全裸キスから始まるやさしい異世界恋物語
守山かなえ
記憶の海に溺れて(上)
第1話『ああ無情-①-』
湿気た土と野草が放つ独特の匂い。
獣の鳴き声のような不気味な音。
逢魔時の薄暗い洞窟の中、初めて彼女と交わした口付けは砂糖菓子のような甘さと、血が混じった味がした。
***
【東京都練馬区某所】
「……ぉぉ」
便器の中が赤い。
よもや血尿を出す程までに自分の体は限界だったのかと男は嘆く。
男は、漫画家を目指し上京したはいいがアシスタントにアルバイト、そして自身の作品を夜なべで描くハードスケジュールを続けたせいで腱鞘炎を拗らせ、ペンも握れなくなった。
肉体的、精神的にもきついという状況に、つい先日追い打ちをかけるべく初めて付き合った年下の彼女に別れてほしいと告げられ失恋のショックも加わった。
気力も無ければ利き手も満足に動かせない。三食レトルトカレーのみで凌ぐ日々を送り盛大に体を壊していた。
「?」
水洗レバーを引くもびくともしない。
「???」
何度もレバーを引いているうちに、便器がゴポンと不気味な音を立てる。
「!」
先ほどまで赤みの強かった便器内に、黒く澱んだ何かが見えた。そしてそれは勢いよく便器から飛び出し容赦なく男を襲った。
「――っ!?」
水では無いドロドロとした液体が顔面にへばり付く。
次第に男がいままで味わった事の無い“甘ったるくも苦々しいような味”が口の中を支配し、男の意識は深い闇へと落ちていった――。
***
(オレは……あれからどうなった? オレ……“俺”は……確かそう、便所で……)
彼が意識を取り戻した時、どれだけ時間が経ったと思わせる程、辺りは闇に包まれていた。
「……ぅ!」
起きた瞬間、自身を包む強烈な臭いが鼻を突き吐き気を催す。
よもやあのまま便所で昏倒していたのだろうかと慌てて体を起こすが、そこでまず異変に気が付いた。
(え? なんで俺、裸……っていうかなんだこのヌメヌメした液体は――?)
何故か下着の一枚さえ身に付けておらず、その代わりに全身に“ドロリとした妙な何か”がまとわりついていた。
それが何なのか分からなかった。
辺りは真っ暗で、本当に何も見えないからだ。
(何がどうなって……?)
混乱した頭を抱え、手当たり次第に手を伸ばすと――。
「ゴルルルル……」
低い重低音が今度は足先から聞こえた。
それが鼓膜を震わし、骨を伝いビリビリと全身に巡っていく。
「どわっ!」
けれど音の正体に気が付く前に、頭から落ちるような感覚に襲われた。
冷たい空気と硬い岩肌のような感触が体にぶつかり、急激に体温を奪っていく。
「っ!」
彼の瞳が外の光に慣れるまで、かなりの時間を要した。それほど長く闇の中にいたのだ。
「……!?」
恐る恐るまぶたを開けると、それはもう目の前に居た。
彼はやっと先程まで自分が“居たであろう場所”の全容を知る事となった。
「ゴルルルル……」
その声の主は大きな翼を持ち、全身が黒い鱗に覆われていた。
大きく裂けた口には鋭い牙がびっしり並び、毒々しいまでに紫色の長い舌で垂れたよだれをすくい取り、舌なめずりをして彼を見ている。
「ええええええええ!?」
彼は今の今まで空の上、それもドラゴンの口の中に居たのだ。
「なんだこれ⁉ なんで俺っ、いっ意味分かんねぇ~~!」
寒さと恐怖、どちらが原因で体が震えているのか分からない。
何故自分はこんな状態に見舞われているのだろうか。考えようにも状況が異質過ぎてパニックに陥っていた。
「うわっ!」
そんな混乱の中、彼を両手に抱えたドラゴンの手が今にも握りつぶさんとばかりに力を強めた。
その時だ。風の音に混じり雷が落ちた時のようなそんな轟音が遠くの空で鳴り響く。
「う、嘘だろ……」
ゴクリと息をのむ。
檻のように固く閉じられた爪の隙間から彼が見たもの、それは別の赤いドラゴンだった。
前方からくるそれに、黒いドラゴンが咆哮を上げる。
それに赤いドラゴンも応えるように炎を吐く。
「うわっ!」
炎が黒いドラゴンの体をかすめた。
大気は一瞬で熱くなり、肺が焼けそうになる程、凄まじい威力の炎だった。
しかし黒いドラゴンは攻撃を受けても逃げ惑うばかりで反撃する事はない。
「ピシャアア!」
背後からまた炎が迫る。
「避け――!」
彼が叫んだと同時にドラゴンの手は緩み、次の瞬間には彼は宙を舞っていた。
直後、黒いドラゴンに炎が直撃し、全身から煙が上がる。
「ギュオオオ‼︎」
悲痛そうな黒いドラゴンの鳴き声。
彼はその光景を見ながら、重力に抗うことも出来ずただただ落ちる他なかった。
(流石に死ぬ)
人間こうなるともう自分の運命を受け入れるしかないと諦めた。
そう思うのも当然だ。彼が雲の切れ目から見たものは、見渡す限りの広大な森と湖で、きっともう何秒か後には体は水面に叩きつけられるのだろうからと自らの死を悟ったのである。
(……え?)
