前のことだ。

 真咲は、柳井がつきあっている女性のことが知りたくて、2人が入った居酒屋に、久嗣を連れ込んだのだが、店員に案内されていく途中、久嗣がある人物と目で合図しあった。

 そのとき真咲は、久嗣がアイコンタクトした相手を見て、驚いた。 

 柳井が連れ込んだ女性だったからだ。

 柳井たちのテーブルは、真咲と久嗣のテーブル前の通路を挟んで、斜め向かいだった。

 久嗣からは位置の関係で、振り返らなければ、柳井たちを見ることはできないが、真咲からは柳井の連れの女性が数メートルの距離で、よく見える。

 柳井は、女性と向き合っているため、背中しか見えない。

 いまのところ、柳井はまだ真咲たちの存在に気がついていないようすだ。

 真咲は、久嗣の目の動きを見ると、前を行く店員を無視して、半ば強引にこのテーブル席に決め、案内の店員に承知させていた。

「だれなのよ。いまのひと……」

 久嗣が年上の女性に興味があるとは知らなかった。

「真咲さん、知らないのですか。てっきり、知っているかと……」

「勿体ぶらないで、教えて……。久嗣のモトカノ?」

 すると、久嗣は真咲に顔を近づけ、ささやくように、

「本当に知らないンですか」

 で、真咲も小声で、

「知らないのよ。だから……」

「あれは、ぼくの姉貴です」

「エッ、お姉さん……」

 真咲はびっくりして、久嗣の姉なる女性を見つめなおした。

 美しいだけじゃない。彼女には、ひとを引き寄せる魅力、いや魔力がある。どうすれば、あんな表情ができるのだろう。

 微笑みながら、謎めいた視線を送ってくる。心のなかを覗かせない、神秘的な瞳……。

 真咲は、柳井が久嗣の姉に心を奪われている理由が理解できるような気がした。彼女の姓が久嗣と異なるのは、結婚したためだろう。

 久嗣の姉が医院に来たとき、真咲は彼女の素性をよく知らなかった。久嗣の姉とわかっていれば、もっと違った対応ができただろう。

「久嗣が、うちのクリニックを紹介したのね?」

「いいえ、2人は『ぼうはんかい』で知り合ったンです」

「ぼうはんかい?」

「亡くす亡に、伴侶の伴、に会で、『亡伴会』。ロストシングルの集まりらしいンですけれど、柳井医師自身が数ヶ月前ネットで始めたと聞いています。それに、姉貴が引っかかって……」

「引っかかった!?」

「そうでしょう。まだ、2人しかいない会ですから」

「お姉さんもご主人を亡くされたの?」

「はい。事故で。半年になるかなァ。義兄はいいひとでした、とっても……」

「そォ……」

 世の中には不幸がたくさんある。わたしは幸いにも、知らなさすぎる。真咲は、改めて、自分は幸せなのだと言い聞かせる。しかし、物足りないのも事実……。

 久嗣は俯き加減で、声を落とし、

「でも、ぼくは、事故とは思っていません……」

 と、言う。

 真咲はつられてささやく。

「どういうこと?」

「磯釣りをしていて、海に落ちた、って、いうンですよ。でも、お義兄さんは、慎重なひとだったから、危険なところには近付かなかった」

「海だから、突然、大きな波が来ること、ってあるでしょ」

「義兄は、国体にも出場した水泳の選手だったンですよ。溺れるわけがない。だから、ぼくは、遺体を解剖したらいいと思ったンです。でも、義兄が亡くなったとき、ぼくは仲間と北海道をツーリングしていて。帰京したら、葬儀がすべて終わっていました……」

「そう」

「どうして、解剖しなかったンだと姉貴に言ったら、姉貴は、義兄の体にメスを入れることはできないと言いました」

 そりゃそうだろう。わたしだって、断るわ。真咲は、久嗣の姉の意見に同調する。

「それで?」

「それで、って、何ですか?」

「久嗣は、何を企んでいるの?」

「企んでいる、なんて。ないです。ただ……」

「ただ?」

「疑っています」

「疑う?」

「柳井医師が、義兄を殺したンじゃないか、と……」

 エッ! 真咲は声が出せないほどに驚いた。

「どういうことよ!」

 慕っている柳井が人殺しッ。そんなパカなことがあるものか。根拠を示せ!

