第6話「道」

 そこにいるのは、二人だけだった。

 ロザリス・シオンと、彼の所属する反政府組織のリーダー——バイク・ワイクス。

 夜とは言っても、この時期の夜は一晩を通して蒸し暑い。すでに時刻は夜中の一時を回っていた。

 とあるビル——空きビルの地下室だった。ホルスト郊外には、こういったビルがここ二年程の間に急激に増えていた。戦後の復興と言っても、それが都市部の中心に限られていたことの証しでもある。首都とは言ってもここのような郊外や地方都市には、戦後の復興は未だ遠い。まして再び戦争が始まったということは、その戦争の終結を待つことが先決となる。

 ワイクスも市議会議員としての肩書きを手に入れてからは、正直動きにくくなったと感じていた。しかしそれをバックアップしたルキノ・ヴィスコントに言わせると、リーダーが直接動く必要は無い——ということだった。だが、今回の“クーデター計画”に関してはそうもいかなかった。夜になると人気の無くなる通りの空きビル等を点々としていた。

 サターン国内でも八カ国同盟のイザルとの国境沿いでの戦闘が始まり、マースが参戦を正式に表明した日——歴史に残る日。そんな夜に、意外にもこの二人の密会をセッティングしたのはロザリスの方だった。

 ルキノ・ヴィスコントがガス・シャビルによって殺害されてから二日目の夜——ワイクスは焦っていた。後ろ盾の政治家三人を同時に失ったことになる。当然今までで最大規模のクーデター計画だった。その為の内部工作も時間を掛けて進めてきた。資金、人員、武器調達も完璧だった。まさにヴィスコントの——いや、自分の先導で、この国が変わる筈だった。

「まさか、君から呼び出されるとはな……」

 ワイクスが木製の古いイスに座りながらロザリスに言った。

 部屋はそう広くはない。中央にはイスが向かい合わせで二つ。明かりはアルコールランプが一つ。どちらも事前にロザリスが用意した物だ。

 ロザリスもゆっくりとイスに腰を下ろす。だいぶ乾燥の進んだイスの木材が、何かしらの不安を煽るような、そんな鈍い音を出した。

 その不安を感じ取ったのか、それを払拭するかのようにワイクスが続ける。

「クーデターの件か? まったく……最悪のタイミングだよ……」

 背もたれに大きく体を預け、ワイクスは不安を押し隠すかのように喋り続けた。

「今回の件は……君に全てを任せるつもりだった。それがまさか……あの男にやられるとはな。しかも、あの女まで——」

 ワイクスはロザリスの顔を見ようとした。

 しかしロザリスはジャケットのポケットに両手を入れたまま座り、膝を開いて背中を大きく丸め、床を見つめたままだ。部屋の空気が扉の隙間から入る外気で掻き回され、アルコールランプの炎を揺らし続ける。絶えず膨張と縮小を繰り返す明かりの中で、ロザリスの姿はまるで呼吸をしていないかのように静かだった。

「君はどこまで聞いた? 先生達は殺されたよ……戦争も始まってしまった……だが、私はまだ諦めてはいない」

 ワイクスの目が、揺らめく明かりを反射して光る。

「私と一緒に、この国を変えないかロザリス……君と私なら出来る……クーデターを成功させるんだ——」

「変える……?」

 そう応えたロザリスの表情は依然見えない。声だけが続いた。

「……何を、変えるんですか……?」

「この国だよ——この国の歴史を動かすんだよ」

「……なぜ……」

「なぜ? その為に君もここまでやってきたんじゃないのかね」

「ええ……たぶん……」

「たぶん? どうしたんだロザリス……今夜の君は少し——」

「——何の為に——」

 ロザリスは続けながら少しだけ頭を上げる。ワイクスからは暗さのせいもあってか、その表情はまだ見えない。

「何の為にクーデターを……? ……独裁者になりたいのか?」

「独裁者だと? この国のトップになるのは私ではない……君なんだよロザリス——君が“独裁者”になるのさ。獄中にいるお父さんを助けたくはないのかね?」

 ワイクスはその時やっと気付く……暗さのせいで分からなかったが、ロザリスの両手がジャケットのポケットに入ったまま……銃か? ——そう思ったが、ワイクスは気持ちの上で警戒するしかなかった。自分の銃は左脇のホルスターの中……。

