第11話「戦後」(最終回)

 砂漠の街——カール・マリア。

 ビーナスの首都ニコロから西へ約一〇〇キロ——。

 世界で最も美しい砂漠と言われるホアン・クリソストモ砂漠を北に眺めながら一面の砂の海を進むと、突如として目の前に現れる輝く街——。

 その敷地は決して広い物ではない。街の中心には国内でも最大級の高級リゾートホテル——マッテオ・ホテルが二棟そびえ立ち、その周りを第二、第三のリゾートホテル、ショッピングセンター、歓楽街、そして外周を埋めるように居住区が配され、その機能はほぼ完全に観光及びリゾートの為の街だ。それはさながら、砂漠の中のオアシスのようでもあった。

 マッテオ・ホテルグループの親会社——フェルディナント開発は、世界各地に高級リゾートホテル及びリゾートスポットを有する世界でも有数な観光企画開発会社だ。元々は南半球大陸の中の小さな国——デネボラの小さな会社であったが、先の世界大戦前から観光開発を始め、その後の各国の戦後復興の波に乗って事業を拡大し、今ではその名前を知らない者はいないのではないかと思われるほどだった。ビーナス国内に於いては先の戦前にニコロ市内にリゾートホテルを建設し、戦後に改築を進めることで高級化を図り、その延長線上としてカール・マリアに目を付ける。近くにホアン・クリソストモ砂漠を有し、観光スポットの拠点としても申し分ない。かくして、後続の企業も巻き込む形で、名も無い砂漠の中の小さな街——カール・マリアは人口のオアシスへと生まれ変わった。

「人口のオアシスか……」

 ロザリスは助手席に深く身を沈めたまま、しだいに近付くカール・マリアの街の灯りを眺めながら呟いた。フロントガラスには大粒の雨が当たり、繰り返し行き来するワイパーもさほど意味を成さない。そのワイパーと雨の造り出す不規則な波が遠くにあるはずの多種多様な灯りを拡散させ、ロザリスの視覚の中の距離感を鈍らせる。

「本物のオアシスも、あんな風に見えるのかな……」

 すると、車を運転するバスコノフが応えた。

「それが“幻”でもですか?」

 ロザリスはゆっくりと首を回し、バスコノフの横顔を見て聞き返す。

「あれは……“幻”なのか?」

「幻みたいなものですよ……金持ちの快楽の為に造られた街なんて……俺は好きになれませんね」

「金持ち、か……」

 そう呟くように言ったロザリスは、再びその幻の街の灯りに視線を戻した。

 バスコノフが続ける。

「この戦争のお蔭で当事国の観光産業はボロボロなのに、ここが中立国ってだけで世界中の金持ちが集まってやがる……中立国の皮を被った当事国だっていうのに——!」

「世間は何も知らない……だからあんな極秘裏の外相会談なんてものが成り立つのさ。しかも極秘裏でありながら“茶番”だ。その場の誰もが、それが“茶番”であることを知っていながらそれを演じ切る……終戦協定を発表する時の材料の一つとする為だけにな。ビーナスとしても、終戦後の外貨を稼ぐ為にこの街の宣伝が出来れば一石二鳥だ。マースとネプチューンに……というより世界に対して恩を売るほど、この国は綺麗な国じゃない」

「大国の思惑ってやつですか……」

「もしかしたら……どの国も同じなのかもしれないな……」

 ロザリスは深い溜め息をついてから続けた。

「俺達の国だって同じなのかもしれない……国の誇りを失った時点で、どの国だって同じだ……いくつかの小さな国は大国の垂れ流す甘い汁を吸って生き長らえてるくせに、何か問題があると大国を悪者にしたがる……大国もそれをわかっているからこそ、真剣に小さな国を助けようとはしない……どの国も誇りを持ってるのは一部の人間だけで、国そのものは誇りなんてものには見向きもしない」

「駆け引きなんて言葉は綺麗事だってことですか?」

「リベラルな連中が世界は一つってことにしたいが為の言い訳さ。世界はバラバラだ——世界が一つだったことなど過去に一度としてない。バラバラでいいんだ……世界が一つになるってことは、それぞれの国がそれぞれの誇りを失うってことだ」

「誇りを失わずに一つになることは——」

「それこそリベラルな御都合主義だ。“誇り”と“誇り”はぶつかる——いつも戦争の理由はそこだ。どの国も、どの人種も、自分達が一番だと思って疑わない。いつの時代もそうだ。人間ってのは……そんなに綺麗なものじゃないのさ……」

「…………」

 やがて車は、街の中に入っていく——。

 最初は点々と住居とガソリンスタンドが並んでいるだけだったが、しだいにそれは街並みへと変化していった。

「そういえば、面白いことを聞きましたよ」

 街並みの変化に驚くロザリスに、バスコノフが続けた。

「最近、この辺りで雨の量が増えてるそうですよ。なんでも、この街やニコロのせいで工場の煙やら車の排気ガスやら……人口も急激に増えて気温も上がってるそうです」

「そんな簡単なものなのか?」

「でも今夜の雨だっておかしいと思いませんか? 砂漠の雨じゃありませんよ。スコールにしちゃ小規模だし、時間も長い……」

「こういう雨が降ることだってあるってことさ。珍しいだけだ。週刊誌のゴシップ記事に踊らされるな。どうして降るのかなんて俺も知らないけどな」

「でも、俺もここに来て数か月になりますけど、こんな砂漠らしくない雨なんて初めてですよ。大体スコールって夏じゃないんですか?」

「だからスコールの降り方じゃないんだろ。俺に聞くなよ。歴史的な夜になる日を演出してくれてるのさ。俺達の為にな……」

「ならいいんですが……」

 マッテオ・ホテルのツインタワー第一ビル——第二ビルと同じく高さは地上九八階。最上階は展望台フロア。その下の階は高級レストランとショップ。その下は九六~九二階までがワンフロア一部屋のスイートルーム。その下は遥か下の三階までが通常の宿泊室だが、階が下がるほど金額も下がる。一階と二階は第一ビルと第二ビルを繋ぐ巨大なフロアで、吹き抜けのフロントや高級レストランが並ぶ。第一ビルと第二ビルの違いは会議室の存在だ。第一ビルのスイートルームフロアの下の階——一フロアに複数の部屋があり、続けて五フロアある。

