禁断の恋、始動 ④

 こんなに大勢の人間の前で、大財閥の代表としてスピーチをしなければならなかったのだ。跡取り娘の宿命とはいえ、一人の女子高生には重すぎるシチュエーションだった。緊張されるのもムリはないだろう。


「絢乃さん、……もしかして緊張されてます?」


 気遣って声をかけた僕に、彼女は不安そうに頷き、「わたし、ちゃんとスピーチできるかしら?」と言った。

 その縋るような眼差しは、僕のことを頼れる大人として認識して頂けているようで、これは彼女のために何かせねば! と僕も脳をフル回転させた。


「いよいよですもんね。心配されるお気持ち、僕にもよく分かりますよ」


 ――そういえば、僕自身も子供の頃から極度のあがり症だったので、学校の音楽会や学芸会、文化祭などの前には必ずといっていいほど胃の痛い思いをしていたものだ。

 そんな僕に、母がとっておきの「緊張しないおまじない」を伝授してくれていた。それを彼女にも教えて差し上げたらどうだろうかと思い立った。


「――あ、そうだ! 緊張をほぐすおまじない、お教えしましょうか」


「……お願いできる?」


「子供扱いしないで」と怒られるかと思いきや、意外にも彼女は僕の提案を素直に受け入れて下さった。


「はい。僕も子供の頃からあがり症だったんで、母が教えてくれたんですけど。客席にいる人たちをジャガイモとかカボチャだと思えばいいんだそうですよ」


 今思えばなんて古典的なおまじないだろうと思うが、これが意外にも効果てきめんだったのだ。

 彼女も一瞬、「ジャガイモ……」と呆気に取られていたが、その光景を本当に思い浮かべてしまったのだろう。次の瞬間、肩を震わせながら弾けるように笑い出した。


 それまでにも彼女の笑顔は何度か目にしていたが、ここまで明るく声を上げて笑う姿を見たのはこれが初めてだったように思う。彼女のとびきりの笑顔を引き出すことに成功した僕は、つい調子に乗ってやらかしてしまった。


「……絢乃さん、今日やっと笑ってくれましたね。やっぱり、あなたの笑顔はステキです」


「…………え」


 あまりにもキザすぎるセリフに、彼女は固まってしまった。

 ……ヤベぇ、俺またやっちまったぁ! 僕は心の中でひとり悶絶していた。これで、彼女に「ヘンな人だ」と思われたらどうしよう!? と本気で焦ってとっさにごまかそうとしたのだが。


「……ありがと。貴方のおかげよ」


 彼女は清々しいくらい朗らかに、僕にお礼を言って下さったので、今度は僕がポカンとする番だった。

 とはいえ、彼女の緊張を取り除くというミッションは無事に完遂かんすいすることに成功したのだった。


「もったいないお言葉、ありがとうございます。……もう、大丈夫ですね」


『――ではここで、本日より新会長に就任されました、篠沢絢乃さまよりご挨拶を賜ります。篠沢会長、お願いします!』


 僕が彼女の様子に安堵したのと、司会の久保に彼女が呼ばれたのはほぼ同時だった。彼女は僕に「大丈夫」と頷いてみせ、義母を伴って堂々と胸を張り、演台へ向かった。

 僕は久保へ向け、「グッジョブ!」と右手の親指を立てて見せた。絢乃さんの緊張が解れるまで進行を待っていてくれて、僕は彼に感謝している。


 演台での彼女のスピーチには、事前に原稿が用意されていなかったらしい。それでも、彼女ご自身の固い決意や、高校生の身で会長職を務めていく意気込みなどが熱意となって伝わってくるいいスピーチだった。

 会場にいらっしゃっていた株主や役員の方々は、最初こそ彼女のいで立ちにざわついていたが、彼女の生半可ではない覚悟を目の当たりにして熱心にスピーチに耳を傾けるようになっていた。途中に入った義母の挨拶も功を奏していたのだと思う。