「もしもクーデターが成功したら……」

 更に顔を少しだけ上げて、ロザリスが続ける。

「親父と俺のことも殺すのか?」

「いい加減にしないかロザリス。一体——」

「ヴィスコントを殺したな」

 ワイクスは応えない。

「ガス・シャビルをけしかけた……バリウス・アコブがジャッキー・バルドの弟だという情報を流して、ヴィスコントを殺させた……」

「それが先生を殺す理由に——」

「バリウス・アコブには——ガス・シャビルは恨みがあった……それが何かは知ってるはずだ。しかもそれはヴィスコントの指示だった……バリウス・アコブは保安課の秘密組織の人間であると同時に、ヴィスコントの秘密組織でもあった訳だ……アンタがそれに辿り着けたのは、ジャッキー・バルドが接触してきたせいか?」

「…………」

 ワイクスはそっと、ジャケットの左側を少しだけ開けた。

 ロザリスが続ける。

「アンタは焦ったはずだ……俺と血の繋がった人間が、アンタに秘密のままに……ヴィスコントに囲われていたんだからな。先生先生って言ったって、アンタはヴィスコントを本気で信じてなんかいなかった」

「…………」

「事実……ヴィスコントはアンタにバリウス・アコブを隠していたしな。だが、アンタは奴に接触した……」

 ロザリスは顔だけを上げ、ワイクスと視線を合わす。

「どうした? 驚いた顔だな」

 ワイクスに強い視線を送りながら、ロザリスが続ける。

「一番意外だったのはどれだ? 組織の後ろ盾を三人とも殺されたことか? ヴィスコントを殺す為に“裏切らせた奴”までガス・シャビルが殺すとは思ってなかったようだな……それともガス・シャビルが自殺したことか? アンタにすればどのみち同じことか……だが、生きてあのビルを出てくるはずだったガス・シャビルを殺すように命令されていた男——バリウス・アコブを殺したのは、俺だ……」

「…………」

「アンタの指示だな。本人に裏は取ったよ」

「……君は、私がガス・シャビルに情報を流したと言ったが——」

「会ったことないだろ? だが、あのバーのマスターになら会ったことはあるはずだ……かなり金も積んだみたいだな……」

「…………」

「あの人は……理由なんか聞かない……俺達のような裏社会の人間の為に、何も聞かずに生きてきた……」

 そして、ロザリスは再び視線を下ろした。

 ワイクスの左手が、また、少しだけ動く——。

 ロザリスが続ける。

「ユートピア思想って…………何だ……アンタは何を信じてきたんだ?」

 ロザリスの耳に、ワイクスの小さな溜め息が届く。そのワイクスが、ゆっくりと応えた。

「……君のお父さんと……一緒にやってきた……君に声を掛けたのは終戦直前だったが、君に目を掛け始めたのはもっと前だ……」

 ロザリスは何も応えずに、黙って聞いていた。

 ワイクスが続ける。

「君に、お父さんと同じようになって欲しかった……あのカリスマ性が欲しかった……」

 ロザリスの耳に、ジャケットの布が擦れる音が届く……目だけを上げた。ワイクスの足だけが見える。

「君のお父さんは、凄い人だった……」

「だが、親父の信じたユートピア思想は——俺には…………今は“矛盾”だらけにしか見えない——……」

「お父さんも分かっていたよ……その“矛盾”にはね……しかし民主主義はどうだ? 社会主義は? 正しいと言えるのか? だからあちこちの国で、今でもユートピア思想を基盤にした革命がいくつも起きてる……私はねロザリス、全く新しい理想郷を造りたいんだよ」