 その一番上——九一階の会議室の一つに、準備は整えられていた。

 ビーナス政府・要人移送用ヘリが三機、屋上のヘリポートに到着する。その光景を第二ビルの屋上から見ていたロザリスが一人呟く。

「大胆だな……政府関係者が乗っているとアピールしてるようなものだ」

 第二ビルの屋上にヘリポートは無い。予算の問題なのか、殺風景なものだ。かろうじてある縦格子のフェンスも所々錆びついている。ロザリスから見たら、それはとても高級リゾートホテルとは呼べないような風景だった。

 ツインタワーと言ってもその間の距離はかなりのもので、ロザリスからは三機のヘリから降りる人間を辛うじて肉眼で確認するのがやっとだ。ロザリスは濡れた屋上のコンクリートに膝を落とし、黒いアタッシュケースを開けた。中から取り出したライフルの部品を組み立てながら、再び呟く。

「大胆とは言っても、こんな夜中に、しかもこの雨か……こっちも難しいな……」

 いくらかは収まったとはいえ。未だ降り続く雨が容赦なくロザリスの体を冷やしていく。一応レインコートと目元の雨避け用の帽子を被ってはいるが、それがそれほど意味を成さないことはロザリスにも分かっていた。帽子のツバから滴り落ちる雨が手元を濡らす中、ロザリスは黙々とライフルを組み立て続ける。

 そろそろ部屋に入った頃か——そうロザリスが思った時、耳のイヤホンから声が聞こえた。

『中尉——部屋に入りました——』

 そのイヤホンはコードで胸ポケットの小型無線機に繋がっていた。そこからバスコノフの声が続いた。

『——ビーナス側が五人——テーブルの向かいに六人いるので——おそらくマースとネプチューンが三人ずつ——盗聴を開始しますか?』

「始めろ——」

 ロザリスの声を無線機のマイクが雨交じりに拾う。

「音が拾えたらダイレクトに無線機に繋げ。直接聞きたい」

『——了解しました——』

 ロザリスはライフルを組み立て終わると、コンクリートに俯せになって足を伸ばした。そのままライフルを構え、少しだけ格子のフェンスから銃口を出し、斜め下——九一階の会議室に向ける。

 雨で濡れたスコープに右目を押し付けると、その部屋を探した。スコープも湿気のせいか僅かに曇っているようだ。やがて目的の部屋を見付けたロザリスの耳に、再びバスコノフの声が響いた。

『——中尉——雨のせいだと思われますが——音声がウマくモニター出来ません——雨で光の反射が遮られるのか——途切れ途切れで——』

「構わない。繋いでくれ」

 バスコノフはロザリスのいる屋上から数階下——第二ビルの九一階にいた。第一ビルの会議室とは階だけは同じだが、第二ビルには会議室が無い為に通常の客室である。そこの窓から、バスコノフは光の反射を利用した盗聴を試みていた。光線を当て、その反射した振動を音声に変換する装置だったが、元々はマース軍で開発されたばかりの物で、その完成度は決していい物とは言い難い。今夜のような雨で光の反射が不規則に遮られるだけで、簡単に制度が落ちた。

『——繋ぎます——』

 バスコノフの言葉に、雑音が続いた。

『……——このフロアだって——ではありません——上の階と下の——は全て押さえて——すから——……』

 雨が邪魔だ——ロザリスは音に耳を傾けながらも、そんなことを思っていた。

『……——何も御心配は——せんよ——……』

 しかしその音が少しずつだが聞き取りやすくなってきた。

 バスコノフめ……練習の時より装置の使い方が上手くなった——そう思ったロザリスは、いつの間にか雨の音が気にならないほどに“声”に意識を集中させていった。

『しかし我が国の外交官が殺害されたことは事実です——今回の会談の情報は、どこかの国が入手していることは間違いない——』

『しかし仮にそうだとしても、これは終戦協定の為の外相レベルの会談だ。どこの国だって戦争が終わるのに反対する国はいない——』

『元はと言えばあなた方の国が——』

『失礼な——一度は独立を認めておきながら紛争など始めるから——』

『まあまあ——事の起こりというのは思った以上に小さなものですよ。特に戦争に於いては、いつの時代もそういうものです——今夜の会談は極秘裏ではありますが公式なものです。とりあえず終戦の方向で話を進めるべきかと……あいにく、どちらの国も我が国の提案には御納得されていると聞いていますが……お間違いは御座いませんか?』

『無論だ。その為に来たんだ。でなければこんな雨の降る砂漠になど……』

『我が国も異論はありません』

『分かりました。貴国の外交官の殺害事件に関しては現在も捜査中です』

『外交官? 諜報員じゃないのかね』

『ただ、情報が漏れたとして、それにどれだけの意味があるのか我々も検討しました。あれからおよそ一週間です。マスコミ関係に流れたとするならば、もう発表されていると考えるのが自然でしょう。しかしまだ何も動きがありません。それにジャーナリストが殺害をしてまで情報を欲しがるという発想は、いささか行き過ぎかと思われます。他に考えられるのは、戦争に終わってほしくない人間、組織等ですが……何か心当たりがあれば……』

