第35話 秋空と紅葉と

 

 ◇◇⦅黒獅子の咆哮⦆騎士団本部別棟──



「ん〜〜。今日は本当に色々あったなぁ。初日でこれは流石に詰め込みすぎでは?」



 キースと別れた後、フィンは自室で荷物の整理などをして、今ちょうど自室に運ばれてきた夕食を取り終えたところである。



「バルコニーにはので、出ないでくださいね?」


 キースは去り際にそんな事を言っていた。



 床材でも腐っているのだろうか?綺麗に隅々まで掃除が行き届いたバルコニーは、とてもには見えない。



 彼は、少しくらいならいいだろうと、風にあたって頭を整理するためにバルコニーへと足を進める。



 色々あった一日だったが、今では夕陽もすっかり沈み、⦅秋晴れ⦆の済んだ夜空には、うっすら青く光る大きな大きな月が浮かんでいた。




「うわ〜、デケェ〜」



 6大陸中から学生の集まる学園だが、やはりそこは雰囲気作りのためなのか、入学式と卒業式は、例年⦅春⦆に行われることになっている。

 では、⦅⦆爛漫の学園都市チェイズを卒業したはずのフィンが何故こうして⦅⦆の夜空を見上げているのかと言われれば、それは単純に学園都市がいわゆる⦅南半球⦆に存在するためだ。


 

 ⦅天体⦆としての⦅シミュラクル⦆は、大陸の形などは違えど大きくは地球を踏襲したものになっていて、シミュラクルの世界に浮かぶ星々の位置も、地球で見ていると何ら変わらないし、月が浮かんでいる──ということもない。



 だが、シミュラクルの夜空は、彼が地球で見ていたそれとは大きく異なっている。



 この世界の⦅夜の闇⦆には、青や赤や紫といった様々な⦅色⦆がより強く現れるのだ。これは、大気中に含まれる成分が、地球のそれとは大きく異なることに由来しているそうだ。



 そんなこの世界特有の⦅宵闇色⦆で染められた夜空に無数の星々がまたたく光景は、おそらく地球の夜空を知る誰が見ても同じことを口にするだろう。フィンもまた、そうであった。



「すっごいキレイじゃん」



 彼は、自然と溢れ出る感情を抑えられずにそう言った。




 ◇◇◇




 ── 〜〜♪〜〜〜♪




 ── おうま〜がときは〜〜♪




 ── んんん〜ふふふふ〜〜♪




 ── あなたも〜わたしに〜♪




 ── かえる〜〜♪♪




 騎士団別棟の中庭に面した広い露天浴場に、少女の少し高い、透き通るような歌声が響いていた。



 言わずもがな、歌っているのはセリエだ。



 両脚を組み、浴槽のへりへ肘をかけて頬杖をつきながら歌っている彼女は、歌詞を全部覚えきっていないのだろう。所々にを挟んではいるものの、音程だけはしっかりととれているので、聞く人が聞けばなかなかに上手いと賞賛される事であろう。



 しばらくして歌に満足したのか、彼女は湯船の中で大きく身体を伸ばした。形の良い大きな胸が、ツンと上を向いてプカリと水面に顔を出す。



「ん〜〜、最高さいっこうですわ〜」



 彼女は目を閉じながらそう言って、鼻から大きく息を吸いこんだ。



 少しばかりトロりとして薄い桃色のついたお湯からは、ほのかに甘い香りがしている。




(こんなに素敵な場所を使わせて頂けるなんて、夢みたい。なんだか心も清められていくようですわ。それにこの泉質……レーヴェンのお屋敷でもう一度入りたいわね。


 このお湯はどうやって支度したものなのでしょう……、キースに聞けば教えてくれるのかしら?)