「まさに……ユートピアか……」

「そうとも、本物のユートピアだ。貧富の差など無い。国が国民の為だけを考えるんだ。税金も無い。全てが保証される——」

「国の資産は——」

「産業だよ——他国を相手に国が商売をするんだ——」

「詭弁だ——競争の無い所に産業は育たない——」

「なぜ言い切れる——豊かさだよ——豊かさが産業を生むんだよ——」

「——矛盾が多すぎる……貧富の差が無くては競争は生まれない……競争が無くては産業は発展しない——国民の生活を保障すれば保障するほど、管理され過ぎた国民一人一人の不満は蓄積されていくんだ——それが現代の社会主義の現実じゃないか——ユートピア思想って言ったって、結局は社会主義と表裏一体だ……結果的にどの国も無難に社会主義に収まる……ユートピア思想を基盤とした革命が聞いて呆れるよ……結局はただの社会主義革命だ……」

「……何を馬鹿なことを……私は……」

 ロザリスの耳に、微かにそれまでとは違う音が聞こえた——ホルスターと拳銃が擦れる小さな音——しかしロザリスは口を開いた。

「競争の無い所には選挙も無い——やっぱり独裁か……どんな立場の人間でも誰かに管理される必要がある……例え一国のリーダーであってもな——」

 ロザリスの右手が、ポケットの中で僅かに動く——。

「ロザリス……“権力”は必ずしも“悪”ではないぞ」

「アンタに……“善”の“権力”を持つ気があるとも思えない」

「じゃあ一体どんな国を造ればいいんだ——今のままでいいと言えるのか?」

「言えないさ……俺も分からない……だからここにいるんだ——」

 ——ホルスターから銃を抜く音——。

 ——二人の銃声が——少しだけズレて鳴った——。

 ——ワイクスの右肩の上——飛び散った黒い血が照らされる——。

 顔を上げ、銃声と同時に上体を起こしたロザリス。右手の入ったポケットには穴が開き、微かな煙が白く明かりに浮かび上がる。

 ワイクスの右手から銃が床に落ちる音が、まるで反響するかのように響いた。そしてワイクスの右肩から流れる血が、黒く照らし出される。

 ロザリスが立ち上がる——右手をポケットから抜くと、小型のリボルバーが姿を現した。そしてロザリスが言う。

「その右腕はもう上がらない……肩の付け根が三分の一吹き飛んだ……今日の弾丸は少し威力が強い奴でね……無理に動かしても苦しいだけだ……」

 ワイクスの顔が苦痛に歪む……。

 無表情のロザリスが、そのワイクスの目の前に立って続けた。

「……黒い血だ……アンタを裏切って、アンタに裏切られたヴィスコントも……同じ血の色かな……」

 次の銃声と共に、辺りが一瞬の閃光に包まれる——。

 ワイクスの右膝が砕けた——。

「松葉杖は好きか?」

 再びの銃声と閃光——。

 ワイクスの右足の付け根から血が噴き出す——。

「アンタの右半身は……これでもうダメだ……腰の骨もだいぶ砕けた……」

 ワイクスは苦痛のせいでロザリスを見上げられなくなったのか、その首が大きく落ちた。ロザリスは腰を落とし、そんなワイクスの顔を覗き込む。そして銃口をワイクスの腹部に押し当てて続ける。