『反戦を“売り”にしているような革命家気取りの連中なら山ほどいるが、そういうのは……』

『我が国もそうですね……思い当りません。そもそも情報の中身を分かっていたんでしょうか……そうでないなら——』

『それなのに殺害かね。そこまでは普通せんだろう』

『どっちにしたとしても、この会談を妨害する理由は見付かりません』

 …………。

『さて……今回の協定に話を戻しますが、これは私共の提唱という形で、国際連合での共同発表——この点は問題御座いませんね?』

『まあ……そういうことのようだな』

『確認事項の一つですが、戦勝国無しでの停戦協定から終戦協定への移行という流れになります。この点も問題御座いませんか?』

『ありません。事前協定の通りです』

『そういうことでいいじゃないか。確認などせんでも協定書にサインすれば済むことだ』

『元々はあなた方の国の疲弊が——』

『それはお互い様なんじゃないかね。そっちは原油も底をついてるというじゃないか』

『——これは私のオフレコということでお話し致しますが——結局、どちらも敗戦を認めたくないが為の停戦協定と我が国は受け取っていますが、仲介をするこちらとすれば、この貸しは決して小さくはありません——お分かりだと思いますが、今後の世界の成り立ちに影響を与えることです。国際連合として、ウマく立ち回ることも必要かと思われますが……』

『……立ち場か……』

 なるほど……ただの大国という訳ではないようだな……意味もなく中立国でいた訳ではないのか……。

 大国の造ったシナリオの為に……俺達が生きるも死ぬも決められているというのか……。

 ロザリスの指が引き金にかかる——。

 引き金も雨に濡れていた……。

 しかし、思いがけない背後からの声に、その指は浮いた。

「ご苦労さんだな。この雨の中……」

 ロザリスは振り向かない。

「お前が狙うとしたらここだろうと思ったよ」

 聞き慣れた声——ウラサスの声が、ロザリスの背後から続く。距離はそれなりにあるようだ。

「高層ビルだ。上の方の階は窓も開けられないからな。そこから向こうのビルの部屋までちゃんと狙えるのか?」

 するとロザリスは、スコープから目を離さずに応えた。

「これだけの距離があれば、その分、相手からの角度は浅くなる」

「スコープはどうだ? レンズに光が反射して見付かっちまうぜ」

「軍事用の狙撃ライフルだ。反射を最大限抑えたレンズが使われてるよ」

 ウラサスは軽く溜め息をついてから応える。しかしその溜め息まではロザリスには聞こえない。

「軍事用か……御大層なこったな。そう言えば、ネプチューンが軍事用に気候を変動させるミサイルを開発したらしいぜ。早い話が人工的に雨を降らせるってことらしいんだが……この間ネプチューンに行った時に小耳に挟んだだけで、本当かどうかは知らねえ。ただ、お前みたいな奴を妨害する為なら使うかもな……砂漠のど真ん中でこんな時期にこんな雨なんて聞いたことがねえ」

「あまり妨害にはなってない。こっちは計画通りだ」

「それもそうか。まさか向こうさんも、こっちが軍事用高性能ライフルだとは思ってねえだろうしな……というより、軍人に狙われるなんて思う訳がねえ。戦争を終わらせようってのに……それとも軍人の中には、お前みたいに戦争好きな過激な奴が多いのか?」

「——過激?」

 ロザリスは振り向かないまま、ライフルを構えたまま続ける。

「……俺は人を殺すのが好きな、過激な奴か……?」

 ロザリスがイヤホンを外した。それに気が付かないウラサスが応える。

「違うのか?」

「…………」

「俺には、そう見えるぜ」

「……残念だよ……」

 ロザリスの体が動く……そして、ゆっくりと立ち上がった……。

 背後のウラサスに体を向けたロザリスの顔は見えない……三メートルほどしか離れていないウラサスからも、雨とビルの逆光でロザリスの表情は影のままだ。しかし帽子のツバから滴り落ちる雨だけが、なぜか光を受けて輝いていた。

 そのウラサスはフード付きの長めの黒いレインコートに体を包み、まるでロザリスの前に立ち塞がるようだ。両手はそれぞれレインコートのポケットに入れられたまま……。

 そのウラサスが、先に口を開いた。

「……お前は……何がしたいんだ?」

 雨の音だけが、二人の間に響いた。

 ロザリスは応えない。

 ウラサスが再び口を開きかけた時、その耳に、やっとロザリスの声が届いた。

「……俺は……大国の思い通りに世の中が動くのが許せないだけだ……いつまでも……利用されたくない……」

「気持ちは分かる——なんて言うつもりはないぞ。甘えたこと言ってんじゃねえよ。隣のビルのあいつら殺したからって、だからって何かが変わるのか!」

 自然とウラサスは叫んでいた。

 二人の目の前を落ちていくだけだった雨が、微かに震えた。その中で、ロザリスは呟くように応える。

「——俺が……この戦争を終わらせる——」

「あいつら殺したら泥沼だろうが——!」

「お前に——何が分かるんだ……」

「ありきたりの言い訳だな……まだそんなガキみたいなこと言いやがって……」

「俺は……——」

「お前なりの理想か? 革命か? それは何だ——お前に説明出来るのか?」

「あんたは……もう少し分かってくれてると思ったよ……」

「甘えやがって……お前が殺しに快感を覚えてるとしたら、俺にも責任があるとでも言いたいのか?」

「いや……あんたが……そう思いたいだけなんじゃないのか?」

「かもな……だが俺は言い訳はしないぜ。俺もお前の“革命”に、一度は賭けた人間だ」

「だったら——」

「お前はなあ、人を殺すことで自分が生きてることに意味を持たせたいだけなんだ。お前はそういう人間になっちまったんだよ……!」

 雨が、強くなった……。

 その中で、ウラサスの耳に、ロザリスの声が響く……。

「……殺される恐怖は知っていても……殺す恐怖を味わったことのないお前に何が分かる……」

 ロザリスの右腕が上がっていた——。

 ウラサスから、自分に向けられた小さな銃口が見えた——。

 しかしウラサスは応える——。

「その恐怖を自分の生きる為の“糧”にしてるようなお前に……歴史は動かせない……」

 ロザリスの右腕が、ゆっくりと下がり始める……。

 ウラサスが続ける——。

「……何が、“革命”だ——」

 銃声が鳴った——。

 同時にウラサスの左足に激痛が走る——。

 ウラサスはそのまま、自然に体が沈んでいくのを感じた……そして、両膝が硬いコンクリートに打ち付けられる……その激しい振動がウラサスの意識を一瞬遠のかせるが、痛みは鉛の弾に撃ち抜かれたものに比べると、ほとんど感じなかった……。