「真咲さんがクリニックに勤務する前、義兄は柳井医院で姉貴と連れ立って診察を受けたことがあります。姉貴がインフルエンザにかかって、その治療のためだったそうです」

 彼女は、真咲がクリニックに勤める以前からの患者だった。

「そのとき、義兄は柳井医師の言動を怪しみ、治療は一度でやめたといいます」

 その頃、柳井は、妻を亡くした直後だった。

「何があったの?」

「診断です。柳井医師は、『これは重い病かも知れません。しばらく通院していただいて、詳しく調べさせてください』って」

「大学病院みたいね」

「義兄はそれで、妻を連れて別の病院に行った。念のために2つのクリニックに行ったそうですが、そのどちらでもインフルエンザに間違いないと告げられました」

「それでお姉さんのインフルは治ったの?」

「はい。すっかり。だから、あの柳井医師はおかしいです」

「そういうことがあったの」

 誤診は、どんなに優秀な医師にもありうる。しかし、真咲の知る柳井は、詳しく調べたいから通院して欲しい、と言うような医師ではない。精密検査の必要を感じたなら、大学病院を紹介する。

「それから半年ほど経った頃、義兄は街で柳井医師から声をかけられたそうです」

「……」

 真咲は、目の先で、久嗣の姉と向き合っている柳井の背中を見ながら、久嗣の口から出る話の続きを想像する。

「柳井はいきなり、『その後、奥さまのお加減はいかがですか?』と尋ねました。義兄は一瞬、何のことかと訝り、相手があのクリニックの医師であることを思い出しました。で、『おかげさまで、いまはとても元気に過ごしています』と当たり障りない返答をしました。すると、柳井医師は、『実は反省しているのです。初めてお見えになった患者の方に、しかも初診の方に、詳しく調べさせて欲しいからしばらく通院してくださいと申し上げたことを、です。失礼しました。あのときは、ご主人が奥さまことをとてもご心配なさっておられるごようすだったものですから。出来るだけのことをすべきだと考えたのです』と言って、深く頭を下げたそうです」

 真咲は黙って聴くことにした。久嗣の話はまだまだ続きがありそうに感じたからだ。

「義兄はそのことばで、柳井医師に対する警戒心を解きました。でも、ぼくは、それがいけなかったのだと思っています。義兄はそのとき、尋ねられるまま、勤務先の役所を教えました。すると、翌日、柳井医師が義兄の職場に訪ねてきたそうです。近くまできたので、お昼をご一緒したい、と言って。義兄は、余り気は進まなかったのですが、休憩時間でもあったので、つきあったそうです。柳井は義兄と近くのファミレスで食事をしながら、趣味は何かと尋ねました。義兄は釣りです。義兄は月に一度、磯釣りに出かけます。どこの海岸か、詳しいことをどこまで話したかはわかりませんが、柳井医師はとても興味深く聴いていたそうです」