「この位置でこの角度なら……臓器の損傷は胃に穴が開く程度で済む……だが……脊髄はダメだ……位置が正しければな……」

 銃声と同時に、その閃光が大きく揺れるワイクスの体を照らす——。

「あまりの苦痛に言葉も出ないか? じゃあ、それも無駄だな……」

 五発目の銃声が、ワイクスの下顎を顔の左から砕く——。

 ワイクスの両目が大きく見開かれ、天井を仰いだ——。

 体が微かに痙攣を続ける——。

「一つだけ分かることがある……アンタはまだ死ねない……体は動かず……声も出せず…………これが……殺される恐怖だ…………」

 ロザリスは立ち上がった。

 そして床に落ちている銃を拾うと、ワイクスの左手に握らせて、続けた。

「もう少しでアンタの部下達がここに来る手筈だ……出血多量で死ぬか……助けられて生き延びるか……自分で死ぬか…………」

 ロザリスは扉まで歩くと、立ち止まって振り返る。

「いつも同じだ……選べる未来は……時間と共に少なくなっていく……」

 そしてそれは、ロザリス自身も同じだった————。



 ロザリスが外に出ると、辺りは静かだった。

 人影は見当たらない。

 自分が何をしてきたのか、自分が何をしているのか……一瞬それを忘れてしまうくらいに静かだった。

 風も無い。夏の夜の蒸し暑さが、不思議と涼んでいるのを感じる。体の至る所の返り血が違和感を感じさせるくらいに気持ちのいい夜だ。しかし、とても他人に見られていい状態とは言えない。場所的にも時間的にも、他の場所と時間では到底考えられない状況だ。

 ロザリスは身を隠すでもなく、歩道を歩き始めた。寂れた街の通りとは言っても、片側一車線——計二車線のそれなりの通りだ。決して小さい通りではない。道路沿いの建物も五階建て以上の大き目の物も少なくない。しかしどのビルも廃墟のようだった。当然のように灯りも見当たらない。それでもロザリスは、不思議と孤独を感じることはなかった。寂しさすら思い出せない。

 世界が輝いて見えた——。

 これは現実か——?

 現実とは何だ……?

 現実を見たことはあったのだろうか……。

 ……思い出せない……。

 ……輝いていた……そして……輝いている……。

 ……何かを思い出せない……今は現実か——?

 ……いや……違う………………………………現実だ————。

 声が聞こえた——。

「ロザリス、待たせたな。乗ってくれ」

 ロザリスの隣に、いつの間にかウラサスのポンコツ車が停まっている。いつ着けたものなのか、あちこち泥だらけだ。

 呆然と立っているロザリスに運転席のウラサスが続けた。

「何て格好だ。お前らしくもないぜ。一応着替え持ってきてやって良かったみたいだな。早く乗りな。どこかで着替えようぜ」

 ロザリスが助手席に乗り、車が静かに動き出した。

 ロザリスは自分から口を開こうとはしない。

「で?」

 ウラサスは、ゆっくりとした口調で続ける。

「成功か? ……殺ったのか……」

 ロザリスは応えない。ウラサスも強引に聞き出そうともせず、黙って運転を続ける。返り血を見れば、かなりのことがあったのは想像がつく。しかし、逃がした可能性も捨て切れない。

 しばらくは、そのまま静かだった。その静寂を破ろうとウラサスがラジオのスイッチに手を伸ばした時、唐突に、やっとロザリスが口を開いた。

「どうなのかな……よく分からないんだ……」

「……何がさ」

「どうして俺は……アイツを生殺しにしたんだろう……」

 生殺し……?

「あいつは生き延びても寝たきりだ……喋ることも出来ない……一応、動く方の手に銃は握らせておいたよ……」

 おいおい……。

「……自殺……するかな……」

「……まあ、お前がそうしたわけだし……どうなってるかは分からねえけど……」

 何て言えばいいんだ……。

「俺は……どうして殺さなかったんだ……」

「生きてたって、それじゃあ……どうせ……なあ」

「どうして殺さなきゃならなかったんだ……」

 こいつ……。

「待て待て。待てよロザリス。落ち着け。どうせあいつのクーデターなんか成功しなかったんだ。戦争が始まってるんだぞ。マースが黙ってるわけがねえ。お前だって明日には基地に行かなきゃいけない身だろ? しっかりしろよ」

 するとロザリスは、数回強く瞬きをすると、いつもの目付きに戻った。まるで我に返ったかのよう大きく溜め息をしてから、呟くように言葉を捻り出す。

「……すまない…………」

「気にするな……元はと言えば、俺がもっと早くお前とシャビルを繋げておけば——」

 ウラサスが本気でそう思っている訳ではなかった。しかし、何かそこに責任感を感じてしまう自分もいる——どうするのが正しかったのか、今のウラサスにはそれが分からない。二人を合わせていれば、それで何かが変わったのだろうか……例え何かが変わったとしても、それが正しい方向に進むのか——それが分からなかった。だから今まで悩んできた。ロザリスの存在を探すガス・シャビルに嘘をつきながら、その二人の狭間で立ち回り続けて一年以上……。