 ロザリスの目が見えた……その直後、ウラサスの口が自然に開く……。

「……俺だったら……」

 ロザリスの引き金にかかる指が、動き始める……それに呼応するようにゆっくりと戻り始めた撃鉄が弾かれる直前、ロザリスの耳に、ウラサスの声が微かに響いた……。

「……お前を……助けられたかな…………」

 ウラサスの耳に、銃声は聞こえなかった……。

 ただ、ウラサスの体の中心を熱い物が突き抜けた……。

 全身が、一瞬だけ熱くなる……しかし、ウラサスはすぐに何も感じなくなっていた……大粒のはずの雨の音も聞こえない……。

 静かだった……ただただ静かで、ウラサスにとってその静けさは、まるで世界の終りのように感じられた……世の中が消えて無くなろうとしている…………目の前の輝く光景も雨に濡れ、その雨すらも消える直前の輝きを増す…………。

 そして、ウラサスの世界は……終わる…………。

 冷たく濡れたコンクリートに俯せに倒れたウラサスに、ロザリスは銃口を向けたまま、そのまま動かなかった。ウラサスが二度と動かないことはロザリスにも分かっていた。倒れる直前のウラサスの“目”が、それを表していたからだ。しかしその目が、自分の目と似たものであったことにロザリスは気が付いていない。それ所か、不思議と何の感情も湧かない。それだけを、ロザリスは無意識の中で理解した。

 やがてその無意識の中の視界に、ぼんやりとした人影が入り込み、ロザリスの意識が動き始める。

「……中尉……」

 バスコノフの声が聞こえた。

 その声に背中を向けたロザリスは、何も応えずにライフルを手に取り、構えた。

「……中尉……マイクで呼びかけても反応がなかったので……」

 ロザリスに近付くその声は、一度立ち止まった——。

「バークさんが少し前に部屋に……来て…………中尉?」

 偽名で部屋を予約してたのに……どうして……ここに来なければ——ロザリスの頭の中に、急に様々な感情が溢れた。

「中尉……どうして……何が……」

 言葉にならないそのバスコノフの言葉は、ライフルのサイレンサー越しの乾いた銃声で遮られた——。

 それとほぼ同時に、バスコノフの耳のイヤホンから、怒号とガラスの割れる音が響き続ける——。

 銃声が何度鳴ったのか、バスコノフには数える余裕もない。しかし、やがてイヤホンから聞こえる音は小さく、静かになった——。

 半ば呆然と立ちすくむバスコノフの目の前で、ロザリスが動く。淡々とライフルを分解し、決して焦りも見せずにアタッシュケースに戻し始める。やがてアタッシュケースを閉じたロザリスは、それを片手に、立ち上がった。

 その時ロザリスは、コンクリートに散らばる薬莢の存在に気が付いた。自分でも何度引き金を引いたのか覚えていない。ロザリスにしては珍しいことだ。

 ロザリスはその薬莢を拾い始める。そしてコンクリートの上に立てた状態で並べた……それでもその数を数えようとは思わなかった。どうでもいいようなことに思えた……。

 その光景をただ眺めているしかなかったバスコノフに、ロザリスは歩き始めながら言葉を投げかけた。

「行くぞ」

「は、はい」

 しかし、足を止めたロザリスに呼応するように、それを見たバスコノフも動かし始めた足を止める。

 ロザリスは拾いそこねた薬莢が二つ転がっているのを見付け、立ち止まり、それを拾い上げた。ライフルの物ではない。拳銃の物だ。

 ロザリスはその二つを、倒れて雨に打たれるままのウラサスの傍に立てて置く——その時、ポケットから出ているウラサスの右手にリボルバーが握られているのに初めて気が付く——。

 ——助けるつもりで…………?

 そして、ロザリスは黙って歩き始めた。

 薬莢を立てる行為にどんな意味があるのか、やはりロザリスには分からない。自分の全ての行いに意味があるのか、その結果が何を造り出すのか、ロザリスにとってそれは、永遠の謎でしかないのだろうか……。

「ついてくるか?」

 ロザリスのその言葉に、バスコノフは身構えた。

「俺の片腕になれ————」

 バスコノフの“目”が、変わった——。

 雨は、益々強くなっていた…………。



 数か月後————。

 再び招集されたマース、ネプチューン、ビーナスの三カ国による非公式の外相会談によって、停戦及び終戦協定が結ばれる——。

 地球歴三六三四年九月——。

 戦勝国の無いまま、およそ五年間に渡る二度目の世界戦争が終わる……。

 参戦国、非参戦国共に、安堵と同時に疲弊しきった世界情勢に驚愕した……。

 ロザリス・シオン、二九才——。

 バスコノフ・スヴァル、一八才——。

 そして——。

 アルクラス・フィオス、二〇才——。

 五年……それは、若者達の成長と言うには、あまりにも過酷な五年間だった…………。



 再び世界が終戦を迎え、各国が独自に戦後処理を進めていくことになる。

 しかしそれは、あくまで国際連合が主導するものだった。

 国家としての殆どの機能を失った国もあり、その対策が急がれた。八カ国同盟のフェクダ、ベテルギウス、カストル、カペラ——四カ国同盟に至っては全ての国がその対象だった。

 世界が暗い時代に突入する中、サターンの被害も甚大なものがあった。特にイザル国境に近い地域の空爆の跡は痛ましいほどで、消失せざるを得なくなった村や町も多い。攻撃対象は軍事施設だけとは限らなかった。戦後すぐに、いくつかの小国から提唱された問題ではあったが、国際連合としては今後の議題の一つとするに留まっていた。あくまで大国と言われる三カ国が主導権を掌握する、世界で最も大きな国際機関——国際連合とは、その程度のものでしかなかった。