しかしその予想はすぐに外れてしまう。
彼の体がふわりと浮き、そのままゆっくり降下を始めたからだ。
「ど、どうなって……」
温かな空気の層に包まれながら、訳も分からず辺りを見渡す。
「!」
岸辺に人影を見つけた。
白い大きな丸い帽子と茶色の外套を羽織った桃色の髪の少女が、焦った様子で小さな杖を振り上げていた。
「――!!」
少女が懸命に何かを叫ぶ。
しかし空気の層に包まれた彼にその声は届かない。
その必死の形相を見て彼はハッとした。
(俺、今真っ裸だ!)
自分の姿を思い出し慌てたが、少女の険しい顔は一層増すばかりだった。
そして杖が振り上げられ、反射的に男が目を閉じた瞬間。空気の層は割れ、爆発音と熱風、それに大量の水が後ろから押し寄せ、体が岸へ押し出されるように水平に飛ぶ。
彼等の真後ろに上空で争っていたドラゴン達が落ちたのだ。
「でぇえええええええ!?」
このままでは少女にぶつかってしまう。
それも全裸でと考えるその瞬間にも、二人の距離はもの凄い速さで縮まっていく。
「――っ彼かの者に風を運びて舞い上がれ! ウェントゥス!!」
焦った少女がそう叫ぶ。
すると彼の眼前に青白い魔法陣が広がった。
「ま、間に合って良かった」
「死っ、死ぬかと思った……」
少女にぶつかる寸前、彼の体はふわりと宙に浮き止まった。
しかし正面衝突こそ免れた二人だったが、今度は別の問題が発生していた。
少女を下敷きに彼は少女に覆いかぶさってしまっていたのだ。
「ごごっごめん!!」
慌てて身をよじり体を退ける。
けれど少女はそんな彼に目もくれず、急いで後方を確認すると、立ち上がりざまに彼の手を取った。
「お話は後です! こちらへ!」
「えっ!?」
少女は叫ぶように言うと、森の奥深くへ走り出した。
***
「我と彼の者に導きの光を。ル-クス」
少女が呪文を唱えると、暗闇の中に無数の小さな光が散らばった。
連れてこられたのは、湖から少し離れた場所にある洞窟のような場所で、落ち着くまでここに避難することになった。
「良かったら使って下さい」
「ご、ごめん。ありがとう」
少女は羽織っていた外套を彼に手渡した。
そして枝を拾ってくるといい、すぐに戻ってくると焚き火を炊いた。
少女の胸元に着けられた、大きな逆十字の装飾具に焚き火の炎が反射してゆらゆら揺れる。
「あの、ずっと気になっていたのですが。どうして……その、そんな格好でこんな場所に? それにあのドラゴン達は一体……」
少女がもっともな事を訊く。
しかし彼にとっても、今自分に何が起きているのか分からないと、目が覚めた時にはすでに空の上に居たのだと素直に話す。
「それって……何か事件に巻き込まれたとか、そういう……。あ、あの、警察に行ってみてはどうでしょうか」
“警察”その単語を聞いた途端“公然わいせつ罪”という言葉が脳裏をよぎる。
「いやほら俺今こんな格好だし。それにこれが夢じゃなかったら、多分……ちょっと信じられないかもしれないけど……そういうんじゃないと思うから」
「そういうのじゃないとは?」
「えーと、その……」
(参ったな、説明が難しい)
今の状況を現地人にどう話せば理解してもらえるのかと彼は悩む。
これが夢ではなく現実であるなら、彼は所謂“異世界転移”をしてしまっているからだ。
(きっとそうに違いない)
彼は確信した。
火を噴くドラゴンに、宙に展開された魔法陣。言葉一つで風や火を起こす少女。
こんな夢みたいな展開は物語の中にしか存在しないと思ったからだ。
「あのさ……」
こういう事は早めに言ってしまった方がいいかもしれないと判断し、実は自分がこの世界の住人では無い事、こんな姿で行き場が無い事を少女に話した。
しかし思いのほか少女驚かず「なるほど」と軽く理解した事に彼は逆に驚かされることになる。
「お、驚かないのか?」
「特には……。でもこの辺りに
「へ、へぇ」
彼としてはもっとリアクションが欲しかったところだが、そんな事はつゆ知らず少女は冷静に分析していた。
曰く、この世界ではそう珍しい事ではないと彼女の周りにも何人か異世界からやってきた人間が居るという。
「もしかして元の世界に帰れる方法とかあるのか……?」
その問いに少女は首を振った。
自分の知る限りでは帰った人間は知らない……と。
「そっか……」
落胆する様子に少女は慌て、ちゃんと探せば元の世界に帰る方法が見つかるかもしれないと慰めた。
「なるようになる……か」
「ですです!」
物語ならばここはまだスタート地点。
絶望するにはまだ早いと彼は気持ちを切り替える事にした。
「そういえば、そっちはどうしてこんな森に? 家が近いとか?」
「私は、あの湖周辺に生息するスライムの浄化に来たんです。でも……」
ドラゴンの激しく争う鳴き声と姿を見て、驚いているところに彼が落ちてきたという。
「ビックリしました」
「だよな。俺もだ」
二人の間に自然と笑みがこぼれる。
少女の纏う穏やかな雰囲気が、彼にはとても心地が良かった。
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