 二人を会わせようと思ったのは事実だった。自分の中で全てに納得がいったわけではない。しかしそういった意味では、ウラサスの中で何かが変わってきていたのかもしれない。それはウラサス本人も感じていた。

 ロザリスが応える。

「それは違うよ——俺の問題なんだ。俺の中で何かが固まってないんだ……分からないんだよ……俺は何をすれば……」

「……甘ったれたこと言うなよ」

 そのウラサスの口調は、変わっていた。

 ——もう、お前一人だけの問題じゃない————。

「例えあいつに誘われたからって言ったって、お前は親父さんが何者かを知っていて決断したんだ。親父さんと同じユートピア思想を信じていたなら、なぜ貫かない……ただの流行か?」

「…………」

「そんなものの為に……あいつらは死んでいったのか……?」

「違う——違うんだ……最初は俺もユートピア思想こそ理想だと思ってた。本当だ。でも……俺も人間なんだ……何が正しいのか追い求めてるだけなんだ——」

「だったら——!」

 続くウラサスの叫び声が、ロザリスの耳に刺さる——。

「素直に認めたらいいんだ! どいつもこいつも簡単に流されやがって! 時代の流れなんか関係ねえ! 考えが変わったなら変わったでそれでいいだろうが! 認めればいいんだ! 組織だの肩書きだのと……そんなもんに寄りかかってるから周りに左右されるんだ! そんなもん捨てちまえ! 世の中に甘えて生きてんじゃねえよ!」

 ウラサスにも、それが口で言うほど簡単なものでないことは分かっていた。フリーのジャーナリストでやってきた苦労が言わせたのか……。

 ロザリスは何も返せずにいる。

 それを分かってか、ウラサスが声を落として言った。

「とりあえず、着替えられる所を探さねえとな」

 ウラサスは車を走らせながら、右のウインカーを点けた。



 戦争が始まって、およそ一ヵ月——。

 参戦する国々が増え続けていた。しだいに戦火が広がっていく。しかしまだ、この時点ではどの国にも余力があった。全ての国に勝利のチャンスがあるとも言える。そしてその変化を、中立国は静かに見守っていた。

 民主主義国家のマースにつくか——社会主義国家のネプチューンにつくか——どちらの国も国際連合の中心的国家なだけに、参戦を決め兼ねている国は難しい判断を求められる。しかもどちらも大国であり、世界に対して大きな勢力と権力を誇っていた。

 前回の世界戦争でマースに敗れたサターンは、今やマースの半植民地国家である——というのが世界的な認識だ。元々マースとの同盟国は多い。中規模な大陸から小さな島国まで、かなりの数に及ぶ。その中にはサターンと同じような理由で同盟国になった国も少なくない。各同盟国には必ずマースの軍隊が駐留していた。サターンのように軍事基地が置かれている国も多い。しかしサターンのように陸海空それぞれの基地が配置されている国は他には無い。戦略的な重要拠点と考えていることには疑いの余地が無い。それだけに、サターンとしては常に戦火に見舞われる危険性があった。

 マースによるサターンの軍隊組織への管理はやむを得なく、海外派兵に至っては完全にマースの指揮下にあった。しかし、今回の世界戦争に於ける重要ポイントの一つと言えるサターン国内にしても、国土防衛は当然重要課題だ。開戦から一週間もしない内に、国は志願兵の招集を開始する。家族への恩給を餌に、日毎にその人数は増えていく。貧富の差が激しい国内事情のせいか、その多くは貧しい家庭の者達だった。

 そしてその中に、アルクラス・フィオスがいた——。

 後半年ほど——次の年の春まで待てば義務教育校を卒業出来る年齢だったが、アルクラスは志願兵となることを決意する。理由はやはり、“貧しさ”だった。母のレザルとやっと一〇才になったばかりの弟——ミルクスの為には、父親の背中を追いかける夢を諦めるしかなかった。義務教育校を卒業し、海軍高等大学を卒業出来なければ、父親のように上には行けない。前回の戦争でも志願兵の招集はあったが、志願兵はあくまで志願兵であり、決して上には行けない。ただの兵隊のままだ。