 サターン国内、イザルとの国境近くの小さな村——ヘルベルト——。

 終戦からおよそ一か月。まだまだ世界的に復興の兆しの見えない頃、ロザリスはその村にいた。

 カール・マリアでの襲撃事件の後、バスコノフと姿を隠して数か月に亘る逃亡生活をしていたロザリスは、終戦とほぼ同時にサターンに戻っていた。当然、軍には戻れない。軍からの逃亡は国家反逆罪に相当する罪だ。生まれ故郷であるこの国にも、二人に正規の居場所はない。

 自分の名前や過去を捨て、危険を冒してまで二人がやってきたこの小さな村は、ロザリスと墓守をしていた頃のアルクラスが初めて会った場所でもあった。ロザリスにとっては母親の眠る墓地……アルクラスが母親を埋葬してくれた墓地……二度会ったにすぎない墓守の少年……。

 “死”と距離の近かったロザリスにとって“死者”と距離の近いアルクラスは、なぜか特別な存在に思えた。“死”との距離を罪と感じてそれを償いたい訳ではない。しかしロザリスは、母親をそこに埋葬したことは正しかったと思っている。アルクラスに自分が何を見ていたのかは未だに分からないが、なぜかロザリスはアルクラスを忘れられずにいた。

 墓地は、あの頃とは違った……荒れ果てていた……。

 雑草も伸び放題で、門の外側には大量のゴミまでもが積み上げられている状態だった。とても誰かが管理しているとは思えない。

 あの少年は……? ——そう思いながらも、ロザリスはバスコノフを車に残し、墓地の鉄製の門を開けた。あの頃も決して綺麗な門という訳ではなかったが、今は全体が赤茶色に錆びついている。そのせいか、開ける時の重さも増したように感じてしまうくらいだ。

 一歩、足を中に踏み入れた時、背後から声がかかった。

「墓参りかい?」

 振り返ると、六〇才くらいだろうか、頭に白い物がだいぶ混ざっている男が立っていた。男は続ける。

「片手に花持ってんだから、そりゃそうだよなあ」

 ロザリスが左手に持っている小さな花束を見て、その男は口元だけでニヤリと笑った。決して感じのいいタイプには見えなかった。

「ええ……母の墓参りに——」

「そうかい。俺は最後の見回りに来ただけの臨時職員だ。気にしないで入りな。まあ、見回りったって適当に時間潰して帰るだけだからよ」

 男はそう言うと、先に墓地の中へと入って行く。

 臨時職員……? ロザリスも中に入り、おぼろげな記憶を頼りに、久しぶりの母親の墓を探した。

 かつてアルクラスが墓標の板に掘ってくれた文字が、そこにはあった。長い間の雨ざらしのせいか板の一部は腐りかけ、文字を掘った後も削れて薄くなっていたが、それでも間違いはない。母の名前と、あの字だ。

 母親が死んでから七年……あまりにも多くの出来事が、ロザリスの意識を過ぎる……。

 過去を振り返るつもりはない。後悔もするつもりはない。しかしここにだけはまた来よう……そう思わせるだけのものが、板に掘られただけの文字には確かにあった。

 花を添え、立ち上がり、墓標に背中を向けた時、その視界に隣の墓標が入る——。

 ……“シャビル”…………——。


  ——俺がまだ子供の頃さ……あの村の産まれでな……——。

  ——墓標の板だって古くなれば新しくしてくれるし……——。


 隣の、やはり板だけの墓標には、確かに“シャビル”の文字が掘られていた……。

 ……そう言えば……そんなことを言っていたな…………。

 ……まさか、あんたの両親の墓が隣だとは思わなかったよ……ガス・シャビル…………。

 しかもその文字は、間違いなくアルクラスの字だった……。

 ロザリスはなぜか、今までに感じたことのない感情を味わう。

 不思議な感情だった。

 嬉しいのか、悲しいのか……しかし、何かは、間違いなく込み上げてくる……。

 ……あんたは……ヴァン・ハイクの時の方が、人間らしかったよ……。

 ……俺は……初めてここに来てから……いったい何をしてきたんだろうな…………。



 門を出ると、いつから待っていたのか、さっきの男が鍵を片手に近付いてきた。いくつかの鍵の束から目的の鍵を探す男に、ロザリスは話しかけた。

「以前ここで、墓守をしていた少年がいたと思ったんですが……」

 男は鍵をガチャガチャとやりながら応える。目の前の門の鍵が見付からないらしい。

「随分と古い話するじゃねえか。前に来たのは戦争が始まる前か? まあ気にすることはねえよ。あんな戦争じゃ墓参りどころじゃねえや。この村もかなりやられたしな」

「少年をご存じなんですか?」

「戦争が始まった途端に志願兵さ。まだ子供だったってえのによ。身寄りは確かお袋さんと弟しかいなかったんじゃなかったかなあ……それでここはお役所が管理することになって、それからはずっと俺さ」

「今どこにいるか——」

「臨時って言っても俺だって今じゃ役人だ。色々話は聞こえてくるが……」

 男は未だ鍵を探しながら続ける。

「軍の病院に入れられたって所までは知ってるよ」

「病院?」

「フランツの陸軍病院だったはずだ……今年の春くらいに入ってきた通知だから、今は分からねえがな」

 陸軍……。

「あいつの軍からの通知……行き場がなくて困ってんだよ。俺が何度か電話して説明してんだけどよ。軍隊ってのはいい加減なもんだぜ、まったく」

「行き場って……通知は家に送られるんじゃないんですか?」

「あんたもし病院に会いに行くなら、念の為に伝えてやってくれねえか。お袋さんと弟——家と一緒に空爆で死んじまったってな」

 死んだ…………。

「いい加減な軍隊のことだ。ちゃんと伝えてねえかもしれねえ。そうだとしたら、あの子も可哀想だしな……」

「あなたはあの少年を——」

「父親を知ってたんだ……立派な軍人だったよ……亡くなってからは、俺みたいな男が父親代わりさ……元々は商売やってたんだが、空爆で店やられてな……仕事がねえからお役所の臨時職員さ」

