仕事と恋の狭間で ①

 ――こうして、僕の会長付秘書としての日々がスタートしたわけだが、それは僕自身にとっては「煩悩ぼんのうとの闘い」の日々でもあった。


 絢乃さんは、とにかく可愛い。そしてピュアだ。僕の下心になんて少しも気づかずに、僕に心を許し信頼を寄せてくれていた。そのたびに僕は自分の中にある醜い煩悩に気づかされ、「俺ってなんて汚れた人間なんだろう」とゲンナリしていたものだ。


 好きな人の支えになりたいという願望が醜いわけではない。決して不純ではないと思う。ただ、そこに「彼女に触れたい」「彼女のハートを奪いたい」というよこしまな感情が混ざってしまうから不純なのだ。

 ……まぁ、男にとっての恋のしかたがそうなっているので(特にこれといった根拠はないが)、致し方がないといえばそうなのだが。

 そんな中で、会長室や送迎の車内で彼女に二人きりになると、僕は彼女の知らないところでひとり悶絶していたわけである。


****


 この日は、彼女が会長に就任してから一ヶ月ほど経った頃だったと思う。


「――それじゃ、会長代行。僕は絢乃会長のお迎えに行って参ります」


 午後三時過ぎに絢乃さんからのメッセージが受信すると、それは「もうすぐ学校が終わるから迎えに来てほしい」という僕への合図だった。


「あら、もうそんな時間か。いつも悪いわね、あなたに忙しい思いさせちゃって」


 絢乃さんの代わりに会長の業務をこなしていらっしゃった義母は、親子二人で僕をこき使っていることを申し訳なく思っていらっしゃるようだった。義母の優しさが、お嬢さんである絢乃さんにもきちんと遺伝しているらしい。


「いえ、僕が自分で決めたことですから。絢乃さんや加奈子さんがそうして労って下さるだけでも、僕の苦労は報われますよ。――では、行って参ります。加奈子さん、お疲れさまでした」


 僕は義母にそう言って、会長室からエレベーターで地下駐車場へ下りて行った。


 秘書の仕事は、思っていたよりもずっと大変だ。でも、総務課にいた頃の仕事よりずっとやり甲斐はある。

 僕は秘書検定なんて取っていなかったし、ずぶのど素人で、仕事も当初は探り探りやっていた。それでも彼女は僕にいつも感謝してくれている。「貴方がいてくれて助かる」と。


 異動前より秘書になってからの方がハードワークだし(というか、ほとんど「激務」といっていいほどである)、しかも二人分の業務を一人でこなさなければならなかった。下手をすれば、総務課時代以上にパワハラかもしれなかった。

 でもそうならなかったのは、絢乃さんも義母も、僕のことをキチンと「人間」として扱ってくれているからだと思う。だからこそ、僕は今でもこの仕事を続けられているのだろう。……もちろん、絢乃さんの夫になったからというのもあるだろうが。


****


  ――僕は車を走らせ、京王けいおう八王子駅からほど近い茗桜女子学院高等部の校門前に着くと、そこで車外に出て絢乃さんを待った。

 時刻は三時ニ十分過ぎ。そろそろ終礼が終わって出てこられる頃だと思いながら、グレーのコートの襟を掻き合わせた。


「――あっ、桐島さん! 寒い中、お迎えご苦労さま!」


 僕が彼女を見つけ、「お迎えに上がりました」と言う前に、彼女の方から僕に気づいて声をかけて下さるのは毎回のことだった。……何だか秘書として格好がつかない。


「いえいえ。絢乃さんこそお寒いでしょう? どうぞお乗り下さい。車内は暖房を効かせてありますから」 


「ありがとう!」


 助手席のドアを開けると、彼女はニッコリと笑って僕にお礼を言いながら暖かな車内に乗り込んだ。

 絢乃さんは会長に就任後は、僕の車の後部座席に乗られたことがない。大企業の重役クラスの人は、たいてい後部座席にドッカリ乗っているものなのに……。

 僕は一度、彼女に理由を訊ねたことがあったのだが。「後部座席に乗ると偉そうに見えるからイヤ」というのは果たして本音なのだろうか? 本当の理由を話してくれたことは、夫婦となった今に至るまで一度もない。