 アルクラス・フィオス。一五才——義務教育校卒業の直前、生きる為に夢を諦めた……もはや今の彼に、未来を想像する希望は残っていない…………。



 配属先は陸軍——一ヵ月程度の訓練の後、戦地に赴くことになっていた。

 そして訓練は、“熾烈”を極める——。

 一時的な臨時雇いとはいえ、軍にとっては兵力の一部。マースに対してのイメージもある。即戦力として使える兵士を一ヵ月で育てる——今のサターンに最も求められていることだ。

 同じように招集された退役軍人との合同訓練になる為、新兵にとっては決して楽なプログラムではない。立場的に上下があるとは言っても、今回行われているプログラムはあくまで退役軍人用の上級のものだ。不満を漏らす新兵も多かったが、今のサターンにその要求に応える余裕は無かった。

 当然のように脱落者が増える中、体力的、精神的に強い者だけが残っていく。訓練とはいえ、かなり実戦を意識した物だ。新兵の場合、兵士間の個人的なコミュニケーションも禁止され、さながら囚人のような生活を強いられる。日を重ねる毎に、当初からの体力的脱落者に加え、精神的脱落者が増えていった。中には訓練中に精神に異常をきたし、軍の病院に救急搬送される者までいた。

 ホルストからだいぶ南、海の近くにモーリスという村があった。村の面積の殆どは山間部で、そこにある湖の方が人里の集落よりも大きいくらいの田舎の村だった。しかし村の財政は安定していた。広大な敷地を要する軍の訓練施設があったからだ。しかも前の戦争以前に造られ、その歴史は長い。戦後、国内にマースの軍事施設が出来るようになってからは、マース軍の訓練施設としても使用されていた。サターン国内に数ヵ所ある訓練施設の中でも最大と言われ、マースに対してのアピールをする場としても有効だった。

 しかし訓練施設とは言っても軍事施設であることに変わりはなく、現在のような有事の状況では攻撃を受ける可能性も視野に入れなくてはならない。当然それなりの防衛力も兼ね備えている。訓練用とは別の兵器、人員……しかしそれもまた、現在に於いてはマースに対するアピールなのかもしれない。

 アルクラスが訓練に参加して三週間が過ぎた。後少しで訓練が終わる……後少しで実戦に送り込まれる……。

 夜、訓練兵一人一人に用意されている個室はまるで独房だった。小さ目のベッドが一つある他は、そのベッド脇の僅かなスペースだけ。しゃがみ込むことも出来ないようなスペースだ。ベッド下の荷物用のスペースの方が広いかもしれない。天井も低く、まさに寝る為だけの部屋だ。野営訓練以外の夜の食事も、この狭い部屋の中。食事は一日に二回。朝食もこの部屋だ。

 囚人の気分だった……まだ訓練時に外に出られるだけ囚人よりは恵まれているとも言えるが、他の訓練兵との会話も許されない中で、常に闘わなければいけないのは“孤独”だった。

 共に訓練を続ける訓練兵達……訓練士官からは番号で呼ばれ、誰の名前も年齢も分からない。それぞれお互いが何を考えているのか、当然のように知らない。ついさっきまで自分と同じように普通に訓練をしていた者が、突然奇声を上げて倒れ込む——または、暴れ始める——その光景に影響を受け、押さえ込んでいた“自分”を曝け出した者は脱落する。

 最初の一週間……アルクラスは、自分でもよく頑張ったと思えていた。

 そして二週間……それすらも考えなくなっていた。

 そして三週間が経った今……アルクラスはいつの間にか、考える事を止めていた。

 疲れているにも関わらず、眠れない夜もあった。しかし不思議と眠くはない。眠りたいとも思わない。なぜか神経だけが異常なほどに研ぎ澄まされているような、そんな夜が日毎に増えていった。