「そうでしたか……」

「あの子に伝えてくれ……俺は役人として忙しいんだ。俺は行けねえ……毎日毎日……軍隊からの死亡通知の処理で大変でな」

「家族が亡くなったのは、いつ頃ですか……?」

「確か……八月頃だったと思うが……酷い空爆だったからな……もう少し戦争が早く終わってれば……」

 ——戦争が……早く…………。

 後悔など、ロザリスはしたことがなかった……少なくとも、自分ではそう思っていた……。

 しかし、この込み上げるものは何だろう……。

 ——俺がカール・マリアで、あんなことをしなければ…………。

 直後、鍵が鍵穴の中で回る音が、ロザリスの耳に、やけに大きく聞こえた…………。



「どうするんです? フランツの陸軍基地になんか行ったら、俺達が逮捕されますよシオンさん」

 車を運転しながら、バスコノフは助手席のロザリスにそう言って続けた。

「あれから何か月も経ってますから、きっと国中に手配書が回ってますよ。偽名を使ったところでホテルのチェックインだって危険なのに……陸軍基地じゃ捕まりに行くようなものじゃないですか。諦めて下さい。どれだけ大事な人か知りませんが……」

「お前の家はどこだ?」

 唐突に意外な質問を投げかけたロザリスに、バスコノフは言葉を失った。ロザリスが続ける。

「親父さんとお袋さんくらいはいるんだろ?」

 バスコノフは無言のまま……。

「俺についてくることを選んだ時点で、お前もかなりの覚悟はしたはずだ……二度と会えなくなるぞ……」

 そう言ったロザリスの脳裏に、アルクラスの顔が浮かんだ……。

 するとバスコノフは、少し間を空けてから、ゆっくりと応える。

「……構いません……」

 その静かな声に、ロザリスはバスコノフの横顔を見た。今まで、バスコノフが決して見せたことのない目……。

 そして、そのバスコノフが続ける。

「……親父が嫌いで……仕事もしないで……いつも暴力ばかりで……」

 まるで声が詰まったかのように、少しだけ間を空けるバスコノフ。

「いつもお袋は俺をかばって……その度に殴られて…………戦争が始まって嬉しかった……家を出られますからね。学校なんかどうでもよかった……」

「兄弟はいないのか?」

「家の外には、親父が造ったのがいるらしいです……お袋から一度聞いただけなんで、何人かは知りません……」

「そうか……」

 ロザリスはそれ以上何も聞こうとはしなかった。

 走り続ける車内が静寂に包まれる……その静けさを、辺りをオレンジ色に染める夕暮れの明かりが増長させた。

 季節のはっきりとしたこの国では、この時期は、夏に比べて日の短くなったのを感じ、短い秋というよりは次に控える冬の到来を思わせる……そんな季節だ。厳しい雪景色の前の、ほんの少しの穏やかな日々……しかしロザリスにとっては、そんな季節の美しさが、なぜか悲しく思えた……。

 辺りがオレンジ色から群青へと移り変わり、時計が夜へと移行しようかという頃、二人の車は首都であるホルストに向かっていた。

 ルートの関係で、途中、ガーシュウィンを通過する——ロザリスにとっては懐かしい街だ。母と共に、狭いアパートで暮らしていた。

 隣に住んでいたヴァン・ハイク——ガス・シャビルを思い出す。

 あの頃とは、何か変わってしまったんだろうか…………。

 何が、変わってしまったんだろうか…………。

 世界は変わったのか……。

 国は変わったのか……。

 世の中は変わったのか……。

 時代は変わったのか……。

 俺は……変わったのか…………。

 アンタが生きていたら……何て言ったかな…………ガス…………。

 車が、あのアパートの前を通る。見た目は何も変わっていない。しかし住人は、多くが変わっているに違いない。

 そこからすぐの、ロザリスがよく通っていた店——毎日のように新聞を買い、パンや紅茶、そして蜂蜜を買った……もう何年も営業してはいないのだろう。小さな店の建物が朽ちかけていた……。

 あのオヤジさんは……?

 今のロザリスには、ただ元気でいることを願うことしか出来ない……。



 ホルストに到着した頃は、辺りはすっかり暗くなっていた。

 グスタブ通りと交差する通りの一つ——フリードリッヒ通り。

 その片側に、半分歩道に乗り上げた状態で車を停め、その車内で二人は道路の反対側の建物を眺めていた。

「何のビルなんです?」

 バスコノフは、ひっきりなしに人の出入りするその建物の正面玄関を見ながら続ける。

「上の方にマークがあるんで軍関係なのはわかりますが……入口の上の文字はここからじゃ……」

「分かりやすく言うと、全ての軍隊組織の総合案内所と言ったところかな。入隊希望、除隊手続、恩給の支給も出来たはずだ……軍に関わることならここで全て手続きが可能だし、同時に情報も得られる——」

「だからあんなに人が……俺は開戦と同時だったので臨時の受付所でした……」

「……戦後が最も忙しい……戦死報告……遭難報告……毎日次から次へと送られてくる情報と、その情報を欲しがる人達……例え戦争の理由やスタイルが変化しても、この光景は前の戦後と変わらないな……」