 そんな事を考えつつも、彼女は静かに夜の音に耳を傾けた。



 サワサワと風の音がする。



 更にしっかりと耳を澄ませれば、騎士団の建屋を挟んだ向こうにある街の大広場からだろうか、時折男たちの歓声、吟遊詩人の鳴らす楽器の音が微かに彼女の耳に届いた。



 きっと、迫る戦いに向けて自身達を鼓舞しているのだろう。それらの音は小さくも、どこか力強い。



 この街は素敵だ。自らが育った⦅レーヴェン⦆とは異なるが、古い歴史があり、人々は街を愛している。



 セリエはいま自分にできる精一杯で、彼等の力になってあげたい。そんなことを考えながら、しばらくその目をとじていた。




 セリエがふと、目を開いたときである。




 あら…………?




 目の前に、薄く透き通ったモヤのようなものが浮かんでいる。




(これは、何でしょうか?湯煙……かしら?)




 セリエがモヤに向けて手を伸ばすと、は触れられることを嫌がるかのようにクルリと彼女の手を避けて、宙に向かって昇っていく……




 自然と湯船から、彼女がそのモヤの飛んでいく方へと目を向けようとしたその時である──




「うわ〜、デケェ〜」




 彼女のいる場所のすぐ、聴き慣れた⦅従者フィン⦆のそんな声が聞こえてきたのは。



 ワナワナと、セリエは震える。



 あまりの、彼女は声の方を




「すっごいキレイじゃん」




 続けて、そんな信じられない言葉が彼女の耳に飛び込んできた。





「……フィン。貴方……、最低ですわ。」



 とうとう我慢の限界を迎えた彼女は、怒気のこもった声で静かにそう口を開く。




「……え。」


 彼女の⦅従者⦆は、驚いた様な間の抜けた様な、そんな声を上げている。




??」



 セリエは声の方を見ないまま、静かにそう彼に告げて、トプンと湯船に腰を沈めた。



「い、いや。見てないぞ?お、お……俺は見て──



「嘘おっしゃい!さっきはを私に向けて口にしておきながら!!……そういうところも許せませんわ!!」



 セリエは、彼の声がしたバルコニーの方をキッと睨みつける。

 そこには、空を見て固まっているフィンがいた。



「ちょ、フィン!!聞いているの!?どこ見てるのよ!!ちゃんと私の目を見て言いなさい!!」



 セリエは怒りが収まらず、フィンに自分のを見て話すよう命令する。



「い、嫌です!!絶対、絶〜〜対ぜ〜〜ったい嫌です!!そっちだけは絶対に俺は見ません!!」



 フィンは相変わらず空を見上げたまま彼女と視線を合わせようとはしない。




「わかりました、暫くそこで待ってなさい。直ぐに行ってお仕置きをします。逃げたら……。」



「──ッヒィイ!!」



 底冷えするようなセリエの声に、フィンは天を仰いだままバルコニーから動けない。



 しばらくしてバルコニーに現れたセリエはカンカンであり、フィンが⦅⦆を使ってその身の潔白を証明するまで、ついぞ彼の言葉を信じてはくれなかった。




 ◇◇◇




 ──次の日




 顔に大きな⦅紅葉もみじ⦆の跡をつけたフィンを見て、キースはため息をつきながら口を開いた。



「まさか、バルコニーに出たんですか?」


 だから危ないと言ったでしょうと彼は言う。




「うん、ひょうなんら。ふぉれでねキース、めちゃめちゃらいじなはなひがある大事な話があるんら。聞いれくれ。」



 フィンは喋りにくそうにしながらもキースに向けてその口を開いた。




「一応言っれおくけろ、あの⦅ひんがんふ真贋符⦆、らから。」


 



「……はい。わかっていましたけど?」


 キースはキョトンとした顔をしてフィンを見つめる。




「キース……。いや、キースふぁん。セリエの前ではれったい絶対アレがにへもろ偽物らって言わないで下ふぁい。マジれお願いしまふ。」



 必死の形相で懇願するフィンを見て、柄にもなく大爆笑してしまうキースなのであった。



 ◇◇◇

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