 久嗣はそう言うと、柳井と姉のテーブルをチラッと振り返り、真咲の顔に視線を戻した。

 真咲は、その縁を舐めるように、ジョッキーのビールを口に含みながら、

「それだけ?」

 と、つまらなさそうに言う。

 久嗣は、真咲の反応に違和感を抱いた。真咲が柳井医師に対して、好意以上の持っていることは明らかだった。

「義兄はそれから3ヶ月後に、磯釣りをしていた海岸から溺死体で見つかっています」

「証拠があるの? 証拠でなくても、それに近い、怪しい出来事でもあるの?」

「あります。勿論あります」

 久嗣は、柳井たちのテーブルのほうに視線を送りながら言った。

「義兄は柳井医師とランチを食べてから、亡くなるまでの間、最後を除くと2度釣りに出かけていますが、その2度とも、義兄の周辺で柳井医師に似た人物が目撃されています」

「似た人? 断定されていないのでしょ」

「ぼくは断定して欲しかったけれど……」

「欲しかった? 久嗣、あなたが調べた、ってこと?」

「勿論、僕以外にだれがやってくれるのですか」

 久嗣は憤然として応える。

「それで、その似たひとは、あなたのお義兄さん……お義兄さんのお名前、聞かせて」

「桜木龍司(さくらぎりゅうじ)といいます」

「柳井医師に似たひとは、そのときなにをしていたの?」

「近くに駐めた車の中から、義兄を監視していたそうです」

「監視……見張っていたの……それは、間違いないの?」

「そこは駐車禁止の場所で、船の係留に邪魔だと感じた漁師の通報で警察がきて、彼に注意したそうです」

「でも、それが柳井医師だという確証はあるわけ? 映像はないのでしょ?」

「防犯カメラは設置されていませんから……。でも、怪しい点はまだあります」

 久嗣はそう言うと、背負ってきたデイバックから、携帯用の魔法瓶をとりだした。500cc入りの、マイボトルだ。

「何をするの?」

「義兄は、コーヒーが好きでした。磯釣りに出かけるときも、自分でたてたコーヒーをこれに入れて持っていきました。飲んでみますか?」

「エッ、何が入っているの?」

「義兄のコーヒー」

「お義兄さんは、半年も前に亡くなったのでしょう?」

「飲めませんか?」

「傷んでいるじゃないッ」

 真咲はムッとしてこたえる。

「傷んでいるのじゃなくて、毒が入っています。だから、ぼくは、分析して欲しいと言ったンです。なのに、無視されました」

 久嗣は、悔しそうに俯いた。

「で、ぼくは……」

 久嗣は顔をあげると、キッとした顔付きで、

「亡くなって4日経っていましたが、中に残っていたコーヒーを飲んでみました」

「久嗣、あなた、気は確か」

「義兄が亡くなったのは、11月です。それに魔法瓶に入っていましたから。コーヒーは、砂糖もミルクも入っていません」

「それで、どうなったの。あなた、いま元気でいるじゃない」

 真咲は、不安そうに久嗣を見つめる。

「コーヒーはコップ半分ほど残っていました。冷たくなっていましたが、味は冷えたコーヒーというだけで、毒ではなさそうだったので、全部飲み干しました」

「そう。なんでもなかったのね」

「すぐは……」

「すぐは、って?」

「30分もしないうちに、強烈な睡魔に襲われ、意識をなくしました」

「睡眠薬が入っていたの……」

 久嗣は深く頷く。

「幸いそこは姉貴のマンションでしたから、気がついたとき、ぼくは、ソファで横になっていました」

「お姉さんは、どう言ったの?」

「ぼくは、突然立ち上がり、頭痛がすると言って、そばにあったソファに倒れこんだそうです」

「……」

「ですから、義兄が磯釣りの当日持参した魔法瓶の中には、強力な睡眠導入剤が混入されていた。これは間違いありません」

「そのことについて、お姉さんは何と言ったのよ?」

「姉は……姉は、ぼくが睡眠不足に加えて、お昼に食べたスパゲティで満腹になったせいで、急に眠くなったのだろう、って」

「お昼をいただいたの?」

「姉貴のお昼はスパゲティに決まっていて、とてもおいしいから、ぼくはいつも2人前いただきますが、その日は余分に作ってくれたので、3人前食べてしまった」

「睡眠不足は本当?」

「たまたま、その前の晩、ケーブルテレビで米国テレビのサスペンスシリーズの一挙放送を朝まで見てしまい、眠かったけれど、その朝、義兄の納骨があったので無理して姉の家に出かけていました」

「条件が揃っていたのね……」

 真咲はそう言ってから、久嗣の姉たちを見て、黙ってしまった。

「真咲さん、真咲さん」

「なに」

「どうしたンですか? ぼんやりして」

「……」

「しかし、ぼくは、義兄の飲んだコーヒーには、眠剤が入っていた、といまでも思っています」

「睡眠薬としても、それをどうやって、お義兄さんのコーヒーボトルに入れたのかしら。お義兄さんに気づかれずに、いつ、だれが、そんなことができたの?」

「義兄が磯釣りをしていた鎌倉海岸に行けば、出来ます。義兄はいつも、車を鎌倉海岸近くのホテルに駐めて、お昼はそのホテルのレストランで食べていました。釣りをしている間、コーヒーボトルは、クーラーボックスと一緒に置いているバスケットの中ですが、義兄が用を足しに行っている間にでも、薬を混入させることは簡単にできたはずです」

「そうかもね。近くで監視していれば……」

「あの日の柳井医師の行動を調べました。日曜日で、クリニックは休み。柳井医師は、朝から車で出かけています。行き先は不明ですが、近所の主婦の話では、夕方に帰ってきた車のタイヤが、砂まみれだったそうです。きれい好きの柳井医師にしては珍しいので、記憶に残っていると……」

 真咲はよく覚えている。11月の第3日曜日のあの日、真咲は柳井にドライブに誘われた。

 何の前触れもなく、前日、つきあって欲しいと告げられたのだ。真咲は戸惑ったが、嫌いな医師でもなかったから、承知した。

 初めてのデート。車のなかで2人きり。間違いが起きても、言い訳はできない。しかし、真咲は、そこまでの気持ちの整理はまだなかったから、いざというときは反撃するため、携帯用の熊よけスプレーをバッグにしのばせていた。 

 ドライブは、三浦半島を一周した。途中、レストランで、葉山牛のステーキをご馳走になった。そのレストランの駐車場は、浜辺のすぐそばで砂地だったから、そのときタイヤに砂がついたのだろう。