「……これも、戦争ってことですか……?」

「戦争と戦闘は違うってことさ。軍人はそれを一緒にしたがるし、政治家は別にしたがる……違うが、別ではない……」

 ロザリスの頭の片隅に、ウラサスが書いたあの本のタイトルが過ぎる——“戦争の中の革命”…………。

 バスコノフが呟くように口を開いた。

「……つまり——」

「知りたければ自分で追い求めることだ……俺はどこの病院にいるのかを調べてくる。あれから何か月も経ってれば、いつまでも基地内の病院にいる方が不自然だ」

 それでここに……どれだけ大事なんだ……。

「あれだけ人がごった返してるなら、偽名だけで充分だ。お前も——」

 その言葉で、バスコノフはロザリスを見た。

 ロザリスは構わず続ける。

「——親との関係を断ち切りたいなら……自分で何とかするんだな」

「俺は——!」

 そのバスコノフの言葉は、ロザリスが車のドアを閉める音で断ち切られた。

 俺は…………。

 ロザリスは道路を渡りながら思う。

 周りのクラクションも聞こえない——。

 俺は、自分で追い求める…………。



 一時間も経っただろうか、未だバスコノフは車の中でロザリスを待ち続けていた。

 俺は…………。

 その答えも見付からないまま、辺りはすっかり夜の様相で、街の灯りが少しずつ増え始める。しかし、あくまでも静かで、その静けさが、なぜかバスコノフを駆り立てていた。

 突如、久しぶりに聞こえたドアの音でバスコノフは我に返る。乗込んでドアを閉めたロザリスが大きな溜め息をついて、言った。

「待たせて悪かった……俺も足が疲れたよ」

 ロザリスは手にしているコピー用紙を見ながら続ける。

「ラヴェルに行ってくれ——」

 ラヴェル——?

「あそこの……“精神病院”に移されたそうだ……今なら、車で行けばまだ面会時間内に間に合う」

 ラヴェル…………。

「……どうした? お前も、どうするか決めたのか?」

「……分かりません……」

 バスコノフはそれだけ応えると、エンジンをかけ、アクセルを踏み込んだ。

 そしてラヴェルに着くまで、二人が言葉を交わすことはなかった……。




「間違いない……ここだ……」

 ロザリスのその言葉で、バスコノフはその病院の駐車場に車を停めた。辺りがすっかりと暗くなっているとはいっても、やけにその病院の建物は暗く見える。かなり大きな施設だが、明らかに古い建物だ。

 遅い時間のせいだろうか。駐車場も他に車はほとんど見当たらない。隅に数台あるだけということは、おそらくは従業員の車なのだろう。

「俺は行くが……」

 夜の静寂の中で、なぜか大きく聞こえるロザリスの言葉が続いた。

「……お前は、どうする?」

「まだ……俺は…………」

 バスコノフの言葉は、それだけだった。

 ロザリスはバスコノフを残し、車を降りた。

 淡い明かりに照らされた玄関ホールへと歩く——。

 もう何年も会っていない……俺のことなど、忘れてしまっただろうか……。

 ロザリスは、そこが精神病院であるという事実を振り払おうとしていた。アルクラスの数年間に何があったのか、もちろんロザリスは知らない……なぜここにいるのか……どんなに考えても、それは想像の域を出ない。

 なぜ、こんな所で再会することになったのか……誰のせいなのか……何が悪いのか……——無駄な、答えの出せない考えであることはロザリスにも分かっていた。しかし、とめどなく溢れてくるその思いを、ロザリスにはどうすることも出来なかった。

 面会の受付けは簡素なものだった。一応住所欄はあるのだが、殆どの人達が氏名欄にしか記入していない。言われたら適当な住所を書けばいい——そう思いながら、ロザリスはビーナスにいた頃に何度か使っていた偽名を書き込んだ。

 “ヴァン・ハイク”————。

 ロザリスはやっと、そして唐突に気が付いた……。

 あの砂漠のホテルの部屋も、この名前で予約を取った……この名前にしなければ、ウラサスは俺を見付けられなかったかもしれない……俺が見付からなければ…………。

「ハイクさん。どうぞ。ご案内します」

 白衣姿の医者らしい若い男が話しかけ、続けた。

「すいませんね。戦争が終わって何か月にもなるのに、電力供給が未だに少ないもので暗くて……病院の中も出来るだけ節電なんですよ」

 その男の案内で、ロザリスは隔離病棟の一室に通された。廊下も所々しか電気が点けられておらず、薄暗い。

 病室の入り口にアルクラスの名前は無かった……あるのは番号だけ……。

 ムラのある白いペンキで塗られた、余計古く見えるドアが開いた……。

 消灯時間前——まだ部屋の淡い明かりはついたままだ……。

 個人部屋——さほど広いとは言えない部屋の窓際に、ベッドが一つ……。

 ベッドの上の患者の腕には点滴のチューブが繋がっていた……。

「残念ですが、会話の出来る状態ではありません」

 患者に近付いた医者の男の声が、無機質にロザリスの耳に届いた。

「身体的能力には何も問題はないのですが、意思疎通は出来ません。大きな精神的ショックが精神に異常を来たしたとしか考えられません。軍の病院から運ばれてきたこういう患者は他にもいまして……」

 誰だ…………。

 これは、誰だ…………。

 痩せ細って無表情にベッドに横たわるこの男は……誰だ…………。

「食事も摂れないので、点滴で栄養を送り続けてはいますが……」

 アルクラス…………。

「一応、目を開けてはいますので眠ってはいません。時々ですが、瞬きもしますし……」

 …………アルクラス…………。

「お知り合いの方ですか? ぜひ話しかけてあげて下さい。精神療法が一番です。まだ……少しだけですが時間もあります……私は下に戻ってますので……」

 それだけ言うと、医者の男は部屋を出て行った。静かにドアが閉まる。しかし、その音はロザリスには聞こえていない。

 ただ、その顔を見つめていた……。

 これが……あのアルクラスか……俺に夢を語ったアルクラスか……。

「……覚えてるか……?」

 ロザリスの口が、自然と動いていた……。

「お前に母さんを埋葬してもらって……俺は……嬉しかったよ……母さんの名前も掘ってくれた……本当に……嬉しかった…………」

 瞬きもしないその目は、ただ天井に向けられている。

「どうした……何があったんだ……」

 戦争のせいなのか……。

「どうして……こんなことに……」

 誰が悪いんだ…………。

「聞こえているか? アルクラス…………お袋さんと弟さんは……亡くなったそうだよ…………一人になってしまったな……一人で生きるのは……辛いことだ…………俺はもう会えない……これで……お別れだ…………」