 朝——早朝——ベッドの上で少ない食事を取る。

 時間までに外に出て、決められた場所に並び、決められた時間に点呼が始まる。

 そして最後の一週間——最終日の訓練がもうすぐ終わる……。

 この日——最終日の訓練は夜八時まで。解散時の点呼が終わり各自個室に戻り、夕食の後、明日からの実戦配備に備えて荷物をまとめる……はずだった。

 六二番がいない——広く散開しての通信訓練が最後のプログラムだったが、その訓練時にはいたらしい。訓練中の体力的な脱落の可能性もある。今までも、何度もあったことだ。

 そしていつものように捜索隊が数チーム組織され、アルクラスも選ばれる。携帯する物は懐中電灯と実弾入りの拳銃が一つだけ。様々な状況が想定されるからだ。もちろん訓練施設に配備されている“本物の兵士”も別働隊として動く。時間は最長で一時間。その時間までには予定されている集合場所に戻らなければならない。例え見付けられなくても、後は装備の完璧な別働隊が動く。つまり、これも訓練の一環だった。

 アルクラスは点呼場所から移動する際、ある事に気が付いた——。

 士官の一人がいない……。

 最終日という特異性だろうか——いつも必ず三人揃っているはずの訓練士官が一人いない……。

 アルクラスは他の訓練兵達と共に、広大な森へと入っていく……。当然、中は森の外以上に暗い。懐中電灯だけを頼りに歩く。訓練兵になったばかりの一ヵ月前と比べると、今は夜の森を歩くのも難しくはない。三人編成のチーム。お互いの距離を取りながら進む。

 明日の朝には訓練兵達はバラバラになり、輸送機やトラックで実戦の戦場へと運ばれる。まだ誰も、自分がどこに配属されるかは知らない。しかしアルクラスに、そのことで不安は無かった。そう訓練されてきたからだ。

 眠気、空腹、孤独、恐怖……あらゆる感情を抑え、時にコントロール出来る兵士——マースはそういう兵士を要求し、サターンはその期待に応えた。

 やがて、アルクラスのチーム——三人の耳に“音”が聞こえた。暗い森の中から聞こえる微かな音……。

 すでにだいぶ森の奥へと入っていた。チーム毎に広く散開している為、すでに他のチームの灯りは見えない。

 微かな音は、周りの木々や葉、草や土に反響してその出所を鈍らす。

 三人共、足を止め、耳を澄ました。

 左側から弱く吹く風が、時折“音”を包む。

 そして、三人は同時に動いた。

 正面に、“誰か”がいる……。

 しだいに“音”——“声”が大きくなった。

 近付くにつれ、その“声”が姿を現す。

 三人の足が止まる。

 突如、懐中電灯の灯りに包まれた“声”が、三人の方を見て言った。

「捜索隊だな? そろそろ来る頃だと思っていたよ」

 訓練兵と共に姿を消していた訓練士官だった。

「見付けたのはお前達が最初だ。よくやった。ご苦労」

 士官はあくまで冷静に言った。しかし、その目の前には訓練時に使用していたライフルを構えた“六二番”がいる。銃口は士官に向けられていた。しかもその距離では、はずしようがない。

「反逆罪だ。六二番を撃て——命令だ」

 士官のその言葉の直後、三人は同時に銃口を六二番に向ける。

 士官は六二番に向かって言う。

「どうせ実弾など入ってはいないだろ? 実弾は射撃訓練の時に盗むしか——」

 六二番のセミオートライフルの銃口が数回“光る”——。

 士官が、まるで弾き飛ばされるように背後に浮いて、それから草の中に身を沈めた。

 その直後……。

 六二番の体が浮く——。

 三人の銃口が同時に火を噴く……。

 三発とも当たったのか……誰かのが当たったのか……。

 六二番が撃ったから撃ったのか……撃たなくても撃ったのか……。

 士官を助けたかったのか……六二番に撃たせたかったのか……。

 銃を下ろしたアルクラスは思った。

 六二番は何をしていた……?

 なぜ士官を殺した……?

 何か……恨みが……?

 三人共、命令に従った……士官を殺したのは六二番……。

 ここはどこだ……何をしている……。

 しかしアルクラスには、一つだけ分かることがあった。

 ……自分が…………いる————。

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