 その頃、久嗣の義兄は、鎌倉海岸の磯で釣りをしていた。

 真咲は考える。わたしは、柳井のアリバイに利用されたのではないのか、と。

 ドライブをしたが、柳井は助手席の真咲の体に触れることはなかった。手も握らなかった。真咲は、ただ助手席にいただけだった。

 レストランでの会話も、天気とステーキの味に関することだけ。柳井はかなり緊張しているようすだった。

 睡眠薬を混入したのは、義兄の妻だ。妻なら、ボトルに入れるのは簡単にできる。遺体の解剖を拒否したのは、当然だ。久嗣がコーヒーの残りを飲んで眠ったことについて、極度に疲れていたため、と決め付けたのも……。

 2人は計画して、久嗣の義兄を殺害したのだ。強力な睡眠導入剤で意識がもうろうとした久嗣の義兄は、誤って海に転落して、帰らぬひととなった。これは事故ではない。

 久嗣の義兄の夫婦仲はどうだったのか。

「久嗣、お義兄さんと奥さんは、うまくいっていたの?」

「仲が悪いと聞いていないから、ふつうだと思います」

 柳井は、女性に対してどうだろうか。真咲は、柳井とのこれまでを振り返ってみた。

 柳井は真咲に対して、とても紳士的に振舞っている。セクハラというものは、一切ない。女性患者に対しても、柳井は臆病なくらい、気を使っている。患者の肌の露出も、必要最小限に抑え、そのために診察が煩わしくなっても気にしない。

 そのような男性が、殺人という恐ろしい罪を犯すだろうか。

 真咲は思う。ただ、柳井が紳士であるのは、これまでわたしを含め、相手が彼好みの女性でなかったから、と言えるのかも知れない。久嗣の姉に出会い、理性が吹き飛んだ?

 柳井の妻はどんなひとだったのか。当然、会ったことはないが、一度だけ写真を見たことがある。彼女は、柳井の5つ下で、写真は10数年前の旅先で撮ったと言っていたから、30代半ばだろう。きれいなひとだ。心にも曇りのない。邪心がいっぱいのわたしとは大違い……。

 アッ! 真咲は気がついた。柳井の妻の目と、久嗣の姉の目が瓜二つ。いま、わたしと彼女の目が合った。間違いない。妻の代わりを求めていた柳井は、久嗣の姉と出会い、亡き妻を感じた……。

「真咲さん。どうしたンですか? 顔色が悪い」

「わたし、いま妄想しているの。いけない、とってもいけない妄想……」

「どういうことですか?」

「久嗣、あなたがいけないのよ。殺人なンて言うから……」

「あの柳井医師は、義兄に睡眠薬を飲ませ、海で溺死させた。あとは、それを立証するだけです」

「そんなこと、出来るわけないでしょ。半年も前の話よ。肝心の遺体はもうないでしょうに。それに……」

「それに?」

「わたしは、あなたのお姉さんがひとりでしたことだと思っているの……」

「エッ!」

「柳井先生がいなくても出来ることでしょう?」

「そんなこと……」

 久嗣がことばを失ったそのとき、

「久嗣、わたしがひとりで出来るって、何のこと?」

 久嗣の姉が、久嗣と真咲のテーブルの前に立っている。

「2人で何しているの。こちらのお嬢さんはどなた?」

「ぼ、ぼくのともだちだよ。姉さんこそ、クリニックの先生と、ここで何をしているの?」

「わたしは……」

 久嗣の姉が言いかけたとき、後ろから柳井が現れ、

「君のお姉さんに、明日から医院の仕事を手伝ってもらうことになったので、その打ち合わせをしている」

「先生ッ、そんなことより、この方の、この方のご主人を殺害したというのは、本当ですか」

 真咲が叫ぶように言った。

「真咲くん、キミは何を言っているンだ」

 柳井は明らかにうろたえている。

 久嗣が慌てて割って入る。

「真咲さん、やめてください。さっきのは、ぼくの妄想です」

「妄想? あなたまで妄想ですまそうとするの。睡眠薬で意識をもうろうとさせて、釣りをしていたお義兄さんを海で溺れされた……あれがすべて妄想だと」 

 真咲は心外だというように叫ぶ。

 すると、久嗣の姉が、表情を和らげ、

「久嗣、あなたには隠していたけれど、夫の遺体は解剖してもらったの。わたしも心配だったから。そうしたら、何も出なかった。高波に襲われた拍子に足を滑らせ、磯の岩で頭を強打して、そのまま意識をなくして海に落ちたことがわかったわ」

 すると柳井が、険しい表情をして、久嗣の姉を見つめた。

 柳井は思い出す。彼女の夫の葬儀を手伝ったが、火葬は亡くなった翌日に行われている。遺体を解剖すれば、火葬は早くても死亡の2日後だ。彼女は明らかにウソをついている。

 柳井は複雑な気持ちに陥った。

 この女性を好きになったことが間違いだった。

 彼女には夫がいた……。責任は私にも……。

                 (了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

妄想 あべせい @abesei

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る