僕がやるべきこと ②

「はい、おやすみなさい。湯冷めしないようにして下さいね? 最近、夜はちょっと冷えますから」


 この言い方は、ちょっと父親っぽかったかもしれない。もしくは彼女の兄っぽかったのだろうか。けれど、僕は彼女の体調が心配だった。

 日本には〝病は気から〟ということわざがある。父親が倒れて精神的にダメージを受けていたはずの彼女が、湯冷めしてカゼでも引かないかと心配だったのだ。


『うん。……じゃあ』


 そう言って電話を切った彼女の声は、最後笑っていたように僕には聞こえた。


「――さてと、俺も風呂入るか」


 翌日は平日で、僕ももちろん出勤しなければならない。けれど、投げやりだったその前日までとは違って、その日は少し前向な気持ちになれた気がした。

 今すぐの異動はムリでも、気持ちを切り換えて動き出せばいい。そう思えるようになっていた。


 ――僕の住んでいた部屋は、一応風呂・トイレ付き物件だった。ただし小さなユニットバス。篠沢邸の、独立したバスルームとトイレのあるホテル並みの豪華な部屋とは雲泥の差である。


 疲れていたのでシャワーだけにしようとも思ったが、彼女に「湯冷めしないように」と釘を刺しておいて、自分が風邪を引いてしまっては身もフタもないと思い直し、面倒だがバスタブにお湯を張って浸かることにした。


 ――入浴しながら、僕は彼女のことを考えていた。


 その日の彼女はメイクをしていたし、髪にもウェーブがかかっていたので気づかなかったが、彼女は素顔もキレイだ。

 肌は白くてきめ細かくてツルツルで、唇はグロスを塗らなくてもツヤツヤ。茶色がかったロングヘアーはつやがあってサラサラである。きっと毎晩、入浴のたびに手入れを欠かさないのだろう。


 きっと今ごろも――。彼女は誰のことを考えてお手入れしているのだろう? ……と考えたところで、加奈子さんが「絢乃さんは初恋もまだだ」とおっしゃっていたことを思い出した。


 だったら僕のことを考えながら、お手入れしてくれていたらいいな。――そうこっそり思っていたのは、彼女には今でも内緒である。


****


 ――翌朝。僕が総務課に出勤すると、島谷課長はご満悦の様子だった。


「桐島くん、おはよう」


「おはようございます、課長。昨夜のパーティー、しっかり代理出席させて頂きました」


「そうかそうか、ご苦労だったな。――そういえば、企画課の課長から聞いたんだが、昨夜は大変だったそうじゃないか。会長がお倒れになったとか」


 前夜の出来事は、彼の耳にも入っていたらしい。ただし、現場に居合わせていたわけではないので、言い方がどことなく他人事のようだ。


「はい……、そうなんですよ。この会社、これから一体どうなるんでしょうか」


「まぁ、会長が直接経営されとるわけでもなし。何も変わらんよ。――じゃ、今日もしっかり働いてくれたまえ」


 普段と何の変りもなく、バシバシと僕の肩を叩く課長に、僕は無性に腹が立った。

 この危機感のなさは何なんだろうか? そして多分、彼の性根はこの先も一生変わることはないのだろうと、僕は悟った。


「――おっす、桐島。あの課長、もうダメだな」


 自分の席に着いて仕事を始めると、同期の久保がやれやれと肩をすくめて僕にそう呟いた。


「久保、お前もそう思うか? あれは一生直らねぇな」


 僕も彼に同調してため息をついた。そして、異動への決意はますます固まっていくばかりだった。

 こうなればもう、あのパワハラ上司にも、総務課という部署にも未練はなかった。久保や他の同期・同僚には申し訳ないという気持ちもあるにはあったが、僕には彼らよりも絢乃さんの方が大事だったから。