「――今日は急ぎの案件ってどのくらいあるの?」


 車の中で、彼女は女子高生から〈篠沢グループ〉会長の顔に切り替わった。これだけはっきりオンとオフを切り替えられるのは、幼い頃からの心構えのたまものだろう。


「そうですね……、五~六件というところですかね。あと、取材のお話も何件か頂いているんですが、どういたしましょうか?」


「それ、どんな取材なの? 内容によっては貴方が断ってくれて構わないわ」


「ネットニュースの記者さんだったと思います。お断りした方がよさそうですね」


 新聞や経済誌の取材なら、絢乃さんは「会社のため」「グループのため」と積極的にお受けしていたが、ネットニュースの取材にはあまりいい顔をなさらなかった。きっとあることないこと書きたてられて、社員や他の役員に迷惑がかかることを懸念されていたのだろう。


「お願いします」


 実は彼女のあずかり知らないところで、僕の判断によって断ってきた取材申し込みも何件かあったのだ。彼女が知りたがらないので、僕もお伝えする気はなかったのだが……。


 ――会社に到着し、最上階の会長室で業務を代行されていた義母とバトンタッチすることから、彼女の「会長」としての仕事が始まるのだった。

 この日も、彼女のもう一つの日常が始まった。


「――ママ、今日もご苦労さまでした。交代ね」


「絢乃、後はよろしく。じゃあ桐島くん、私は帰るわね。お疲れさま」


「はい。お疲れさまでした」


 ……あれ? 確か俺、ここを出る前にも「お疲れさま」って言ってなかったっけか? 僕はそう思ったものだが、「お疲れさま」は何回言ってもバチが当たらないので気にしなかった。


「――さてと、じゃあわたしもお仕事始めようかしら。桐島さん、急ぎの案件ってこれだけなのね?」


 義母が温めていたデスクに着き、さっそくパソコンにログインした絢乃さんは、未返信のメールの件数を僕に確かめた。


「ええ。本当は加奈子さんが処理されてもよかったんですが、会長にしかその権限はございませんので」


「そう……。親子っていっても、ママは会長代行で決定権はないものね。ちょっとかわいそうっていうか、何かと不便よね」


 彼女は手早く決裁をしながらボヤいていた。そのことを一応は納得されていたものの、やっぱり不便さは感じていらっしゃるようだった。


「そうですね……。ですが、加奈子さんご自身がお決めになったことですから」


 経営上の余計な争いを招かないよう、ご自身はあくまでも裏方に徹する。それが絢乃さんのためにもなるのだと、義母はそうおっしゃったのだ。親子だからこそ、権力争いで社内に波風を立てたくないのだと。


「そうよね。まぁ、元々ママは経営に興味なかったみたいだし。だからお祖父さまの後継者にもならなかったんだけど」


「教員が副業禁止だから、というのもあったでしょうけどね」


 確か、家業の手伝いは副業に当てはまらないのではなかったろうか? だとすれば、後継者になっても支障はなかったはずだが。そうしなかったということは、やっぱり義母は経営とは無縁の人だったということだろう。


「――ところで会長。今は何をなさってるんでしょうか?」


 メールの処理は終わっていたはずなのだが、彼女はまだパソコンに向かって何かをせっせと打ち込んでいた。

 彼女のデスクのすぐ側まで行って手元を覗き込むと、彼女はワードのソフトを起動させ、何かの文書を作成しているように見えた。


「これ? フフッ、内緒」


 彼女は澄ました顔で、僕の問いをやり過ごした。――その正解が分かったのはその翌日のことだったのだが。


 彼女は仕事中にも、秘書である僕に様々な表情を見せてくれる。真剣に難しい案件に向き合う顔、時々見せる等身大の女の子らしいイタズラっぽい顔、堂々とした経営者としての顔……。

 どの表情も僕にとっては愛おしくて、可愛くて。僕はいつも仕事と煩悩――もとい恋心との狭間でひとり悶絶していたのだった。

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