『――みなさま、どうかわたしにお力を貸して下さい! これから、よろしくお願い致します! 本日はありがとうございました!』


 何より、彼女の演説にいちばん心を揺さぶられていたのはこの僕自身だった。

 様々なプレッシャーや緊張と闘いながら、それでも無事に挨拶を終えた彼女に向けて、僕は称賛の拍手を送った。それには彼女もすぐに気づいて下さったようで、その後会場中に波及していった大拍手に包まれながらステージ袖に戻って来られた彼女は僕に向かって、口の動きだけで「ありがとう」とおっしゃった。

 ……気づいてもらえてよかった。僕も嬉しくなり、頷いた後に笑顔でこう彼女を労った。


「お疲れさまでした」


 その時の彼女のキラキラした笑顔を、僕は今でも憶えている。それと同時に、彼女への想いを表に出すことなくあくまでも秘書として、「僕が彼女を支えていくのだ」と決意を新たにしたことも――。


****


 ――株主総会の散会後、義母は社長や専務と打ち合わせがあるからとおっしゃってエレベーターホールで僕たち二人と別行動を取られ、僕と絢乃さんは二人だけでエレベーターに乗り込み、会長室へ向かうこととなった。


 好きな女性と密室で二人きり、というシチュエーションは、健全な成人男子にとってはかなりの誘惑になる。視覚では彼女の可憐な横顔に目を奪われ、嗅覚では彼女からほのかに香る柑橘系のコロンの香りが僕の鼻腔を惑わせていた。

 せっかく新たにした決意が、ここで早くも揺らぎそうになっていたのだ。


 それでも僕の理性が保てたのは、相手が絢乃さんだったからだろう。

 彼女は可憐で純粋で、けがれというものを知らない天使のような女の子だった。彼女を見ていると、多少は穢れていた僕の心が清められていくような気がしたのだ(自分でいうのも何だか情けない話だと思うが)。

 僕にだって恋をした経験は少なからずあるが、そんな僕でも初めて恋をした頃のような気持ちでいられるのが不思議だ。


 ――会長室のある三十四階は、社長室・専務執務室・常務執務室や僕が所属する秘書室などが並ぶ重役専用のフロアーである。そのフロアーでいちばん広い面積を誇る部屋こそが、会長室なのだ。

 このフロアーにある各部屋のドアは、全てIDカードをセンサーにタッチさせないと開かないようになっていて、このビルの中で最もセキュリティーの厳しいフロアーである。


「――会長、どうぞお入り下さい」


 その大きくドッシリと重厚感のある木製のドアを、僕が社員証を兼ねるIDカードで開錠すると、絢乃さんはしばらくドアの前で立ち止まっていた。

 きっと、彼女の心の中には喜びと戸惑いと不安が渦巻いていたのだろう。その複雑な感情が、彼女に入室をためらわせているらしかった。


「……会長? どうされました? さ、中へどうぞ」


 それが分かったので、僕はあえて彼女の背中を押すようにもう一度入室を促した。「今日からここはあなたの居場所です」と。それは秘書として当たり前の言動だったと思う。


「――ここがこれから、わたしの仕事場せんじょうになるのね」


 この部屋へ一歩足を踏み入れた時の、彼女のこの言葉が僕は今でも印象に残っている。彼女が闘うなら、僕も一緒に闘っていこうと思えたからだ。


 しばらく立ったままで室内の調度品を見回していた彼女にデスクの椅子を勧め、僕は義父の葬儀の日に彼女と交わした約束を果たそうと、彼女にこんな提案をした。「僕が会長に、コーヒーをお淹れします」と。

 彼女はすごく喜んでくれ、ミルクと砂糖入りの甘めをリクエストされた。僕は受諾するとすぐに隣の給湯室へ向かい、彼女のために十分ほどかけて美味しいコーヒーを淹れた。


 ――十分後、会長室には彼女がコーヒーを飲む様子を固唾かたずを呑んで見守る僕がいた。

 彼女は果たして喜んでくれるだろうか? 味はお気に召しただろうか? ……僕の緊張は、彼女の「美味しい……! コレ、すごく美味しいよ!」という興奮気味の感想で吹っ飛んでいった。心を込めて淹れた甲斐があったと、一種の確かな手ごたえを感じたのを憶えている。


 その後、サクサクとパソコン作業を覚える八歳年下の彼女ボスを「若いっていいなぁ」と羨みつつ、僕の秘書としての日々は幕を開けたのだった。

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