ドロップ
優羽 もち
ドロップ
私は、人の「顔」が覚えられない。
通り過ぎていく、人の「顔」も。
誰かに描かれた、絵での「顔」も。
鏡で見たときの、自分の「顔」さえも、私には覚えられない――
どの「顔」も、全て同じように描かれた「顔」に見えてしまうのだ。
「顔」だけじゃない。
「性格」だってみんな同じような気がする。
みんな同じ顔で、みんな普通の性格で、みんなたまに話す。
そんな、「同じ」の集大成。
いや、一人だけ覚えている人がいる。
彼女だ。
彼女は、いつでもそこに立っていた。
パーカーのフードを同じ方向になびかせたまま、花束を持った手を後ろで組んで、いつでもにっこりと微笑んでいる。
彼女は美しい。
艶やかな髪は腰まで届く黒髪ロングで、肌は陶器のように滑々で、白い。
端正で素晴らしく整った「顔」に、完璧な美を表すようなその姿は、遠目から見ても彼女だとわかるほどだった。
今日こそは彼女に話しかけよう。
ちゃんと「顔」を見られる友達になれたらいいな。
そう思って、私は今日もここにやってきた。
最近ずっと、雲がないのに雨が降っている。
今日も彼女は傘もささずに立っていた。
……よし。ずっとここに突っ立っていてもしょうがないからとりあえず話しかけてみよう。
「こんにちは。傘、持ってないの?入れてあげるよ」
猫耳のカチューシャを外し、私は少し彼女の方に歩み寄った。
お気に入りの傘を彼女に差し掛ける。
「君、いつもここに立っているよね。私はドロップっていうんだけど、君の名前は?」
「……」
彼女は微笑んだまま何も答えようとしなかった。
不安になって飴玉を手渡しても、受け取ろうとしてくれない。
当たり前か。
知らない人が急に話しかけてきたんだから、怪しむに決まってるよね。
「別に怪しい人じゃないよ。ただ君と仲良くなりたいんだ。私と友達にならない?」
「……」
はいともいいえとも言わず、やっぱり彼女は同じ笑みを浮かべていた。
気まずい空気が流れる。
どうしたらいいんだろう。
そのとき。
「そこで何をしているの?」
背後から声が聞こえた。
少し低くて、滑らかで、聞き惚れるような声。
「この子と仲良くなりたいんだけど、話しかけても何も答えてくれないから……」
「当たり前じゃない。よく見なさいよ。それは人じゃなくて張りぼてよ」
「えっ?」
目の前にいる彼女をよく見ると、たしかにそれはよくできた像だった。
「張りぼてじゃなくって像でしょ……あーあ。私、人の顔が全部同じに見えちゃうんだ。でもこの子だけは私にも見分けられる。友達になれたらいいなって思ってたのに」
思わずため息をつく。
私は人の「顔」を覚えられたのではなく、像だから「顔」を覚えられたのだ。
するとまた後ろから美しい声が聞こえた。
「この世界にいる人はみんなそう見えるものよ」
落ち着いた声の主は、そこで一度言葉を切った。
「過去から来た私には、それは像じゃなくってベニヤ板の張りぼてに見えるわ。人の顔だってちゃんと見える。でもね、この世界に今いる人はみんなあなたと同じように見えているの」
「どういうこと?」
「あなたたちは、その張りぼてに作り出されたものしか見ることができないわ」
「え?」
「その張りぼては、私が作ったの。その張りぼてが今、逆に人間を作り出してしまっている」
「はい?」
「ドロップ、見ようとする意志があれば、あなたにもそれが張りぼてに見えるし、人の顔もちゃんと見られるようになるのよ」
何を言っているんだろう。
そもそも後ろにいる人は誰なんだろう。
頭の中にたくさんの疑問がぐるぐると回って何も考えられない。
意を決して私は像に触れていた手を放し、後ろを向いた。
「……あっ、君は!」
後ろにいたのは、像と同じ姿をした人間だった。
不思議なことに、彼女の「顔」は私にもはっきりと見える。
像ほどに完璧ではないものの、彼女からは人間的な美しさのようなものを感じた。
そんな私を無視して、彼女は続けた。
「その張りぼては少し精巧に作りすぎてしまったわね……でもドロップ、あなたにはまだその張りぼてに抗える力があるわ。ちゃんと見る意志を持って人を見てみて」
ちゃんと見る意志を持つ、か……
そうだ。私は、「顔」が覚えられない。
覚えることを放棄していた。
「顔」を見ようとはしていなかった。
見られない、と嘆いたいただけだったんだ。
今まで出会った人を思い浮かべる。
みんな同じじゃない。
いや、みんな同じじゃいけない。
それぞれの個性があってこその、人間なんだ。
見たいって思うだけでいい。
今の世界に依存してはいけない。
――私は、「顔」を見たい!
ぱぁっと世界が開けるような感覚がした。
像が、薄っぺらい張りぼてに代わっていく。
同時に、周りの人たちの顔が変わっていく。
「本当だね。見ようと思えば、ちゃんと見ることができたんだ」
「どうやら私と同じ見え方になったようね。私の出番は終わりだわ。そろそろ帰らなくては」
「待って!君は私の恩人だよ。仲良くなりたいな」
彼女は長い黒髪を揺らしてふふっと笑った。
「大丈夫、私もじきにあなたの世界に行くわ。だから、それまでにこの世界にいる全員がお互いの顔を判断できるように、あなたが変えていって」
それぞれの個性を復活させていく、といったところだろうか。
私は小さく頷いた。
「わかったよ。せめて名前だけでも聞かせて」
「私の名前?」
「うん」
彼女は既に私に背を向けて歩き始めていた。
「
そんな言葉を残して、彼女は消えていった。
……――というのが、もう十年前のことになる。
あの張りぼてはいつの間にか誰かが持ち去っていったようで、もうあの場所にはない。
ドロップ 優羽 もち @chihineko
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