「――なあ久保。俺さ、近々部署変わろうと思ってんだけどさ」


「異動? あれ、会社辞めたがってたんじゃなかったっけか?」


 一番馬の合う同期である彼にボソリと打ち明けると、彼は怪訝けげんそうに眉をひそめた。

 彼に直接「会社を辞めたい」と話したことはなかったはずだが、あれだけあちこちで「辞めたい」とグチっていれば、いつ彼の耳に入っていてもおかしくはなかった。


「うん……。そうだったんだけど、ちょっと事情が変わっちまってな。辞めはしないけど、転属はしようかと思ってんだ」


「ふぅん、そっか……。で、転属先はもう決めてあんの?」


「……いや、それはまだこれから考えようかと」


 転属を考え始めたのは、その日の前夜だったのだ。どこの部署に異動するかまでは考えが及ばなかった。

 絢乃さんが会長に就任するとして、彼女の一番身近にいられる部署はどこだろう? そう考えると、小川先輩の所属している人事部秘書室が真っ先に浮かびそうなものだが……。


「つうかお前、パワハラのこととかって人事部には相談したのか? 転属するとなったら、絶対そこは突っ込まれるぞ?」


「分かってるけど、相談しに行ったら課長の耳に入るかもしんないじゃん? そうなるとまた面倒なんだよなぁ」


 もしそうなってしまった場合、正式に異動が決まるまでの間に嫌がらせがエスカレートする恐れがあったのだ。そして多分、僕一人が被害をこうむるだけではなく、そのとばっちりは他の同僚にも行くだろうことも分かっていた。


「ま、心配すんなって。そこんとこは人事部がどうにかうまく処理してくれるだろうからさ」


「……そうかな? まぁ、嫌がらせの相談はともかく、転属希望くらいは聞いてもらってこようかな」


「それがいいんじゃね? 行くなら早い方がいいと思うぜ」


 彼は僕を助けようとしてくれているのだと、僕は気づいた。彼に小声で「サンキュ」と礼を言い、仕事に集中しているフリをした。

 ちなみにここまでの久保との会話は、課長には聞こえていなかったようである。


「――桐島君! これからすぐに、経理部まで行ってくれんか」


 課長が領収書の束を持って、僕の席までやってきた。

 また面倒な仕事を僕に押しつけるつもりだと分かったが(経費の精算は、本来各部署の責任者がまとめて行うことになっているのだ)、一度は辞めることまで考えていた僕にはもう、この程度の圧力は怖くも何ともなかった。


「はい! 行ってきますっ!」


 課長から領収書の束をひったくると、僕は勢いよく椅子から立ち上がった。


「毎度毎度、お前も大変だな。……俺が代わろうか?」


「いや、いいよ。行ってくる」


 久保が代わりを申し出てくれたが、行かないのは課長に負けを認めるようでシャクだった。「負けるもんか!」と自分を励まし、鼻息も荒く総務課を後にした。


 どうせ、この部署にいるのもあとわずかの期間なのだから、と。


****


 ――その日の昼休み。僕が社員食堂でひとり(もちろん、他の社員もいたのだが)ラーメンをすすっていると……。


「――桐島くん。向かいの席、いい?」


「どうぞ。……って小川先輩!?」


 女性の声がしたので顔を上げると、トレーを持って立っていたのは小川先輩だった。

「ありがと」と言って僕の向かいの席に座った彼女のメニューは、唐揚げ定食だった。


「今日、会長はお休みのはずですよね? 先輩は会社にいらっしゃってていいんですか?」


 ボスが休んでいらっしゃるのに、秘書だけが出社していていいのだろうか? 僕が疑問をぶつけると、白いご飯が盛られた茶碗を持ち上げた彼女が眉をひそめた。


「……どうしてそのこと、あなたが知ってるの? 昨日お倒れになったことはもう社内に知れ渡ってるけど、会長が今日出社されてないことは、まだ一部の人しか知らないはずよ?」


「それは……えっと、絢乃さんから伺って……。昨夜、お電話で」


 彼女にはウソはつけないので、僕は正直に白状した。


「絢乃さんから? 連絡先、いつの間に交換したのよ」


「昨夜、帰りに彼女をお家までお送りすることになったんで、その時に。……あっ、僕から言い出したんじゃなくて、彼女の方がおっしゃったんですよ!?」

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