 ロザリスは背中を向けた。

 しかし、なぜか一歩が踏み出せない……。

 その背後で、アルクラスの無表情な目から涙が流れていることを、ロザリスは知らないままだった…………。



 受付けの前を通り過ぎた直後、背後からの声にロザリスは振り返った。案内をしてくれた若い医者の男だった。

「もしかして、あなたも同じ陸軍の方ですか?」

「いえ——」

 ロザリスは反射的に目を伏せる——。

「そうですか……一日置きくらいでお見舞いにいらっしゃる方がいるので、もしかしたらお知り合いかと思いまして……あなたよりもだいぶ年上の方で、体も大きくて……」

「いえ……自分は…………」

 ロザリスは駐車場を歩きながら、不思議な安堵感が湧いてくるのを感じていた。

 ……あいつは……一人ではないようだ…………。

 車のドアを開けると、バスコノフが静かにロザリスを待っていた。

「俺の方は全て終わったよ……後は計画通り進めるだけだ」

 ロザリスは助手席に身を沈めながら続ける。

「お前はどうする?」

「……俺は…………」

 バスコノフの言葉は続かない……。

 続けたのはロザリスの方だった。

「自分の中で、ケリをつけたいか?」

「分かりません——」

 バスコノフが弾かれたように言葉を吐き出す。

「どうしたらいいんですか……家族なんて捨てたはずなのに……でも……なんか、モヤモヤとして……どうすれば……」

「捨てたつもりでいるか、本当に捨てるか……」

「……本当に……」

「ほとんどの奴らは捨てたつもりなだけだ。お前はどうする? それでも俺に着いてこれるなら、病院の入り口にある公衆電話でお袋さんに別れを言ってこい」

「…………」

「本当に捨てるなら——」

 なぜだろう……なぜ俺は、バスコノフを焚きつける……。

 車のエンジンがかかった——その振動の中、バスコノフが口を開く——。

「——この街に……家があります——」

 車が動き始める。

 二人の中で、それぞれ、何かが動いていた……。



 三〇分も車を走らせただろうか……。

 バスコノフが車を停めたのは古い住宅街だった。住宅街と言っても、古い石造りのアパートが並ぶだけの粗末な通りだ。アパートから漏れる明かりも少なく、廃墟となった建物も少なくないことはロザリスも一目見て分かった。

「引っ越している可能性はないのか?」

 ロザリスのその質問に、バスコノフはすぐに応えた。

「お袋がこのアパートの大家の知り合いだとかで、俺が産まれる前からタダで部屋を借りてました……陸軍からの俺の恩給が出たって、どうせ親父の酒代に変わるだけだ……引っ越すわけがない……」

 バスコノフは車の窓からアパートの上の階を見上げて続けた。

「——部屋の電気も点いてる——行きます——」

「別れを言うだけか?」

 車のドアノブに手をかけたバスコノフの動きが、ロザリスのその一言で止まる——。

「俺と一緒にこの国を変えたいなら、過去は捨ててこい……新しい自分になれ——“断ち切れ”——」

 バスコノフはロザリスには表情を見せないまま、ドアを開けた。外の音が急速に車内に流れ込む。バスコノフは勢いをつけるかのように飛び出すと、強くドアを閉めた。

 車内は再び静かになった。建物の入り口に一歩ずつ近付いていくバスコノフが見える。腰の後ろに手を回す——上着で隠れていた拳銃を右手で取り出した——そしてその姿は、吸い込まれるように建物の中に消えていく……。

 ……時間だけが流れていく…………。

 どの部屋なのか、ロザリスはそんなことは聞かなかった。どうでもいいことだった。

 捨ててしまう過去など……どうでもいい……。

 捨てたくなくても、捨てなければならない過去もある……。

 捨てたくても、捨てられない過去もある……。

 バスコノフの過去は……アルクラスの過去は……俺の過去は…………。

 窓の外に、銃を手に、入り口を飛び出すバスコノフの姿が見えた——。

 それを見たロザリスの意識を、何かの想いが、一瞬だけ通り過ぎた——。

 ……生きている方が……辛いのか…………。

 ドアにぶつかるようにしてそのドアを開けると、息を切らしたバスコノフが車に乗り込み、慌てながらもアクセルを踏み込んだ——。

 静かだった街並みに、タイヤの音が響く————。

 荒い息使いのままのバスコノフに対し、ロザリスは涼しい表情のまま…………。

 バスコノフの服の至る所に着いた黒い染みが、月明かりに照らされていた。それを見たロザリスに後悔の念などは存在しない……。

 ただ、何かが変わっていた————。

 後戻りをするつもりなどない……過去は捨てた…………。

 しかしそれが、捨てたかった過去なのか、捨てたくなかった過去なのか…………。

 今のロザリスに、それはまだ分からない…………。



 それから三日後——。

 ロザリスの父——アルギス・シオンが獄中で病死したことを、新聞の小さな記事が伝えた。

 ロザリスは、捨ててしまった過去に表情を変えることはなかった。

 ただ黙々と、バスコノフと二人だけのスタートではあったが、新たな反政府組織を立ち上げることに邁進した。

 自分が憂いているのは、国なのか、それとも自分自身なのか……。

 ただそれだけを、自問自答しながら…………。







 そして————。

 戦後から二三年————。

 再びユートピア思想が燻る中、国は目覚ましい経済発展を遂げる————。

 しかしそれは、大国や発展途上国の引き起こす国際紛争や、小さな戦争の犠牲の上に成り立つ、偽りの経済成長に過ぎなかった…………。

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サターン -SATURN- 中岡いち @ichi-nakaoka

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